キングダム周辺の歴史

三國志や史記にはまるんだから、当然ながら、漫画のキングダムもはまるのは当然だ。秦の始皇帝が天下統一するまでを、ドラマ仕立てで描いている漫画であるが、これははまる。下僕出身の信がのし上がるストーリーであるが、人間模様がよく描かれていて、見ていて勇気がわくし、感動して涙もする。キングダムはかなりの着色があるものの、少し整理してみた。

【春秋時代の7か国】
当時の人口は2~3千万人という推測がある。燕と韓が300万人、秦と趙が500~600万人、斉が300~400万人、魏が300~400万人、楚が500万人とのことで、史記にある兵力では、5人に1人が兵になるという記述から推計しているとのこと。
1戸の平均人員は5人で、そのうち2人を兵になったという説もある。なお、孟子の記載では、1戸に8人だったというものもあるようだ。なお、7か国以外にも、宋、衛、中山、東西周、蜀などの小国を加えて3千万人ほどでは、ということである。
となると、白起が趙兵40万人を生き埋めにしたというのは、趙の人口の1割弱になるので、すさまじいい数ではある。

○燕
前1100年頃から前222年。首都は薊(北京市房山区)
時の名宰相の管仲に指摘された桓公は、一部自領を切り取って燕に授けたという。これにより桓公は諸侯の信頼を集め、ますます名声を高めたとされている。
「まず隗より始めよ」として有名な逸話があるが、郭隗の言う通りに、燕には名将楽毅・蘇秦の弟の蘇代など、続々と人材が集まってきた。また、時期は不明であるが、昭王は不老不死の仙人を求めて東方の海上に人を派遣したという。これらの人材を使い、昭王は燕の改革・再建を進めた。


○趙
前403年から前228年。首都は邯鄲(河北省邯鄲市)。
廉頗(れんぱ)(Lían Pō、生没年不詳)は、藺相如との関係が「刎頸の交わり」として有名。
藺相如(りん しょうじょ)(Lìn Xiāng-rú、生没年不詳)は、戦国時代の末期の恵文王の家臣。「完璧」や「刎頸の交わり」で知られる。
完璧とは、趙の宝物「和氏の璧」を巡り、秦が璧と自国の十五城との交換を申し出てきた。和氏の璧が天下に知られた名宝とはいえ、十五城といえば小国にも匹敵する程であり、条件としては良いが、相手は常に侵略の機を狙ている強国秦。実態はただの口約束で、宝物を要求しているだけである可能性が高い。「使者が居ないのなら私が秦に出向き、城を受け取れなければ『璧を完うして帰ります』(璧を全く損ねることなく帰る=必ず持ち帰るの意、「完璧」の語源)」と申し出、交渉役に抜擢された。藺相如は秦都咸陽へ入り、秦の昭襄王と対面する。そして和氏の璧を渡すが、受け取ったとたん寵姫や群臣に見せびらかし続け、城の話をする気配が無い昭襄王の態度に、城を渡す気が全く無いと判断した藺相如は、「実は小さい傷があるのです。よろしければお教えいたしましょう」と近寄って璧を奪い取り、柱の側へ駆け寄った。趙王は5日間身を清めたが、秦王はそれをしないと諫め、秦王は5日間身を清めた。その間に、趙へ和氏の壁を持ち帰らせた。秦王が身を清めた後、「歴代の秦の王において、約束を固く守った王を聞きません。秦王様に城を渡すつもりが無いように見えたので、欺かれることを恐れて既に趙へ持ち帰らせました。十五城を先に渡せば、趙が璧を惜しむことなどありません。しかし重ね重ねの無礼の償いとして、私には死罪を賜りたい」と述べた。藺相如の剛胆さに感嘆した昭襄王は「殺したところで何も得られず、趙の恨みを買うだけである」とこれを許し、璧も城も渡さないということで収まり、藺相如も饗された後に無事帰国した。趙では、恵文王が秦から帰って来る藺相如の遺体を国葬で迎えようと準備していたが、生きて帰ってきたことを喜び、使者のために仮の家臣としていたのを正式に自らの家臣とした。藺相如は胆力と知恵だけを武器に、強国秦に一歩も退かずに璧を守り通し、趙の面子も保ったのである。正しく「完璧」(中国語では「完璧帰趙」)な対処といえよう。

