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ついに成都!蜀滅亡の地で当時を偲び、劉備の墓前で涙する

旅程

  2013年5月3日
関空⇒上海⇒成都
成都・西藏飯店泊
5月4日
成都⇒江油⇒南覇鎮⇒成都
成都・西藏飯店泊
5月5日
成都⇒徳陽⇒綿竹⇒徳陽⇒白馬鎮⇒成都
成都・西藏飯店泊
5月6日、7日
成都(武侯祠)⇒上海 ⇒関空
上海:レ スイーツ オリエント(上海東方商旅酒店) (Les Suites Orient, Bund Shanghai)

(写真は成都・劉備の墓・恵陵)

旅行記

去年、いや、ずっと四川に行きたかった。成都で劉備や諸葛亮の墓をめぐり、そして蜀に入った時に張飛やほう統が活躍した場所にいきたかった。
そして、魏のケ艾が険しい山越えをして蜀に入った場所に行きたかった。諸葛亮の子や孫が最期に戦った場所に行きたかった。

今年も仕事がどうなるかわからないので、直前まで迷っていたが、なんとかいけそうだということで、1週間前に予約。成都にいき、綿陽、徳陽をめぐり、広元まで三国遺跡三昧の旅をしたかったが、それはさすがに無理。
よって、成都を起点にして、周りを回るような旅程とした。

成田から成都までANAの直行便があるが、成都につくのが22時すぎということもあって、上海までANA、それから中国国際航空に乗り継いで成都に入る旅程にした。
中国の変わり様はすさまじいものがあるが、成都にも地下鉄が2本できており、重慶までは和階号が走っている。そして徳陽、綿陽、そして広元まで高速鉄道の工事中であった。徳陽では、駅はほぼ完成しており、あとは和階号を走らすだけのような感じだった。次回いくときは、広元までもかなり早くいけるかもしれない。
こんな成都の変わり様に、劉備は諸葛亮はどのように思うのであろうか。諸葛亮なら予想通りか!?


5月3日
いつものANAで上海へ。GWなのでやはり人は多い。事前にバーコードの航空券が送付されてきていたが、どうも不安だったので、一度チェックインを行う。するとこのバーコード(アウトプット)で行けますとのこと。買い物や両替をしてイミグレに並ぶものの、さっきまで持っていたバーコードがない!慌てて探すが無い。仕方なくさっきのカウンターに行って、航空券を再発行してもらう。そして再度、列に並ぶと、なんとゴミ箱のところに見たことがあるバーコードが置いてあった。これだ!と思って拾うと自分の名前が書いてある。こんなに中国に行っているのに、なんとなく不安になる出発だ。

定刻通り9:45に出発。今年からダイヤモンド会員になったこともあって、パーサーの方が挨拶に来てくれる。なんとなく気分がいい。西日本を通過し、11:10に上海に到着。今年も中国は鳥インフルエンザやらPM2.5(微小粒子状物質:大気中に浮遊している2.5μm(1μmは1mmの千分の1)以下の小さな粒子のことで、従来から環境基準を定めて対策を進めてきた浮遊粒子状物質(SPM:10μm以下の粒子)よりも小さな粒子)やらで騒がしいが、大気が汚いのは何年も前からだ。今更騒ぐこともない。ただ、鳥インフルエンザは、上海でも100名以上の死者が出ているようで、鳥には気を付けないといけない。

国際線から国内線に乗り継ごうと思えば、一度、外にでなければならない。1時間しかないので少し急いでチェックインして、再度イミグレを通過する。そして中国国際航空は定刻通りの12:20に出発!四川や成都に行けると思うだけで、ワクワクする。窓際の席を取ったので、あわよくば重慶あたりで三峡が見えるかと思ったが、残念ながら雲が多くて見えない。仕方なく爆睡。成都の双流空港に15:25に到着。上海から3時間もかかる。さすがに中国は広い。そこからバスに乗って中心部へ。比較的、中心部から近い空港なので、30分ほどで到着。ホテルにチェックインしようかと思ったが、まだ16:30だし、武侯祠あたりまで歩いていくことにした。

