諸葛孔明臨終の地
【旅程】
写真は勉県の武候祠(諸葛孔明の墓)。
【旅行前】
三国遺跡のなかでも3大聖地といわれている(思っている!?)うちのひとつ、五丈原に行くことにした。
ちなみに3大聖地とは、五丈原のほかには、「劉備が生まれたたく州(北京の近く)」「曹操と孫権・劉備連合軍が戦った赤壁(レッドクリフ)」である。 西安を目指して布陣したので、当然、西安からほど近いところになるのだが、内陸部だけあって日数がかかるのでなかなかいけなかったのだ。 この五丈原で、魏の司馬懿と対陣しているとき、流れ星が落ち、諸葛亮が亡くなった。 蜀には、劉備、関羽、張飛、趙雲など、名だたる武将がすでに亡くなっているなか、諸葛亮一人ががんばっている状況。 その諸葛亮も亡くなったとあれば、蜀の命運もどうなるか、というところだ。物悲しい遺跡でもある。 そして、険しい秦嶺山脈を越えると漢中がある。 漢中は、劉邦が左遷された場所であり、韓信を抜擢し、項羽を討つべく東進を開始した場所でもある。 項羽より先に、関中(西安あたり)に入って秦を実質滅ぼしたにもかかわらず、項羽によって漢中に左遷された劉邦。 漢中の地で、有能な者たちを積極的に採用し、張良、蕭何、韓信などに支えられ、ゆくゆくは天下統一を果たし、漢の国を建てたのだ。 よって、紀元前200年頃の劉邦関連の遺跡もあるし、200年ころの劉備関連の遺跡もあるので、両者を堪能できるのだ。
【旅行記】
5月1日 関空⇒上海⇒西安
いつものように関空から出発。いつもの7時過ぎの天王寺発のはるかに乗って関空へ。さすがにGWだけあって人がいっぱいだ。 それでもイミグレはすんなり通れ、ラウンジでゆったりとできた。 飛行機は中国らしく、パンダのペイントをされているものである。乗っていれば、わからないのではあるが・・・。 11:30には上海につくが、上海万博のときでもあるので、パクリで問題になったマスコットがいたるところにある。 上海万博が開催されているが(開催された間もないとき)、それには目もくれず、西安行の飛行機に乗る。 私が乗ったときには、時間通りに出発したことがない中国東方航空であり、今回も案の定、遅れている。 12:40に搭乗し13:00出発のはずがなかなか出ずに、なぜか出発前に機内食がでてきた。遅れの怒りを抑えるために、機内食を出したのか!? おいおいと思っていたが、なんとか13:30ころには出発だ。機内食はなんだったんだろうか。 飛んでしまうと快適な空の旅、中国の大地をみながら、2時間ほどで西安に到着。16:00ころについた。 (左)パクリで問題になった上海万博のマスコット。 (右)さすが西安、上空から見ると遺跡のようなものがいくつかあった。 空港でて写真を撮っていると、案の定、声をかけてくる。白タクとわかりながらも、ほかにタクシーもあまりなかったので、そのまま乗る。 客の引き込みがお姉さんで、その弟が運転手。愛想いいやつで、たばこ吸うか?などと声をかけてくる。 西安の空港は厳密にいうと、咸陽にある。咸陽は秦の始皇帝が都をおいた街。項羽によってほとんど焼かれたので遺跡は残っていない。 咸陽の空港から西安までは1時間ほどかかるが、その間に、いろんな遺跡がある。 最も行きたかったのが劉邦の墓であり、そこに行ってくれと言うが、間違って違う人の墓に行く。 「西漢帝陵 陽陵」と書いてあったので、第4代の漢の皇帝なので、劉邦の子孫ではある。 ただ、劉邦が死んだあと、悪名高き呂后(劉邦の妻)の専横があったので、第4代といっても、どの子孫なのかは不明なところはある。 お目当てではなかったが、あまりに立派に作っているので、一通り見て回る。 そして、劉邦の墓だ!ということで、粘って交渉し、なんとか連れて行ってもらった。 4代皇帝に比べると、まったく質素なもので、整備もされていないようなところである。劉邦のほうが、功績は大きいのに! 田んぼのあぜ道のようなところを通り、劉邦(と思われる墓というか小山)の墓にいってみる。 虫が多いものの、いい季節だし、歩くと気持ちがいい。山の上に上ると、あたりののどかな農村地帯が見渡せて、これまた気持ちいい。 