もう一人の三大天が趙奢だ。
趙奢(ちょう しゃ)(生没年不詳)は、政治家・将軍。恵文王に仕えて閼与の戦いで秦の軍勢を撃退し、馬服君に封ぜられた。趙括、趙牧の父。紀元前280年、趙奢は将軍として斉の麦丘を攻め取る戦功を上げ、武人としても着目されるようになる。紀元前269年、秦は将軍公孫胡昜に命じて趙南部の閼与の地に侵攻する。廉頗と楽乗は救援は不可としたが、趙奢は「閼与への道は険しくて狭いので、丁度二匹のネズミが穴の中で1対1で戦うようなものです。将が勇敢な方が勝ちます。」と説き、恵文王はその意見を容れて趙奢を将軍に任じて、閼与への救援に向かわせた。趙奢は邯鄲から30里の地に塁壁を築いて進軍を止め、閼与への救援を勧める者を斬った。その一方で秦軍の間諜をもてなして帰すなどして、秦軍の油断を誘う。そしてそれを見計らった所で閼与への救援へと向かい、軍士の許歴の進言を受けて北山の地をいち早く占拠し、秦軍に対して一気に攻撃をかけて秦軍を敗退に追い込んだ。趙奢は恵文王からその戦功を大いに称えられ、廉頗や藺相如と同じ地位に昇格し、馬服君に封じられる。秦はこの三人が健在の間は、趙に攻め込む事が出来なかった。
趙奢の子の趙括は、幼少の頃より兵法を学び時には父を論破するほど兵法に通じていたが、趙奢は趙括を評価せず「あれの兵法は口先だけのものだ。戦争とは生死のかかったものであるのに無造作に論じている。趙括が将軍になれば趙を滅ぼす。」とまで言い切り、妻に対しても決して将として用いさせないように、と遺言して亡くなった。しかし、長平の戦いにおいて孝成王は秦の宰相・范雎の策にはまり、司令官の廉頗を更迭して趙括を新たに任命した。だが、机上の兵法家でしかなかった趙括は秦の名将白起にあえなく敗れ戦死し、趙軍は兵士40万人を坑殺されて一気にその勢力を失った。なお、趙括出陣の際に趙括の母は亡夫の言葉に従い、孝成王に対して趙括を将軍に用いないよう懇願した。孝成王がこれを拒否すると、失敗した場合の責任を一族に取らせない事を約束させたために、一族が滅亡する事はなかった。なお、後漢の成祖光武帝に仕えた将軍馬援や蜀漢の馬超の馬氏は趙奢の末裔であり、その称号である馬服君の馬をとって氏としたと言われる。


李牧(り ぼく) (?- 紀元前229年)は、名は繓(さつ)、字は牧。白起・王翦・廉頗と並ぶ戦国四大名将の一人。『史記』「廉頗藺相如列伝」において、司馬遷は李牧を「守戦の名将」と位置づけている。
龐煖(ほうけん)(紀元前4世紀末 - 紀元前3世紀半ば)は、将軍のほか、道家(思弁的哲学者)・縦横家(弁論家)・兵家(軍事思想家)。龐煥(ほうかん)あるいは龐子(ほうし、「龐先生」の意)とも。道家思想を修め、縦横家および兵家としての著作をそれぞれ執筆し、悼襄王のもと名将廉頗出奔後の趙の筆頭将軍として合従軍を指揮するなど、文武に優れた才人であった。

紀元前236年、秦は中華の統一に本腰を入れ始めた。趙の将軍の龐煖が燕に侵攻し、国内が手薄になっている隙を狙い趙へ侵攻した。総大将は王翦、副将は桓齮、末将は楊端和である。まず、鄴の周辺の9城を落とした。そして、全軍を1軍として閼与と轑陽を落とした。18日後、王翦は兵糧の問題上、軍の10分の2の精鋭部隊を率い、鄴や安陽を落とした。しかし、その後、李牧により城を取り返すなど盛り返したが、陰謀により李牧が殺され、その後、趙は滅びた。


○斉
前1046年から前221年。首都は営丘(臨淄)(現在の山東省淄博市臨淄区)。
桓公は「春秋五覇」の一人に数えられた。前391年、姜斉32代君主の康公のとき、当時権勢を振るっていた田和が康公を海上の孤島に追放、康公は食邑として城を1つ与えられ、祖先の霊を祀ることだけを許された(「田氏代斉」)。田和は自立して斉の君主となり、前386年、周の安王により諸侯の一人として認められた。田和は、国号を姜斉と同じく「斉」とした(「田斉」)。前344年、斉侯だった田因は自ら「斉王」を名乗り(斉の威王)、周王室から独立した。以後、「戦国七雄」の一国として独立を維持したが、前221年、秦の王賁・蒙恬らの斉攻略により滅亡した。
紀元前9世紀の胡公の代に薄姑(臨淄の西北に50里の場所)に遷都したが、短期間に終わり、次代の献公の代に営丘に戻した。臨淄(営丘)は東方の大国の首都として、戦国時代には当代随一の都市として繁栄した。



○韓
前403年から前230年。首都は、 陽翟(河南省禹州市)、 新鄭(河南省新鄭市)
紀元前375年に鄭を滅ぼしたものの、戦国時代の韓は七雄の中では最弱であり、常に西の秦からの侵攻に怯えていた。しかし申不害(? - 紀元前337年)を宰相に抜擢した釐侯の治世は国内も安定し、最盛期を築けた。次代宣恵王が紀元前323年に初めて王を名乗ったものの、申不害の死後は再び秦の侵攻に悩まされた。そのような事態を憂慮した公子韓非はこの国を強くする方法を『韓非子』に著述した。しかし韓非の言説は母国では受け入れられず、皮肉なことに秦の始皇帝により実行され、韓を滅ぼす力となった。また韓は鄭国を送って秦に灌漑事業を行わせ、国力を疲弊させようとしたが発覚した。この工事で作られた水路はのちに鄭国渠と呼ばれ、中国古代3大水利施設の一つとなり、これもまた皮肉にも秦を豊かにさせる結果となった。