成都は四川盆地にあって標高は少し高いのであるが、緯度が低いこともあって年中温暖。この日も30度近いのではないかと思われるような暑さ。GWは日本が異常に寒かったので、3枚ほどシャツを来ていたが、汗だくになる。天府の国と言われるだけあってとても豊か。街を歩いていても、花がいたるところに植えられていて、気分がいい。そんなことを考えていると、南門橋についた。今でこそなんの変哲のない橋で、交通量だけがやけに多いのであるが、三国時代はここから舟がでていた。呉の国と同盟するために、費いを孔明が見送ったと言われている橋である。橋のたもとにはオープンカフェがあったりして、とても雰囲気がいい。橋のつけねには、船の形をしたホテルもある。

ついでなので、武侯祠も近いしそこまで行ってみることにした。さきほど買った成都地図を見ても近い。しかし、中国の地図は気をつけなければならないことを思い出した。とても近いと思っていても、歩いてみると果てしなく遠いこともある。30分近く歩くとようやく武侯祠が見えてきた。17時過ぎていたので最終日においておくことにしてその横に並んでいる店をぶらぶら見てみる。するとさすが三国聖地だけあって、ワクワクするようなものが置いてある。劉備、孔明はもちろん、関羽、張飛、趙雲、黄忠、馬超など、人気武将の人形だ。なかには、劉備、孔明、関羽、張飛が麻雀をしているものもあったりと結構楽しめる。しかも人通りがとても多く賑わっている。1時間近くぶらぶらしながら、楽しむ。すでに四川、しかも成都に来てるのだと実感。明日からの旅に期待が持てる。

そこから近くの地下鉄駅まで歩き、ホテルに向かうことにした。地下鉄駅といっても2本しかないので、最寄りまで45分も歩くハメになってしまったが、それでも劉備や孔明を描いた橋があったりして楽しみながら歩く。錦江賓館駅で乗り、成都北駅まで行く。明日の電車(火車)のチケットを買うためだ。19時過ぎているので夕暮れどきで哀愁が漂っている。チケットも無事にゲットするが、上海でよく見る自販機もあった。これが和階号であり、重慶までノンストップで行くようだ。四川も変わったものだ。そこから1駅地下鉄に乗り、人民北路で降りる。そこからしばらく歩くと、予約してあった西蔵飯店だ。西蔵、つまりチベットということであるが、エクスペディアで見ると、まさにチベット風でしかも綺麗そうなホテルだったので選んだ。英語も通じる。フロントはもちろん、部屋もとても綺麗。最近の中国のホテルでは、ホスピタリティが教育されているようで、気持ちもいい。いいホテルを選んだものだと満足。しかも安いのだ。1泊338元なので5000円といったところか。上海あたりでいいホテルに泊まろうと思ったら、3万円ほどするホテルがザラにあるなかでは安く感じる。普段の仕事でも相当疲れていたので、ダメだと思いながら風呂から上がってベッドに横になって本を読んでいると、知らない間にねていた。しかも裸で窓開けっ放し。幸い風邪ひかずに済んだが、旅にでるとやはり体調管理はしっかりしないといけない。寝たのが22:30であった。


5月4日
二日目はかねてから行きたかった江油を目指す。今回行きたいところでは、最も遠いので、早めに行きたいと思っていたため二日目に行くことにした。7時前に起きて7:30にはホテル出発。8時前に成都駅につきT8870という電車(火車)に乗り込む。座席が書いてなかったので自由席だ。早いものがち。なんとか座席を確保するが、いつもの電車の風景だ。8:18に時間通りに成都を出発。四川省の一番南側の街が始発なので、おそらく夜通し走ってきたのだろう。かなり多くの車両が寝台車になっている。寝台車もいつかは乗ってみたいものである。1時間ほどして9:10に徳陽到着。徳用は三国遺跡が山ほどあるので、また明日来るのだ。今日は素通り。そして9:55に綿陽に到着。綿陽も三国遺跡がわんさかある。今回は行ける時間がないが、あわよくば今日の帰りにいければと思っている。そこからさらに行き江油についたのが10:35。成都から2時間強かかった。