しばらくぼーっとしながら、劉邦の功績などを思い出していた。 (左)第4代皇帝 景帝の墓。 (右)劉邦の墓と思われる山。 (左)劉邦の墓からの景色。左手に見えるのが、呂后の墓と思われる。 (右)西安市内で。 劉邦の墓に上ると、いくつか墓らしきものも見える。さすが、遺跡の宝庫である。 劉邦の近くには、その妻の呂后の墓もあると何かで見たことがあるので、おそらくあれが呂后だと思いこむ。 それにしても、のどかな景色で気持ちいい。発展している中国とはいえ、こんな景色もまだまだあるのだ。 かなり満足した後、西安に向かう。 おそらく1時間ぐらいでつくのかと思いきや、タクシーの運ちゃん、咸陽の人らしく、西安の地理はうといようだ。 結構迷ったあげく、2時間もかかってようやくホテルに到着。まー、気がいいやつなので許してやるか。 しんどかったけど、21:30ぐらいから街をぶらぶらしてみた。上海などど違い、内陸部なので、どこか昔ながらの中国のようだ。 逆にそんな街並みがうれしかったりするし、中国に来たんだと実感する。 23時前にホテルに帰り、0:30ぐらいに就寝。明日からが楽しみだ〜。 5月2日 西安⇒眉県⇒五丈原⇒宝鶏(火車中泊) さて、遺跡めぐりが始まる!ただ、普段の仕事疲れからか、6:30過ぎに起きようとしたものの起きれず7:30になってしまった。 西安からどうやって移動しようかと悩んでいたが、西安の地図を見ていると、漢王朝の跡地がすぐ近くにあることがわかりそこに行くことにした。 ホテルを8時にでてタクシーをひろい、9時過ぎに漢長安城に到着。今では街のはずれになるが、西北部にしっかりと残っている。 しかも現在、調査中のようで、管理人がいて、写真撮るなだとか、いろいろと言ってくる。もちろん目を盗んで撮るのであるが・・・ 項羽を破ってこの地を首都と決め、そして天下統一の余韻にひたっていたのかと思うと、感慨ひとしお。 劉邦は、達成感やら充実感やらいろんな感情があったことだろう。ただ、まだ各地で乱も起きていたので、安心はできなかったであろうが。 これといったものはなく、王宮跡などが地面に残っているだけであるが、30分ほど散策する。 (左)このあたり一帯、長安城であったのだ。 (右)西安郊外ののどかな地帯に漢長安城遺跡はある。 そして、西安の中心部に戻ったのが10時。ここから五丈原がある町までバスでいくことにした。11時の眉県行きのバスにのる。 しかしこのバスはずれだ、下道を通り、かつ客を拾っていくので遅いパターン。なんか気分も悪くなってくる。3時間20分もかかってしまった。 14:30頃だし結構暑い。眉県のバスターミナルの前で、アイス食べたりジュースを飲んだりして、少し休憩。14:50にタクシーに乗り込む。 まずは、諸葛亮が司馬懿と戦った戦場跡地である、葫蘆谷(上方谷)に向かう。眉県のバスターミナルから10分ほどで到着。 だだっぴろい畑のなかの道をいくと、集落があり、そのなかにあった。 陣から司馬懿を誘い出し、ここで火攻めにして、司馬懿を焼き殺そうとしてうまくいっていたのだが突然の大雨で司馬懿が助かったところ。 司馬懿の命運は尽きていなかったということか。ここで司馬懿が死んでいたら、間違いなく蜀と魏の関係も変わっていたであろうし、魏を滅ぼした 晋は司馬懿は司馬懿の孫の司馬炎だったので、中国の歴史も変わっていたと思われる場所だ。 そのとき、蜀の猛将である、魏延も焼き殺そうとしたが、それも失敗した。魏延は猛勇であるが、反骨だったので諸葛亮は殺そうと考えていたのだ。 そのすべてがうまくいかず、それ以外、司馬懿は陣から出てこなくなり、そのまま諸葛亮は、陣中で息を引き取ったのだ。 諸葛亮と司馬懿の最後の対戦となった場所でもある。 そんな場所であるが、今ではのどかな感じであり、地元のおっちゃん、おばちゃんがたむろっており、雑談していた。 つくと目につくのが、焼け焦げた木だ。これはそのときに火攻めで焼けた木であるが、今から1800年も前のこと、眉唾ものだ。 とはいいつつ、なんとなく古そうだし、信ぴょう性もありそうだし、そのときの木だと信じる。 