○魏

前403年から前225年。首都は、安邑(山西省夏県)、大梁(河南省開封市)。
紀元前453年に韓・趙と共に晋から独立し、その地を三分した。このため、この三国のことを三晋という。自国の宰相であった魏斉にかつて辱められた食客の范雎を、遠交近攻策の提唱などで重臣に採用した秦から圧迫され、秦への対策では苦しい状態が続く。しかし、公子の無忌こと信陵君が紀元前247年に五か国連合軍を率いて、秦の侵攻軍を破った。信陵君は、その後は勝手に軍を動かしたと糾弾されたため趙に身を隠した。のちに魏へ召還されても兄の安釐王の猜疑は深く、要職から遠ざけられて、酒びたりになり、そのまま死去した。
信陵君の死後、魏は秦に抵抗できず、次々と領土を削られる。更に秦王政(後の始皇帝)の治世下と成って、ますます強勢化した秦から攻められた。


○楚
紀元前11世紀から前223年。首都は、丹陽(河南省淅川県)、(荊州市荊州区)、陳(河南省周口市わい陽区)、寿春(安徽省寿県)。
紀元前278年に白起により首都の郢を陥され、陳に遷都した。秦により滅亡した。伍子胥が活躍したのが前500年から前490年ぐらいだから、秦の統一から270年ぐらい前のこと。


○秦
昭王は、第28代君主。前325生まれ。前306から前251まで即位し、74歳で没した。在位55年は当時としては非常に長く、秦史上最長。昭襄王とも呼ばれる。始皇帝の曾祖父(ひいおじいさん)。
始皇帝は、第31代君主。前259生まれ。前246年から前210年まで即位し、49歳で没した。中国を最初に統一した王。嬴政または趙政。



【秦の6代将軍】
白起、王騎、
王齕司馬錯、胡傷、摎である。ちなみに、キングダムでの新6大将軍は、蒙武楊端和王翦桓騎が選ばれ、六将最後の一席は空席である。
なお、
秦の白起、王翦のほか、趙の李牧、廉頗が戦国四大名将と言われているようである。

白起(はくき)(前332年生まれ - 紀元前257年11月。75歳で自決)は、公孫起とも表記される。秦国郿(現在の陝西省宝鶏市眉県)の人。昭襄王に仕え、各地を転戦して趙・魏・楚などの軍に数々の勝利を収め、秦の領土拡大に貢献した。紀元前294年、左庶長に任ぜられ、韓の新城を攻めた。紀元前293年、左更にすすみ、韓・魏を攻め、伊闕の戦いで24万を斬首した。また、魏将公孫喜を捕え、5城を落とした。紀元前292年、大良造に任じられ魏を攻め、大小61城を落とした。紀元前278年、楚を攻め、楚の首都郢を落とした(鄢・郢の戦い)。このため、楚は陳に遷都した。同年、武安君の称を賜っている。紀元前273年、魏の華陽を攻め、韓・魏・趙の将軍を捕え、13万を斬首した(華陽の戦い)。また、趙将賈偃と戦い、士卒2万を黄河に沈めた。紀元前264年、韓の陘城を攻め、5城を落とし、5万を斬首した(陘城の戦い)。紀元前260年、長平の戦いでは、巧みな用兵で趙括率いる趙軍を兵糧攻めに追い込み大勝した。このとき20万余りに及ぶ捕虜の兵糧が賄えず、反乱の恐れがあるとして少年兵240人を除く全てを生き埋めにした。しかし、本国にあった宰相范雎が、長平の戦いでの白起の活躍を自らの地位を脅かすものであるとして警戒し、さらに趙の首都邯鄲に攻め込もうとする白起を押しとどめ、わずかな条件で趙と和議を結んだ。紀元前259年、秦は王陵を起用して邯鄲を包囲し、翌紀元前258年には増派もして、さらに指揮官を王齕に交代させたが、趙の援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君に大敗北を喫した。この危機を打開するために白起に出兵するよう命令が下るが、白起は一連の范雎の行動に不信感を抱き、病と称して出仕を拒んだ。『戦国策』によれば、この時慌てた范雎と昭襄王が自ら指揮を乞うも、白起は趙が国力を回復して討ち難いとして応えなかったうえ、王齕の敗戦を「だから言ったことではない」と批判したという。だが、これがさらに立場を悪くし、紀元前257年、ついに昭襄王によって自害させられた。自害の直前、白起はこのように自問した。「我に何の罪あるか。なぜ自害せねばならぬのか」と。しばらく考えて、「我は固より死ぬべきだ。長平の戦いにおいて降伏兵数十万余りを一夜で生き埋めにした。それでも罪にならないのか。天に対し罪を犯したのだ」と嘆息した。秦の民衆は彼の死を哀れみ、各地に廟を建てて祀ったという。司馬遷は、『史記』において、白起を「料敵合変、出奇無窮、声震天下(敵の能力を図って作戦を変え、奇策を無限に繰り出した。彼の勢威は天下を震わせた)」と評している。一方で、その伝の末尾に「非常に有能な将軍であったが、(身内であるはずの)范雎の患いから逃れることができなかった」と記し、王翦と共に優れた人物でありながら、欠点もあった人物であったと評価する。のち、三国魏の将軍鄧艾が讒言をうけて殺される前に、自らを白起になぞらえて身の危機を悟ったとの記述が『三国志』にある