そしてさらにバスに乗って平武県に行くのであるが、バス乗り場がわからない。結構迷ってしまい、かなりの時間ロス。仕方なくバイタクと人力車に乗っていくと、とんでもない郊外に新しいバスターミナルができていた。中国の都市は最近どこもそうなのだが、とんでもない郊外にバスターミナルができているところが多い。江油もそうだし、5日にいった綿竹もそうだった。安いバスに乗っても、電車に乗り継ごうと思えばタクシー使うことになって、結局高くつくこともある。結局、平武県行きのバスに乗れたのが12:10で1時間30分も江油で費やしてしまった。

平武県は山の中にある村であり、江油をを出発するとすぐに山あいの道になった。蛇行しながら、川の横を通りながらバスは進んでいく。右に振られ、左に振られながらで腰が痛くなりそうだ。iPhoneを持っていたので現在地を確認していると、まさに山間部を走っていることがよくわかった。さすがに中国といえども山間部になると、集落がポツポツとある程度。3つ目か4つ目ぐらいが目指す集落だ。南覇鎮というところで、江油から1時間30分で到着。ようやく乗り物から解放された開放感で、思わず伸びをする。思えば朝から何も飲んでないと思いバスターミナルで水を買うが、なんと1元。今時そんな安い水があるのか。そしてトイレにいくと、これも今時珍しく有料であった。男性がいたけど無視して歩いていくと、奥さんらしき女性が追いかけてきてお金!と言っている。0.5元とられた。1元を渡して立ち去ろうとしたが、律儀な方で、追いかけてきて0.5元のお釣りをくれた。息を切らせて走ってきたので、とてもなごむ。

南覇鎮のような、片田舎に何見に来たかというと、こここそ劉備が建国した蜀の国が滅んだ場所なのである。孔明が死んで30年後、曹操、曹丕時代は曹一族の天下であったのだが、孔明の好敵手である司馬懿がだんだんと頭角を現してきた。そして、司馬懿の息子である司馬昭の時代に、鍾会とケ艾が2方面で攻めてきた。江油からさらに北にいった剣閣では、蜀の最後の英雄姜維が頑張って、鍾会を防いでいたが、山岳超えを決行したケ艾が、この地に突如として現れたのだ。狼やヒグマも出るようなところを、熊手を持って道を切り開き、ときには何百メートル下の崖に馬が落ちるなどの事故などを乗り越えて、蜀の険しい山岳を超えてきた場所だ。

ここを守っていた武将は酒好きで、まさか魏兵が来るとは露知らず、あっけなく降伏したのだ。ここを破られてしまうと、成都まであと少し。ケ艾は途中、抵抗にあったものの、成都まで難なくたどり着き、劉禅もあっけなく降伏したのだ。訪れてみると、山間部のとても静かな街で、住民ものんびりと暮らしている感じだ。川が流れているので、景色もいい。両側に高い山がそびえているが、ケ艾はどの山から来たのだろうかと思いを馳せる。

街は微妙に観光開発しようとしており、蜀漢江油関の看板があったり、関所を模した建物を建てていたりしている。ホテルもあったので、のんびりと1泊ぐらいしても気持ちがいいかもしれない。街もそんなに大きくないので、すぐに回れる。ただ、心配があった。見所は大体見た時がすでに14:30過ぎ。はてして成都まで帰れるであろうか、ということだ。バスもそれほど便があるとは思えない。鎮の入り口あたりで、どうしようかと思っていたところ、偶然にも綿陽行きとかいたバスが通りかかった。もう少しゆっくりとしたかったこともあるが、これを逃すといつになるかわからないと思い、思わず飛び乗る。車内には綿陽行きの最終バスと書いてあったので、助かった!と思った。今から思えば、江油行きならまだ遅い時間はあったであろうが、ま、安全に帰ろうと思うと乗ったのは無難か。安心感から爆睡だ。気がつけば来るときに出発した江油のバスターミナルであった。1時間40分ほどかかっている。しかも、乗客はみんな降りている。あれ、綿陽行きでは?と思ったもののみんな降りるから仕方ない。