その後ろには石碑があり、ここでの戦いのことを記載されていた。 ただ、諸葛亮は司馬懿を谷に追い込み、ここで伏せていた兵によって火攻めを行うのであるが、そのような谷ではない。 周りは一面、広大な畑になっているので、黄河の近くでもあるので、地形が変わったのであろうか。 石碑の横には廟があるので、中に入ると、おばあちゃんの一人が案内してくれた。 (左)眉県のバスターミナル。 (右)葫蘆峪遺跡。石碑が奥にあり、廟は左側にある。 そしていよいよ五丈原だ! 葫蘆峪からしばらく西に走っていると、20分ほどで五星村に到着。ここから山の上にあがっていく。 結構急な坂であるが、台地の上部分につくと、すぐに五丈原村となり、武候祠がある。結構な観光地になっている。 タクシーを降りて武候祠に入る。入口はさすがに重々しい感じで、観光客も多い。 晩年の諸葛亮は車いすを使っていたのだが、それがいきなり廟のなかにある。 ここには、衣冠塚や諸葛亮の奥さんの廟など、見どころがたくさんある。一時間ほど中を回る。 (左)五丈原に上る入口にあった碑。このあたりは五星村というらしい。(右)五丈原に上り黄河方面をみる。諸葛亮もこの景色を見ていたのだ。 そして、最も行きたかったところに行ってもらおうとするが、タクシーの運ちゃんも知らないというので、どこかに聞きにいった。 するとそのへんでたむろっていたおばちゃんを連れてきて、タクシーに乗せ、一緒にいってくれるという。やさしいのだ。 その場所とは、豁落城遺跡と言われるところで、諸葛亮が布陣していたところだ。 そもそも五丈原とは、台地であるが、その窪みがあり、窪み部分が五丈ほどしかないので、この名前がついた。 基盤山と五丈原を結ぶ地峡にあって、東西は深い谷となっており、ここが諸葛亮の本陣跡である。 武候祠からタクシーに乗り、集落を通過して、両側一面の畑の場所、つまり五丈原の台地のうえを突っ走る。 30分ほど走ったであろうか、そのお目当ての場所にたどり着く。ほんまに五丈ほどしかなく、小山みたいなものがあるだけだ。 諸葛亮臨終のとき、大きな星が本陣に落ちたといわれており、豁落城という名前がつき、陣の下を落星湾、谷間を落星堡と呼ばれている。 そして、これらを総称して落星村と言われており、悲しい名前をつけたものだ。 確かに両側の谷は深い。また、蜀に帰るにもすぐに帰れる。いい場所を選んだものだ。 ここで諸葛亮が亡くなり、蜀の兵士たちはどんな気持ちで、漢中方面に引き上げたのだろうか、と思いをはせる。 (左)携帯着信音が軍歌の運転手と、拉致されたおばちゃん。 (右)この道をずっといくと蜀の漢中だ。右の崖が遺跡。 満足した後、最後に諸葛井に向かう。五丈原の武候祠の真下にあるので、一度山を下りて迂回する。 ここは、蜀軍が布陣していたとき、毎日兵士が水を汲んでいた井戸があるのだ。今では、地元のおばちゃんが洗濯場所に使っている。 一生懸命、洗濯をしていた。ここから長い階段があって、五丈原の武候祠にいけるのだが、途中まで階段を上る。 戦場においては水や兵糧の確保というのが、もっとも大事なのである。 五丈原を満喫した後、眉県バスターミナルに戻る。この時点で17:50。 すぐに宝鶏行きのバスがあったので、飛び乗る。18:05に出発し、バスのなかでは爆睡。宝鶏についたのが19:20であり早かった。 途中、高速を使ったようなので早かったのだろう。宝鶏バスターミナルでまたアイスを食べる。宝鶏駅まで遠いのでタクシーに乗る。 漢中方面行の電車(火車)は0:42の予定。まだ20時ぐらい。どうして時間をつぶそうかと思うが、疲れも結構ピーク。 駅前のデパート前で、スイカを食べたり、ケンタッキーでコーヒー飲んだりしていると、だいぶ体も落ち着いてきた。 なお、宝鶏の前には、大散関行きのツアーがあった。大散関は、秦嶺山脈越えの要地であり、関所でもある。 劉邦の部下、韓信が一瞬にしてここを攻め落としたことでも有名。今回は時間がなかったが、次回は必ず行きたいところだ。 (左)道の真ん中に諸葛井がある。左側でおばちゃんたちが洗濯している。 (右)宝鶏駅前の大散関行きのチケット売り場。次はいくぞ! 