王騎(王齮)(おうき) (?- 紀元前244年)は、同じ秦の将軍、王齕との同一人物説がある。紀元前246年(秦始皇元年)、秦王政が即位すると、蒙驁・麃公らと共に将軍に任じられる。紀元前244年(秦始皇3年)、同僚の蒙驁が韓を攻め13城を取るも、同年に死没。なお、『史記』の「秦本紀」に登場し長平の戦いなどで活躍した将軍王齕は「秦始皇本紀」では一切触れられず、逆に「秦始皇本紀」で初めて現れる王齮は「秦本紀」には登場しない。遅くとも南朝宋代には王齕と同一人物である可能性が論じられており、裴駰の『史記集解』は徐広の説を引いて、「齮」字について「一に齕に作る」と述べている。


王齕(おうこつ)(生没年不詳)は、昭襄王・荘襄王に仕えた。紀元前244年に死没した王齮との同一人物説がある。紀元前260年(昭襄王47年)、趙を討って、上党を取った。趙の反撃に対し、秦では内密に白起を増援させて上将軍とし、王齕をその副将とした。長平の戦いでは、趙を大いに破った。紀元前259年(昭襄王48年)、白起に代わって、将として趙の武安君を討ち、皮牢を取る。紀元前258年(昭襄王49年)、王陵が趙の邯鄲を攻めて増軍もしたが、戦況が思わしくないので王齕が代わって将となる。紀元前257年(昭襄王50年)、邯鄲を攻めたが落とせないので、汾城郊外の秦軍と合流した。その後、魏を攻め、首を斬ること6千、魏軍は敗走し、黄河で6万人が流れ死んだ。汾城も攻め落とし、張唐に従って寧新中を抜いた。紀元前247年(荘襄王3年)、韓の上党を攻めて、太原郡を置いた。魏の信陵君が五カ国連合軍を率いて秦を攻めてきたのを蒙驁と迎え撃ったが敗れた。秦軍は河内から河外(河南の地)に退却し、その軍を解散した。なお、『史記』「秦本紀」で活躍した王齕は「秦始皇本紀」では一切触れられず、逆に「秦始皇本紀」に初めて現れる将軍王齮は「秦本紀」には登場しない。遅くとも南朝宋代には王齕と王齮が同一人物である可能性が論じられており、裴駰の『史記集解』は徐広の説を引いて、「齮」字について「一に齕に作る」と述べている


司馬錯(しば さく)(生没年不詳)は、長平の戦いで白起の副将を務めた司馬靳の祖父、前漢の史家司馬遷の八世の祖。恵文王・武王・昭襄王の3代に仕えた。蜀の併合と経営に尽力し、また楚や魏との戦いで功績を挙げ、秦の勢力拡大に貢献した。紀元前316年、蜀で内乱が起き、また韓が攻めてきた。恵文王は対応を決めかねたので、張儀と司馬錯に意見を述べさせた。張儀は「征蜀に利益はない。韓を討った上でそのまま周を脅迫し、天下に号令をかけるべきである」と主張した。これに対し、司馬錯は「秦はまだ弱いので、先ずは広大な蜀を手に入れて国力の増強を図るべきである」と主張し、併せて周を脅迫することの不利益を述べた。恵文王は、司馬錯の意見を採用し、司馬錯が蜀を攻め滅ぼした。これにより、秦は、国土が広がり、また楚に対しては背後をとる形になって優位に立った。紀元前311年、楚を討ち、商・於を取った。紀元前310年、蜀の国相陳壮が謀反を起こして蜀侯通を殺したので、甘茂・張儀と共にこれを鎮圧した。紀元前301年、蜀侯惲(恵文王の子)が謀反を起こしたので、これを鎮圧した。紀元前291年、魏を討ち、軹・鄧を取った。また、白起と共に垣の城を落とした。紀元前289年、魏を討ち、垣・河雍・決橋を取った。紀元前286年、魏の河内を攻め、魏は安邑を秦に献じた。紀元前280年、隴西から兵を出して蜀に出て楚を討ち、黔中を取った。また、罪人を赦して南陽に移した。


胡傷(こしょう)(生没年不詳)は、公孫 胡昜(こうそん こしょう)ともいわれ、武将・客卿(かくけい)。またの名を胡傷とも。華陽の戦いでは、紀元前273年、趙と魏は韓の重要な城邑である華陽(現在の河南省鄭州市新鄭市)を攻めた。韓の相国は陳筮に頼んで秦に救援を求め、秦の昭襄王は白起を派遣し、秦の宰相魏冄は客卿の公孫胡昜の軍を韓の救援に派遣した。秦軍は8日で華陽の戦場に到着し、不意を突かれた趙と魏の連合軍は秦軍に敗退し、魏は13万の将兵が首を討たれ、3名の将軍が捕虜となり魏将の芒卯は敗走し、趙将の賈偃も秦軍に敗れ2万の趙兵が黄河に沈められた。秦はこの勝ちに乗じて魏に攻め入り、公孫胡昜は巻・蔡陽・長社を取り魏は南陽を差し出して秦と和を結んだ。閼与の戦いでは、紀元前269年、公孫胡昜は趙の閼与を攻めるが、趙奢の奇策にはまり、大敗した。この敗戦以後彼に関する詳細や記録は歴史資料には見られない。