あやよくば綿陽にも行こうかと思っていたが、すでに16:30だ。今から行ってもいきたいところが空いてないかもしれない、と思い、成都行きのバスに乗る。ちょうど16:40発があったので乗り込む。途中まで下道だが、すぐに高速に入る。中国の高速網の発達もすさまじく、四川でも縦横無尽に高速ができている。高速だと安定感があるし、乗っていても安心感がある。成都まで2時間20分で到着。成都駅近くかと思いきや、これまた郊外のバスターミナルだ。昭覚寺バスターミナルで成都駅まで歩けそうにも思ったが、たぶん遠いだろうと思い、タクシーに乗る。20分ぐらいかかったので、タクシーに乗って良かったのだろうか、南覇鎮から江油までのバスが30元、江油から成都までのバスが48元、昭覚寺から成都駅までのタクシーが20元と考えると、やっぱりタクシーは割高である。

成都駅で明日の徳用までの電車(火車)のチケットを購入する。いつも中国では二日目は体調が悪くなるのだが、行き帰りの電車とバスでしこたま寝たので、体調は良好。20時前であるが、成都市内にある三国遺跡に行くことにした。劉備軍のなかでも、猛将で知られていた黄忠ゆかりの場所だ。黄忠は70歳を過ぎていたけど、まだまだ現役で、魏の猛将の夏侯淵を漢中で斬ったことでますます有名になった。いまでも黄忠というと、中国では元気な老人という意味らしい。その黄忠の名前が残っている場所がある。黄忠街だ。昔は墓やら祠やらあったようであるが、文化大革命時代にぶっ壊されたらしい。それでも行ってみるのが三国志ファンだ。

成都北駅から地下鉄1号線に乗り2号線に乗り換え一品天下という駅でおりる。地下鉄は安いし早いしでほんとに便利だ。30分ほどで到着。黄忠街という一角をとりあえず歩いてみるが、マンションやら店ばかりであり、古めかしいものは何も残っていない。相変わらず人は多いし、車通りも激しい。それでも黄忠街と書かれた看板の前で、昔をしのびながらタバコを吸う。おそらく黄忠が住んでいたのだろうと想像するが、その当時はどんなところだったのだろうか。今となっては想像もつかない。30分ほど散策して、ホテルに引き上げる。21:30ごろにホテルに到着。この日も日本から持ってきたカップラーメンが夕食だ。中国で昔食にあたって以来、どうも日本からの持ち込みモノばかり食べてしまう。これも旅行では大事なことだ。23時すぎに就寝。


5月5日
成都の周りには行きたい遺跡が山ほどある。でも行き方をしっかりと考えないと、効率的にもならない。そこで、まずは最も行きたい遺跡を選び、最短コースで回れるようにスケジュールを組んでみた。最も行きたいのが、やはり蜀滅亡時に最終決戦地を偲ぶことができる綿竹だ。次に蜀建国時になるが、劉備が入蜀するときに、ときの益州を収めていた劉璋との戦いがあった場所だ。孔明と並んで秀才と言われていたほう統が流れ矢にあたって亡くなった場所がある。その二つを目指してホテルを出発。昨日と同じ電車に乗る。江油までいったことを考えると徳陽までは近いものだ。1時間ほどで到着。しかし、あいにくの雨だ。中国で雨に降られたことはあまりないのだが、四川は雨が多いらしく、雨が降っていなくてもどんよりしている。しかも、中国で雨に降られたら最悪だ。悪路が多いので、くつがぐちょぐちょになるのだ。まー、仕方ない。

昨日と同じ電車なので起きる時間も同じ。人民北路駅まで歩き1駅乗って成都北駅までいく。昨日と同じ様に8:18に成都駅発。昨日はチチケットに座席が書いておらず無座だったのだが、今日のは書いている。イマイチ無座と指定の区分がよくわからないのだが、それも中国か。雨のせいか徳陽には昨日より5分遅れの9:15に着。そこから400mほど北に歩いてバスターミナルまで行かなければいけないが、あいにくの雨だ。すでに靴がぐちょぐちょになっている。綿竹行きバスはちょうど9:35発にあったので、効率よかった。電車(火車)駅とバス(汽車)駅が近ければスムーズなのだが、昨日の江油のように離れていたらかなり時間ロスとなる。雨の中ひた走り、綿丈には10:40に着いた。ちょうど1時間ほどだ。でも、なんかとても田舎にあるバスターミナルだった。街中のバスターミナルが移転した模様。仕方なくタクシーに乗って諸葛亮の子供と孫の祠に向かってもらう。徳陽から綿竹までバスが9元だが、綿竹バスターミナルから綿竹市街地までのタクシーが17元もした。なんのこっちゃ。