5月3日 宝鶏(火車中泊)⇒陽平関⇒漢中⇒褒斜道(石門桟道風景区)⇒蕭何追韓信処⇒漢中 ついに蜀に入るのだ!と興奮しながら宝鶏から電車に乗る。いつもながらの大混雑であるが、なんとか席を確保する。 座ったまま寝るのであるが、前に座っているおばちゃんがこっちにお尻を向けて寝るし、食べ物のにおいがきついしであるが、なんとか寝る。 疲れていれば人間どこでも寝れるものだ。途中、何回か起きるものの、比較的目覚めはよい。薄明るくなってり、川沿いを走っていた。 7:45に陽平関に到着。思えば中国で電車のなかで寝たのは初めてだ。 (左)目の前でどでーんと寝るおばちゃん。 (右)蜀に入った!朝になると川沿いを走っていた。 陽平関はもっと栄えているのかと思ったが、山間にある小さな駅だった。駅前にタクシーが何台かとまっているのと、露店があるぐらい。 この近くに趙雲が活躍したような遺跡が地図に書いていたので、タクシーの運ちゃんに言ってみると、なんもないよといって取り合ってくれない。 雨も降っていたし、あまり行く気もなかったので、そのまま漢中行きのバスにのる。8:45に出発した。 しかし、すごい雨だ。途中、山崩れなどしないかと不安だったものだ。雨の中山道を走る。いつしか、寝ていた。 もっと早いと思っていたが、山道だし、雨出しで、漢中まで3時45分もかかってしまった。漢中到着が12:30、さすがに人が多い。 (左)さみしい漢字の陽平関駅。 (右)にぎやかな漢中汽車駅(バスターミナル)。 おなかが減ったので、とりあえず売っていたもっちりパンを食べる。これがまたうまい!しかもひとつ1元なので安い! そのあとバスターミナル近くにある、魏延の廟に行ってみる。が、デパート入口近くにあるし、人が多いしで最初わかりにくかった。 廟のなかには露店が2,3あったりして、なんと邪険に扱われているのだろうか。かわいそうに魏延。 魏延は反骨だったので、諸葛亮は疎ましく思っていた。そこで、自分の死後は必ず反乱を起こすだろうということで、魏延を殺すことを命じた。 蜀軍が五丈原から漢中に撤退したとき、魏延がいまからでも長安を目指すべきだ!と言ったところ、命を受けた馬岱によって殺された。哀れ魏延。 いろんな碑があり、劉備、諸葛亮などのほか、魏延の絵も描かれており、一定程度、拝められていることはよくわかる。 ただ、人通りが多いところにあるのが違和感があるが、漢中に帰ってきたばっかりのときに殺されたのだろうか。 魏延のことをしのびつつ、下調べしていたホテルに向かって南下する。ホテルは郵政大酒店であり、すぐにわかった。 まだおなかがすいていたので日本から持ってきていたカップラーメンを食べる。これがまたうまいのだ。 そして、漢中にある遺跡である劉邦の古漢台に向かう。でもこの日は閉館だった。ということで、褒斜道にいってみる。 古漢台からタクシーに乗り、褒斜道に行くが、今はダムができており、石門桟道風景区になっている。漢中の観光地になっているところだ。 漢中から20分ほどで着いた。雨があがったばかりでもやっているなか、中にはいっていく。 しばらく上りになったりトンネルがあったりで、ようやくダムまでたどり着く。結構、谷が深いのだ。 昔はここに褒斜道で、桟道があったのだが、ダムを造ったことで水没してしまった。三峡ダムのようなものだ。 なんとなく残念な気持ちになるが、ダム湖ができていて、結構風情はある。しかもダムは巨大だ。足がすくむ。 谷を一本のロープで結び、そこを滑車で滑れるようなアトラクションがあったが、もう16時すぎでクローズになっていた。乗る気はなかったが。 そして、桟道を復元しているところがあり、通ってみるが、真新しくてなんとなく幻滅。少しいったところで引き返した。 (左)谷はかなり深い。ダムも当然巨大である。 (右)これが真新しい桟道。少し歩いて引き返した。 さー、まだ16:30だしどうするかなと思っていたら、タクシーの運ちゃんが声かけてきた。なかなか好青年っぽい人だ。 漢中からどうしても行きたかったところがあったのだが、ここから遠いかなと思うも、言ってみるが、行けるよ、ということになった。 