摎(きょう)(生没年不詳)は、楊摎(よう きゅう)であり、中国の戦国時代末期から始皇帝在位期の秦の将軍。紀元前256年、楊摎は将軍として韓を攻撃し、陽城・負黍を取り、首級4万を挙げた。さらに趙を攻撃して20県あまりを奪い、斬首した者および捕虜は9万に達した。ときに西周の文公は諸侯の軍を結集し、伊闕を出て秦を攻撃して、陽城との連絡路を遮断しようとした。楊摎が昭襄王の命を受けて西周を攻撃し、これを降伏させた。紀元前254年、魏を討ち、呉城を奪った。紀元前219年、東方巡幸する始皇帝が瑯琊(現在の山東省青島市黄島区)において瑯琊台ならびに瑯琊台刻石を設置した際、随行して瑯琊台刻石に名を列せられた人物らの中に五大夫楊摎の名が見られる。


函谷関の戦い (紀元前241年)が秦と合従軍との最後の戦いである。
紀元前242年、秦の蒙驁が魏を攻撃し、酸棗・燕・虚・長平・雍丘・山陽など20城を奪い、東郡を置いた。これにより斉を除く、五国と秦は国境を接するようになった。おそらく、これが函谷関の戦いの発生の原因であると考えられている。紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕は、秦を共同で攻撃するために、総大将を楚の考烈王、総司令を春申君として合従軍を組んだ。然し、実際の合従軍の盟主は趙だとも考えられている。その理由として、まず楚はこの年に郢から寿春に遷都したことが挙げられる。そのため、楚は合従軍に大軍を送ることが不可能であったと考えられている。また、趙は長平の戦いや邯鄲の戦いなど、何度も秦に対して敗戦を重ねていて、秦への恨みが深かったからである。

合従軍は秦の寿陵を取り、函谷関を攻撃した。合従軍に対して、秦軍は函谷関で迎え撃った。全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っている呂不韋と考えられている。また、函谷関で秦軍の指揮を執った将軍は不明である。然し、過去の戦歴等を考慮すると、蒙驁が指揮を採ったと考えてもおかしくはない。また、今回の合従軍では以前(函谷関の戦い(紀元前318年)・函谷関の戦い(紀元前298年)・河外の戦い)とは異なり、函谷関を攻める軍以外の、別働隊を用意していた。趙の龐煖が総大将として、趙・楚・魏・燕の四国の精鋭部隊を率いて蕞(現在の始皇帝陵の付近)を攻めたが、落とせなかった。蕞は秦王都咸陽にかなり近く、秦は滅亡の危機に陥っていた。函谷関でも秦軍が攻撃すると、合従軍は敗北した。合従軍は、秦の味方である斉を攻撃し、饒安(現在の河北省滄州市塩山県の南西)を占領して解散した。

蒙驁(もうごう)(? - 紀元前240年)は、蒙武の父。蒙恬・蒙毅の祖父。斉の出身。
斉から、秦へ移る。紀元前249年(荘襄王元年)、韓を伐って成皋と滎陽を取る。紀元前248年(荘襄王2年)、魏の高都と汲を攻めた。また、趙の楡次・新城・狼孟とを攻めて37城を得る。

紀元前247年(荘襄王3年)、魏の信陵君が五国連合軍を率いて秦を攻めてきたのを王齕と迎え撃ったが敗れ、秦軍は河内から河外(河南の地)に退却し、その軍を解いて去ってしまった。
紀元前246年(秦王政元年)、晋陽で反乱が起こり、これを平定した。紀元前244年(秦王政3年)、韓を攻めて13城を取る。紀元前242年(秦王政5年)、魏を攻めて、酸棗など20城を奪い平定し、はじめて東郡を置いた。
紀元前241年(秦王政6年)、楚・趙・魏・韓・燕の五国合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退した(函谷関の戦い)。このとき、函谷関で指揮を執ったのは、過去の戦歴等を考慮すると、蒙驁であったとする説がある。