15分ほどタクシーが走ると綿竹の街となり、中心部のロータリーから近い場所に諸葛双忠墓祠があった。マンションが立ち並ぶ中にある感じで、イメージとは違ったが、2008年の地震でかなり崩れたようで、それを再建しており、建物は新しくて綺麗だ。門に書いている「孝」と「忠」の文字がこの場所を象徴しているようだ。門の横には、地震で新しくなったことや、この場所の由来などを書いている碑がある。中に入ると、祠がありその奥に墓があるのだが、とても綺麗に保存されている。蜀の国を守ろうとしたその勇気と、諸葛亮の子供と孫ということもあり、今でも現地の方には人気があるのだろう。2000年も経ってこれだけ大事にされている祠や墓というのは、なんとも感慨深い。実はここは魏のケ艾が攻めてきて戦った場所ではないようで、また、綿竹という名前もかなりあとの明の時代に名前が付けられたようだ。ただ、三国時代にケ艾と戦った場所と同じ名前になったということで、祠と墓が作られたのだと思われる。

綿竹は名前ななんとなく好きで、とても行きたかった場所である。せっかくなので街をぶらぶらすることにした。すると、漢時代であろうか、その時代の街並みを再現したような場所があって歩いてみる。酒蔵があって酒を作っている建物があくさんあった。風情のあるとおりである。それ以外には地方都市という感じであり、綿竹滞在時間はわずか1時間ほどでバスターミナルから、再び徳陽に行く。綿竹と徳陽の間にはひんぱんにバスが走っているので、すぐに乗れる。12:05に綿竹を出発し、徳陽に13:15に到着した。徳陽につくとすぐに白タクが誘ってきた。白タクでもいいかと思っていたので、すぐに乗ってホウ統祠へと言うと、有名なようですぐにわかってくれた。徳陽バスターミナルからさらに北に行くが、広くてよく整備された道なので快適だ。15分もするとホウ統祠がある白馬関につき、山を登っていくとホウ統祠があった。祠はとても綺麗になっており。前の広場も最近作った感じだ。しかも観光地になっており、パラパラとではあるが観光客も何人かいる。30元払って祠に入る。

ホウ統もやはり人気のようで、この祠もとてもよく整備されている。墓もドデカい。墓までいくと、おじいさんが二人座っていて、お経のようなものを唱えてくれた。白馬の像もある。劉備が蜀に入るときに、一緒に連れてきたのは諸葛孔明でなく、ホウ統であった。そしてこのあたりを通る時に、突然、ホウ統の馬が動かなくなってしまった。そのとき劉備が乗っていた白馬をホウ統に乗らせたのが運の尽きで、その後の交戦で、白馬に乗っているのが劉備と思われ、劉璋軍から一斉に矢の嵐を浴びた。そして、悲しいかなホウ統は絶命してしまったのだ。ホウ統は諸葛孔明と並ぶぐらいの天才と言われていたので、この地で亡くなったのはとても痛かった。ホウ統が亡くなったことで、荊州にいた諸葛孔明や、趙雲、張飛などが蜀に攻め入ることになったのだ。荊州は重要拠点であるが関羽一人で守ることになり、その後、呉軍に討ち取られたので、ホウ統が亡くなった影響は大きかったのである。そんなことを考えながら、ホウ統祠を周る。張飛が植えたと言われている柏が祠の屋根を貫いている。また、後人の碑文がずらっと並んでいる。とても落ち着いた場所であり、静粛な気持ちになった。