16:40ぐらいに出発し、どんどん山にはいっていく。ダム湖の横をとおり、途中から風景のいい川沿いとなり、そして50分ほどで到着。 ここは蕭何追韓信処というところだ。 劉邦を訪ねて韓信が士官するが、取り立てられず劉邦を韓信が見限る。しかし、韓信の力を見抜いていた丞相の蕭何がここまで追ってきた。 蕭何の熱心な説得によって、韓信も再び漢に戻ることを決意し、大元帥に取り立てられる。 韓信といえば、若いころ、ならず者の股をくぐったり、おばあさんからご飯を恵んでもらっていたりして、劉邦はあまりいい印象がなかった。 しかし、兵法などさまざまな学問に精通しとても優秀。大元帥になってからは、負けることなく劉邦の天下統一に貢献したのだ。 こんな山深いところまで韓信を追ってきた蕭何もほんとに熱心だ。そのために朝廷にでれず劉邦も、蕭何が逃げたと心配したのだ。 現地には、碑がたっているし、蕭何橋なるものがあるし、川も近くに流れている。イメージどおりの場所である。 この場所まで蕭何が追ってこなければ、漢帝国はなかったかもしれない。そう思うと、ここも歴史のなかの分岐点になった場所だ。 とても満足してホテルに引き返す。19:30にはホテルに帰れていた。 そこで、運ちゃんがとてもいいやつだったので、明日もチャーターすることの約束をとりつける。 安心して、夜は街をぶらぶらして、成都小吃というとても安いレストランで夕食をとる。これがまたうまい。 明日を楽しみにしながら、0時過ぎに就寝。 5月4日 漢中⇒勉県(古陽平関・武候祠・馬超墓・定軍山など)⇒張良廟⇒漢中 この日は盛りだくさん。7時におきてホテルで朝食をとり、昨日の運ちゃんと待ち合わせしていた8:30にホテル下におりる。 するとちゃんと来ていた。今日のルートを確認して出発。とりあえず勉県に向かう。 (左)ホテルの部屋から。こうみると結構都会かも。 (右)漢中から勉県へ。中国らしい道を進む。 勉県は漢中から西に車で約1時間のところにあるが、ここには定軍山があり、諸葛亮が重視した場所である。 魏を攻めるにもいい場所であるし、死後はここに葬ってくれといった場所でもある。となると、当然遺跡も多いということになる。 運ちゃんは漢中出身のようで、勉県にはあまり詳しくないらしく、途中で、知り合いの弟を車に乗せた。準備周到だ。 勉県では、古陽平関にまずは向かい、そこで魏の侵攻に備えた城壁をみる。復元したものではあるが、いい出来だ。 その近くに、馬超像や墓がある。馬超は、西涼の猛将であり、父の馬騰を曹操に殺され、激怒して曹操を攻めるが、敗れ劉備に仕えた。 蜀のなかでも取り立てられ、蜀の5虎将にまでなったぐらい、猛勇。蜀の武将のなかでも、人気のある武将だ。その分、墓も立派である。 そして、メインともいうべき武候祠に向かう。武候祠、つまり諸葛亮のお墓なのだが、全国各地に武候祠はある。 そんななかでも、ここは最古の武候祠であり、蜀があったときに劉禅(劉備の子)によって作られたものだ。 確かに中をまわっていると、かなり古そうな鐘やら建物がある。確かに最古といわれるだけある。 諸葛亮の像はイマイチではあるが、それでもいろんなものがあって、楽しめた。1時間ぐらいいただろうか。 【古陽平関】 【武候祠】 そして、定軍山に向かうが、ここには特に何もない。定軍山と書いている碑だけみて、そのふもとにある武候墓にいく。 さすが蜀の丞相の墓だ、かなりでかい。しかも、中国人民に慕われている諸葛亮、かなり整備と手入れがされている。 国家AAAA級旅遊景区となっており、Aが4つもついている。5つが最高ではあるが、それでも4つだ。一大観光地である。 中も広いが、奥まったところに諸葛亮の墓があり、これもかなりでかい。 後に奥にも墓が作られたので、2つあるのだが、手前のものが本物だろうということで、そっちに手を合わす。 勉県はまさに諸葛亮一色の街だ。観光開発もしているようで、諸葛亮を前面に出している。道端にはのぼりまで作っている。 湖北省の荊州が関羽一色であったように、ここは諸葛亮一色。三国志の英雄たちが今になって復活するというのは、いいことである。 