張 唐(ちょうとう) (生没年不詳)将軍で政治家。昭襄王、始皇帝に仕えた。キングダムでは、函谷関の戦いで関を守った将である。
紀元前258年(昭襄王49年)10月、張唐が魏を攻めたが部将の蔡尉が陣を捨てて守備しなかったので、帰還後に蔡尉の首を斬った。
紀元前257年(昭襄王50年)10月、鄭を攻めこれを攻め落とした。
紀元前257年(昭襄王50年)12月、邯鄲を攻め落とせず合流した王齕を従え、寧新中を攻め落とした。寧新中は安陽と名を改めた。(『史記』秦本紀)
燕の宰相として派遣されそうになる。秦は剛成君蔡沢を燕に対する使者とし燕との同盟を画策する。3年後、燕は太子丹を人質として派遣した。秦は張唐を燕の宰相として派遣しようとしたが、張唐は文信侯呂不韋の説得を拒絶し燕に行こうとしなかった。しかし、呂不韋に使えていた甘羅(甘茂の孫)の説得により意を翻し、燕に行く準備をした。だが、こののち甘羅が趙におもむいて秦趙間の同盟を取り計らい、趙と燕と戦わせる工作を行ったため趙は秦に5城を割譲し、秦は燕に太子を帰した。(『史記』樗里子甘茂列伝)
秦が張唐を燕の宰相としようとした時期は、文信侯呂不韋が秦の相国であった時期であり、かつ直後に趙が燕を攻めたということで、『史記』趙世家も参照するなら趙の李牧が燕を攻撃した趙の悼襄王二年(紀元前243年)の直前であると思われる。だが『史記』燕召公世家には、燕太子丹が燕王喜二十三年(紀元前232年)に秦から逃げ帰ったという記述がある。燕太子丹が2度人質になったことも考えられるが、どちらかの記述に何らかの誤りがあると考えることもできる。



蒙武(もうぶ)(生没年不詳)は、蒙驁の子、蒙恬・蒙毅の父。
紀元前224年、李信と蒙恬を破った楚の項燕が秦に侵攻してきたので、蒙武は王翦の副将となって共にこれを破り、項燕は自殺した。
紀元前223年、再び蒙武は王翦の副将となって共に楚を攻め、楚王負芻を捕え、楚を滅ぼした。

王翦(おうせん)(生没年不詳)は、頻陽県東郷(現在の陝西省渭南市富平県の北東)の人。王賁の父。王離の祖父。秦王政に仕えた戦国時代末期を代表する名将で、趙・楚を滅ぼすなど、秦の天下統一に貢献した。

楊 端和(よう たんわ/よう たんか)(生没年不詳)は、秦王政に仕えた。
紀元前238年(始皇9年)、魏の衍氏を攻めた(衍氏の戦い)。紀元前236年(始皇11年)、王翦・桓齮とともに趙の鄴を攻めた(鄴の戦い)。

紀元前229年(始皇18年)、河内の兵を率いて趙の首都である邯鄲を囲む。翌年、王翦と羌瘣が趙を平定した。


羌瘣(きょう かい)(生没年不詳)は、秦王政に仕えた。
紀元前229年(始皇18年)、王翦・楊端和と共に、趙を攻めた。
紀元前228年(始皇19年)、王翦と共に趙の幽繆王を東陽で捕らえ、趙を滅ぼした。さらに、兵を率いて燕を攻めんと、中山に駐屯した。


桓齮(かんき)(?- 紀元前233年?)は、秦王政に仕え、秦の天下統一に貢献した。
紀元前237年(始皇帝10年)、将軍になる。
紀元前236年(始皇帝11年)、王翦・楊端和らと趙の鄴を攻めて、先ずその周辺の9城を取る。桓齮はそこに留まり、王翦が一人で閼与・鄴などを落とす。
紀元前234年(始皇帝13年)、趙の平陽・武城を攻めて、趙将の扈輒を武遂で討ち、趙兵の首を斬ること10万であった。
紀元前233年(始皇帝14年)、再び趙を攻めて、平陽と武城を平定した。さらに、赤麗と宜安を攻め、宜安ではその将軍を討ったものの、趙の大将軍の李牧に肥下の戦いで敗れた。『戦国策』趙策四によれば、この敗戦で李牧に討たれたとされる。一方、『史記』廉頗藺相如列伝では大敗したのち、敗走したと記されている。桓齮・樊於期同一人物説がある。『史記』においてはその後の経歴は不明であるため、中国の歴史家楊寛は著書『戦国史』で、敗戦の処罰を恐れた桓齮は燕に亡命し、樊於期と名を改めたという説を唱えた。


騰(とう)(生没年不詳)は、中国戦国時代の韓の将軍で後に秦に降った。内史は官名であるが、姓氏は不明であり、内史騰(ないしとう)とのみ呼ばれる。紀元前231年、秦が韓より南陽の地を譲られると、南陽郡が置かれ韓の降将・騰は仮の郡守となる。紀元前230年、騰率いる秦軍10万が韓に攻め込み、韓王安は捕虜とされた。これにより韓は滅亡し、潁川郡として秦の統治下に置かれた。紀元前229年、楚国を攻略する準備のため南郡の郡守に任命され、駐留する。紀元前227年4月、騰は法を厳格に執行するため、郡に文書を発布し人々に法を行き渡らせた。紀元前221年、秦が六国を統一し、騰は内史に任命された。騰は恐らくこの年のうちに亡くなった。