ホウ統祠を堪能したあと、落鳳坡に行きたく、看板があったのでそっちのほうに行ってみた。するとこの辺り一帯を観光開発しているようで、大規模に工事している。白タクの運ちゃん、構わず着いてこいということで、どんどん中に入っていくが、迷路のようになっており、最後は道がなくなり、工事中の道にでてしまった。このあたりは粘土質の土のようで、雨が降っていることもあって、靴に信じられないぐらいの土がついてきた。これも中国かと思いながらも、足がとても重くなってきた。しかも、肝心の遺跡もない。白タクの運ちゃん、どさくさにまぎれて、金牛古道だと作られたところを通り、近くの古鎮に連れてきた。確かに雰囲気があっていいところなのだが、古鎮に行くためにここまできたのではない。結局、お目当ての落鳳坡は諦めることにした。近くにあった古戦場跡にいって気分を紛らわす。曇っていたので視界がよくなかったが、雲がかかっており幻想的であった。

その時点で16時になっていた。できれば綿陽までいければと思っていたけど諦めて、ホウ統祠に書いてあった綿竹白遺跡にいってくれとお願いする。幹線道路から少し西にそれたあたりの村に、諸葛孔明の子供や孫が最期の戦いを行った綿竹遺跡があるというのだ。袁家鎮というところなので、曹操のライバルだった袁紹や、その弟の袁術を連想してしまう村だ。しかし、この手の遺跡はなかなかやっかいで、あまり有名でもない遺跡なので、ほとんど現地の方が知らないとか、鎮といっても広い場合もある。いろいろと迷ったり、挙げ句の果てに午前中に行ってきた綿竹まで行きそうになったりと散々である。鎮にいた物知りそうな人に聞いて、この辺じゃないかと言われたところに行ってみる。すると小高い山になっており、それはそれで景色がいいのだ。あのあたりで戦いがあったのだろうかなどと想像しながら、袁家鎮の風景を楽しむ。

いろいろと迷ったのでもう17:30だ。じゃあ、徳陽駅に行ってくれということで成都まで帰ることにした。18時に徳陽汽車(火車)駅につき、ありがとうと言って500元を渡す。あまり成果がなかったので値切ろうかと思ったが、若くて一生懸命に遺跡なども探してくれたので、ま、いっか。何か言いたそうだったが、成都まで送ろうか、ということか、もっとお金くれということだったのか。言葉が通じないので、筆談になったが、懸命に文字を書いてくれたのはありがたかった。19時の汽車に乗り、成都についたのが20時前。さすがにお腹が減ったので、駅前のケンタッキーに入る。中国の店員さんも愛想がよくなった。気持ちよくチキンを買って食べることができた。

その時点でまだ20:35だし、気分もいいので、1駅間だけどホテルまで歩くことにした。成都駅のすぐ南側には、超巨大なビルが3棟ほど建設中であるが、その横を通る。マンションかと思ったが、商業ビルのようだ。次に来る頃にはできているだろうから、どんな街になっているのだろうか。20分も歩けばホテルまでついてしまったが、ホテル近くの白馬寺という地名が気になっていたのでそこまで歩くことにした。地図を見ながら行くが、少し筋を間違えながらもそのあたりにつくが、寺のようなものはまったく見えない。地名だけであって、寺はもうないのであろうか。せっかく来たのに残念と思いながらホテルに引き返すと22時前になっていた。ついに明日は上海に帰ることになる。その前に武侯祠だと楽しみにしながら0時に就寝。


5月6日
ついに四川の最終日。去年は2泊3日だったことを考えると今年は長いものだ。しかも一番行きたかった武侯祠を取っておいた。午前中に武侯祠にいって上海に移動する予定。7時に起きて7:50ホテルを出発。8時からやっているので、タクシーで10分ぐらいでちょうどだろうという計算だた。しかし、この日は月曜日で人民のみなさん出勤している。さすがに大都会だ。すごい渋滞である。中心部を南北に走る人民路は4車線ぐらいはあるのだが、車が多すぎてほとんど動かない。まいったな〜と思うが仕方ない。結局、武侯祠についたのが8:45で1時間近くもかかったことになる。帰りのタクシーは15分で帰れたので、ほんとに時間のロスとなってしまった。