李信(りしん(生没年不詳)は、字は有成。秦王政に仕え、諸国の統一に貢献した。『史記』白起・王翦列伝および刺客列伝において、その事績が記されている。紀元前229年~紀元前228年、王翦が数十万の軍の指揮を執り趙と対峙した時、李信は趙の太原・雲中に出征した。紀元前226年、王翦と王賁は、前年の燕の太子丹が主導した荊軻による秦王政暗殺未遂事件の報復として、燕の国都の薊を攻略し、燕王喜と丹を遼東に敗走させた。この際、李信は数千の兵の指揮を執り、燕軍を追撃し、丹の軍を衍水で破り、丹を捕虜にした
紀元前225年、秦王政は、楚を征服したいと思い、対楚戦にどれだけの部隊が必要かを諮問した。李信は、「20万」が必要だと語った。一方で王翦は、「60万」が必要だと語った。政は、王翦が耄碌(もうろく)したものと捉え、李信の案を採用して侵攻を命じた。李信は総兵数20万を二つの部隊に分け、李信は平輿(現在の河南省駐馬店市平輿県)で、蒙恬は寝丘(現在の安徽省阜陽市臨泉県)で楚軍に大勝した。さらに、李信と蒙恬は、楚の国都の郢(寿春、現在の安徽省淮南市寿県)周辺を攻め、再び楚軍を破る。しかし、城父で李信と蒙恬が合流したところを、三日三晩追跡して来た項燕が指揮を執る楚軍に奇襲され、2カ所の塁壁を破られ、7人の武将を失う大敗を喫した(城父の戦い)。『史記』白起・王翦列伝によるとこのとき、昌平君が配されていた後方の秦領、旧楚都の郢陳(現在の河南省周口市淮陽区)で項燕に呼応するかの様に反乱が起き、李信が指揮を執る秦軍はこの鎮圧の為に西へ向かおうとした所、楚軍の奇襲を受け壊滅したとある。翌年、李信と交代した王翦と蒙武が60万の兵の指揮を執り楚を攻め、楚王負芻を捕虜にし、楚を滅亡させた。紀元前222年、王賁と共に燕の遼東を攻め、燕王喜を捕虜とし、これを滅ぼした。紀元前221年、王賁・蒙恬と共に斉を攻め、これを滅ぼした。


王賁(おうほん)(生没年不詳)は、字は典。頻陽県東郷(現在の陝西省渭南市富平県の北東)の人。王翦の子。王離の父。秦王政に仕え、魏・燕・代(趙)・斉を滅ぼして、秦の天下統一に貢献した。
紀元前226年(始皇21年)、父の王翦と燕を攻め、燕都の薊を陥落させ、燕王喜を遼東に敗走させた。また、楚を攻め、楚の軍を破った。紀元前225年(始皇22年)、魏を攻め、魏都の大梁に黄河の水を引いてこれを包囲した。大梁城が損壊したため、魏王假は降伏し、魏を滅ぼした。紀元前222年(始皇25年)、李信と共に燕を攻めた。遼東に進軍し、燕王喜を捕え、燕を滅ぼしたさらに、代(趙の滅亡後に趙王の兄が代郡に逃れて樹立した政権)を攻め、代王嘉を捕え、代を滅ぼした。紀元前221年(始皇26年)、李信・蒙恬と共に斉を攻めた。燕を南下して、斉都の臨淄を攻撃し、斉王建を降伏させ、斉を滅ぼした。かくして、秦は天下を統一した。紀元前219年(始皇28年)、通武侯に封じられる。また、この年の始皇帝の東方巡幸に随行し、瑯琊台の瑯琊台刻石に息子の王離と共にその名が列せられる。子孫は、いわゆる琅邪王氏・太原王氏になったとされる。



蒙恬(もうてん)(Méng Tián、? - 紀元前210年)は、蒙驁の孫、蒙武の子、蒙毅の兄。匈奴討伐などに功績を挙げ、弟とともに始皇帝に重用されたが、趙高たちの陰謀によって扶蘇と共に自殺させられた。
蒙氏は、祖父の代に斉より秦へ移り住んだ。蒙恬は当初は文官として宮廷に入り、訴訟・裁判に関わっていた。紀元前225年、李信の副将として楚討伐に加わり、寝丘を攻めて大勝した。その後、城父で李信と合流したが、後方の郢陳で起きた反乱鎮圧に向かう李信の軍を三日三晩追い続けていた楚の項燕(項羽の祖父)に大敗した(城父の戦い)。紀元前221年、家柄によって将軍となった。李信・王賁とともに斉の討伐に赴き、見事に斉を討ち滅ぼした。その功績により、内史とされた。紀元前215年、30万の軍を率いての匈奴征伐では、オルドス地方を奪って匈奴を北へ追いやると、辺境に陣して長城、直道(直線で結ぶ道)の築造も担当した。これらの軍功に始皇帝からも大いに喜ばれ、弟の蒙毅も取り立てられ、蒙恬が外政に蒙毅が内政に両者とも忠誠と功績を認められた。この頃、始皇帝に焚書を止める様に言って遠ざけられた長子の扶蘇が蒙恬の元にやって来て、扶蘇の指揮下で匈奴に当たるようになった(扶蘇は始皇帝に疎まれたために蒙恬の所へ送られたとなっているが、蒙恬の監視役であったとも考えられる)。
紀元前210年、始皇帝が死ぬと、趙高・李斯の二人は共謀して、始皇帝の末子胡亥を皇帝に立てて、自らの権力を護ろうと画策した。趙高らは始皇帝の詔書を偽造し、扶蘇と蒙恬に対して自殺を命じた。蒙恬はこれを怪しみ、真の詔書であるかを確かめるべきだと主張したが、扶蘇は抵抗せずに自殺した。蒙恬は陽周の監獄に繋がれ、趙高により蒙氏は日夜誹謗され、その罪過を挙げて弾劾された。子嬰が胡亥を諫めたが、聞き入られることはなかった。その後、胡亥(二世皇帝)からの自殺命令が届くとやむを得ず、毒を飲んで自殺した。蒙恬は自殺する際、「私に何の罪があって、過ちもないのに死ななければならないのか」と自らに問いかけて嘆き、それから「私の罪が死に当たるのも無理はない。長城を築くこと数万里、その途中で地脈を絶ったのだろう。それこそが私の罪である」と言って毒を仰って自殺した。これに対して、司馬遷の評は「私は、蒙恬が秦のために築いた長城や要塞を見たが、山を崩し谷を埋めて道路を切り開いたこと、まことに民の労力を顧みないものである。天下が治まった当初、負傷者たちの傷はまだ癒えていなかった。蒙恬は(始皇帝に信頼された)名将であるのだから(始皇帝に諫言して)、この時こそ、人民の危機を救い、老人を養い孤児を憐み、民の融和を図るべきであった」と厳しく批判した。蒙恬の死後、蒙毅も趙高により言いがかりを付けられて殺害され、蒙氏一族は皆殺しにされた。