気を取り直して武侯祠へ。入場料は60元と少し割高。入口の「三国聖地」の文字がまさにその通りだと頷きながら中へ向かう。入口に行くと、すでに奥の方に劉備の顔が見えている。朝モヤがかかっている中、遠くに劉備像を見るというのはとてもいい光景だ。しかも、朝なのでまだ人も少ない。ひとまず劉備像のところにいく。そしてその周りの関羽、張飛像もしみじみと堪能するが、ここでしか見ることのできない劉ェ(りゅうしん)の像がある。

劉備の子供である劉禅は暗愚でありついに魏に攻め込まれた。劉ェは北地王に封じられていたが。263年にケ艾が成都に侵攻し、劉禅があっけなく降伏しようとすると、戦って死ぬべきと主張した。そのときだけは劉禅は強く諌め、反対されてしまった。そして、その日のうちに祖父である劉備の廟の前で悲しいかな妻子を殺してから自殺したのである。今となっては劉禅の墓はどこにもないのだが、劉ェはこうやって祖父の像に横に祀られているのだ。後世の人たちの気持ちがわかるというものだ。

そして、回廊にはとても有名な文官、武官の像が並んでいる。入口で出会った変なガイドさんについた日本人旅行者とは逆の文官像から回っていく。ホウ統、費イ、蒋エンなどはまだいいが、今まで知らなかった文官もいる。三国志ゲームを何回やったかわからないぐらいやっているので、武将の名前ぐらいはだいたいわかっているのだが、知らない武将がいるというだけでここにきた価値があったというものだ。そして武官を回ると、お馴染み趙雲、黄忠、馬超などがいる。すべての武将の写真を撮って満足する。像自体はとても古く、馬超像などは1672年に作られたものだ。趙雲で1849年だ。いずれも清の時代に作られたものである。とにかく文化大革命で壊されなくてよかった。心なしか北方系の顔をしているように見えるが、それにしても残っていて良かったものである。

かなり満足してさらに奥に進むと諸葛孔明の像がある。厳粛な雰囲気に包まれて、穏やかな顔をしている。劉備よりも孔明のほうが地元では人気があるのか、名前が武侯祠となってしまったその場所がここである。蜀の最期まで戦い抜いた孔明の子供や孫の像もある。昨日、綿竹に行ったが、そこで戦った勇敢さをたたえて、首都の成都でも祀られているのである。昨日までのことを思い出しながら、武侯祠を堪能する。ここまででもかなり満足するのであるが、さらに奥に行くと三義廟があった。もうかなりお腹いっぱいである。三義廟は、劉備、関羽、張飛が、桃園の誓いをして、生まれた時は違えども死ぬときは一緒、と誓い合ったことを記念して建てられたものである。本家あ北京近くのタク州というところにあるが、ここにも作ったということか。関羽、張飛の像はかなり出来がいい。しかし、劉備の像がいただけない。三国遺跡をめぐるときは、像の出来栄えというのも楽しみのひとつだ。

そして、ついに恵陵、つまり劉備の墓に向かう。三義廟から竹やぶのなかにある小路を抜けていくと、それがある。竹やぶを通るところから、空気が変わるのがわかる。さらに厳粛な雰囲気になっていく。そして、墓につくが大きすぎて全体像がよくわからない。とりあえず一周するが、かなりの大木も墓から生えてきており、古さがよくわかる。しばしその場で佇む。この時間になってくると、だんだんと人が増えてきた。ちょうど中国人の観光客の団体さんがやってきた。

周りたいところはほぼ行った。どうしようかと思っていたら、三国文化陳列館というものがあったので入る。撮影も自由なのが嬉しい。赤壁の戦いやら夷陵の戦いなど、主要な戦いの説明があったり、興味深かったのは当時の人たちが描いた農耕や放牧の絵だった。いまから2000年も前のことなので、今とは全く違った生活だったと想像するが、その様子が少しでもわかる。夜などは真っ暗だったと思うが、生活も不便だっただろう。そんなことを考えながら、陳列品を一通り見た。見るべきところは大体見た。出口(入ったところ)のところまで来たが、せっかくなので、もう一度、劉備像、孔明像、そして三義廟までいって2回目堪能。11時前なので、だいぶ人が増えてきた。やっぱり朝一番に限る。三義廟の横にあった出口から出て、あとはおみやげだ。成都についた日にチェックしておいた人形を購入。劉備+孔明は外せないとして、それに関羽と張飛も一緒に買おう。あと好きな武将の趙雲も欲しいなと思ったが、趙雲を買うと黄忠、馬超も欲しくなるし、4体だけにしておいた。おみやげも買ったし大満足してホテルに帰ろうとするが、まだ11時すぎなのでスターバックスでコーヒーを飲むことにした。店員さんの感じがよく日本語を勉強しているとかで喋りかけてくれた。中国らしい中庭があって、そこで武侯祠の余韻に浸りながらコーヒーを飲むのは格別であった。そうしているうちに、やっぱり趙雲の人形は買おうと思い立ち、再び店にいき購入。店員のおばちゃんも、また来たのかねみたいな感じで手際よく包んでくれた。そのときで11:45。ホテルに向かうことにした。

中国のホテルはチェックアウトが遅くていい(何時でもチェックインできるというのも魅力である)。西藏飯店は12時だったので、荷物を置いたまま武侯祠を観光できた。ホテルに戻り荷物をピックアップしてチェックアウトする。飛行機までまだ時間があったので、2日前に行った黄忠街に再び行ってみる。飛行機の時間までちょうどいいのだ。一品天下駅におりて、黄忠の祠や墓があったであろう場所を物色するが、大きなマンション群になっている。守衛がいたものの構わず中に入っていき、ぐるっと回ってみるが、当然それらしきものもない。ま、ここまでくると諦めもつくかということで、一品天下をあとにする。わずか30分ほどしかいなかった。

空港行きのバスは錦江賓館駅の近くからでえいる。地下鉄を降りて歩いていると、バスに乗るらしき人たちの流れがあった。それについていくとちょうどバスが停まっており10元払って中に入る。これで成都ともお別れかと思うと、残念だ。やっぱり成都は特別な街のように感じる。また再び来ようと心に決めた。成都中心部から、双流空港までは意外に近く30分ほどで到着。成都南駅を過ぎるとすぐに空港だったように思う。14:50に着いた。バスを降りると、なんとなく違う感じがした。乗るのは中国国際航空だが、そんなチェックインカウンターはない。ターミナルが2つあるのかなと思い、総合案内できいてみると流暢な英語でターミナル2にいけと教えてくれた。歩いて20分ほどかかる。でも、途中、成都空港のバスステーションがあったりして、景色を楽しめたので良かった。無事に15:15にチェックインして15:50に搭乗。定刻通り16:15に出発した。上海まではやっぱり遠い。行きよりは少しは早かったが、それでも2時間50分かかった。19時過ぎについたが、浦東空港の一番端っこなので、とにかく時間がかかる。19:40過ぎにリニアに乗り、バンドのホテルに着いたのが20:30だ。

上海に泊まる時は、必ずバンドに泊まる。バンドの夜景が大好きだからだ。いつ見てもほんとに美しい。しかも上海の発展ぶりを実感することができる。森ビルに負けじと、また新たな巨大なビルが建設中であた。次に行った時はまた景色が変わっているのかもしれない。バンドにいくとき、南京東路から歩いたが、地図を見ながら歩いている人がいた。ひょんなことから話すようになったが、その方は天津から初めて上海にきた周さんという方であった。日本の工場で働いていたということで、日本語がとてもうまい。天津が発展したのは、日本企業のおかげだと、嬉しいことも言ってくれる。一緒に夜景を見ながら、話が弾む。すると、一緒にどこかに遊びに行かないか、と誘われる。なんでもホテルは150元の宿らしい。この日に泊まったのが税金込で1,300元もするのでなんとなく悪い感じがした。子供もいてもう17歳のようだ。一人っ子政策のために一人らしいが、もうひとりぐらいは欲しいようなことを言っていた。結局、一緒にあそびにいくことはできなかったが、こんな人と出会うのも旅の面白さだ。バンドの夜景を見ながら、成都でのことを思い出し、上海と成都の都会ぶりはやはり違うと感じながら、夜がふける。
次の日は12:10のANAで関空へ向かった。成都も行こうと思えば、その日のうちに行ける。成都という土地も、とても気に入った場所である。また、必ず行きたいものである。いつも以上に大満足の旅であった。


〜完〜


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