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昭王(昭襄王) 前306即位  →  →  →  →   → 前251没            
始皇帝              前259生  前246即位 →  前221年
中華統一
前210没  前206
秦滅亡 
 
前306越滅亡                         
白起  前332生  →  →  →  前260
長平の戦 
前257年自決             
王騎    ?  →  →  →  →  前244没           
王齕    ?  →  →  前260
趙を討つ 
→  前247 5国
連合軍に敗戦 
没年不明         
司馬錯 前316
蜀に侵攻
  前280蜀から
楚に侵攻
没年不明              
胡傷       前269趙に大敗、以後歴史なし              
            ?→ 前256
韓・魏を攻撃
  前219始皇帝
東方巡行に同行
没年不明  
                         
李牧        →  →  →  前229没       
楽毅       前284年
斉の首都
へ侵攻 
前279年
趙へ亡命 
               
范雎  ?生  →   前255没            
             
蒙驁 ?  →  →  →  →  →  前240没          
蒙武               前223
楚を滅ぼす
没年不明    
王翦           前236
趙に侵攻
前228
趙を平定
没年不明    
楊 端和                 前236
趙に侵攻
前228
趙を平定
     
羌瘣         前228
趙を平定
 
     
桓齮             前236
趙破れ戦死?
燕に亡命説あり      
      ? 前231
魏から投降
前221
南郡郡主&没
     
李信           ?→       前226燕攻略
前225楚に大敗
前221斉平定
没年不明    
王賁           ?→ 前225魏平定
前226円攻略
前221斉平定
前219始皇帝
東行巡行に同行
没年不明  
蒙恬           ?→       前225楚に大敗
前221斉平定
前215匈奴討伐
前210自害
   
                           
項羽                  前232生  →  →  前202没   
劉邦             前256生  前202即位  前195没 
                           
孟嘗君(斉)  ?  →  →  前279没                 
平原君(趙)   ?  前251没             
信陵君(魏)      ?  前244没           
春申君(楚)      ?  →  →  →  →  →  前238没         
                           
                           
                                                                                   


【戦国四君】

このうち春申君は宰相で他は王族出身者。彼らはいずれもその国の有力な政治家で、それぞれ3000人もの食客を養っていたことで有名である。


【秦のその後】
始皇帝の後の世界はひどいものであった。
扶蘇(ふそ)(? - 紀元前210年)は、秦の始皇帝の長男。姓は嬴(えい)。仁愛ある人格と聡明さで知られ、始皇帝を諫めていた。始皇帝からは後継者に目されていたが、始皇帝の死後、弟の胡亥や趙高・李斯の謀略により、自決を命じられ、抵抗することなく自決した。
胡亥(こがい)(230or221生206没)は、秦朝の第2代皇帝。帝号は二世皇帝。現代中国語では秦二世とも称される。姓は嬴(えい)。始皇帝の末子。史記』始皇本紀では、二世元年(紀元前209年)の皇帝即位の年に21歳であり、紀元前230年生とするが、『史記』始皇本紀に附された『秦記』では同年12歳であり、紀元前221年生としている。侵攻してきた劉邦には生きることを約束されたが、その後咸陽に入った項羽により一族もろとも殺された。


【ちょっと気になる呉越】

呉はもっと長かったと思ったが、前473に滅亡していた。越は呉を滅ぼした後、昭王が即位した年まで続いていた。

呉(紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。
周王朝の祖の古公亶父の長子の太伯(泰伯)が、太伯の次弟の虞仲(呉仲・仲雍)と千余家の人々と共に建てた国である。虞仲の子孫である寿夢が国名を「句呉」から「呉」に改めた。紀元前12世紀から紀元前473年、7代の夫差まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。
越(紀元前600年頃 - 紀元前306年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。
『史記』をはじめとする諸書では、夏の少康の庶子を越に封じたことを越の君主の起源とする伝説を述べている。