武候墓のあとは、劉備が漢中王になったところや、諸葛亮が運送手段である木牛流馬を作った場所などを巡り、勉県を後にする。 勉県には遺跡が多いので、見終わったのが16時前になってしまった。タクシーチャーターしないと、どれだけ時間がかかるのか・・・。 【定軍山と武候墓】 そして、この日はもうひとつ行きたいところがあった。それは、漢中の北、もうほとんど宝鶏というところにある張良廟だ。 張良は、劉邦の軍師であり、いかんなく才能を発揮した人物。 秦の始皇帝の暗殺を試みるが失敗。魏の名家であったが魏も項羽に滅ぼされ劉邦につく。数々の献策を行い、漢帝国創設の最大の功労者のひとり。 韓信は野望と持ってしまい、自分が王となって漢を覆そうなどと考えてしまったために、劉邦によって殺された。 しかし張良は劉邦が猜疑心を持つ前に、早々と隠居した。賢いひとは、疑われる前に、必ずそのように隠居する。そして余生を楽しむのだ。 その場所が漢中の北にあるのだ。勉県から遠いが、漢中方面に引き返し、昨日いった蕭何追韓信処を超え、さらに山奥に向かう。 勉県からは、2時間もかかってしまった。ついたのが18時前。もう暗くなり始めている。 なんとか入ることができ、なかを回ることができた。こんなところで張良は生涯を終えたのか、いいところだ。来てよかった。 【張良廟】 18:30ぐらいまでそこにいて、漢中に帰る。漢中までも2時間ほどかかる。かなり遠い場所にあったのだ。ホテルに20:30に到着。 そしてタクシー運ちゃんとお別れだ。当初の予定よりがんばっていろんなところに行ってくれた。そこで奮発して800元を渡した。 最初はもっと安くいっていたが、とてもまじめに真剣にガイドさんみたいなことをやってくれたし、感謝の意も込めて多めに渡す。 すると、とても喜んでくれた。よかったと思い、握手して別れる。中国の人たちは、ほんとにいい人ばかりだと感じる。 そして前日と同じレストランにまたいく。もうやみつき。うまいのだ。この日もかなり満足して0時に寝た。 5月5日 漢中(古漢台・韓信拝将台)⇒西安⇒上海 もうかなり満足した。勉県と漢中の主だった遺跡はかなりいけた。あとは漢中の遺跡を回って帰るだけ。 朝7:30に起きて朝食を食べ、ホテルに荷物を置いたまま古漢台に向かう。チェックアウトが遅いので、それまでに近辺の遺跡を回ることができる。 まずはおとといいけなかった古漢台にいく。ホテルから歩いて15分ほど。 ここは劉邦が執務を行っていたところなので、漢の国の発端となった場所。ここに有能の士が集まってきた。韓信もそのひとりだ。 博物館にもなっており石碑やらが陳列されている。作りとしては重々しい感じである。 (左)古漢台の入口。パスポート見せたらただになった。 (右)昔の蜀の桟道。こんなところを超えて西安に向かっていたのだ。 漢のことはもちろん、褒斜道をはじめとるす蜀の桟道の資料や、曹操が書いたといわれる碑もある。 それは、「滾雪(こんせつ:なお曹操の字は「さんずい」がない)」と書かれており、その意味は2つあるといわれている。 ひとつは曹操の野望を象徴したもの。「滾」には天使の礼服という意味があり、漢を滅ぼし魏の皇帝になるという悲願を込めたといわれる。 結局、曹操のときにはそれが達成できず、曹操の子である曹丕が皇帝になったのであるが。それもしばらくの間で、結局司馬家に滅ぼされる。 そして2つ目が漢中の石門の下を滾々と流れる水を見て書いたもの。 後者ならばさんずいが必要であるが曹操の字にはない。これはすでに河にはたくさん水がある、そのうえ3つもしぶきをあげるのか、と曹操が言う. 見どころ満載の古漢台なのだが、展示物はほとんどが撮影不可。そうなるとこっちも撮りたくなるものの、おばちゃんの監視員の目も厳しい。 少しは撮ったものの、あとは記憶に残すことにした。 出口近くに売店があったので、そこによってみると、陝西省の著名人が書かれた本や、その墓の場所などが書いているではないか! これは、今後、遺跡めぐりをするときに役に立つということで買う。 すると、売店のおばちゃん、かなり明るい人で、ちょっと貸してみ、といって本をもっていき、古漢台の印鑑を押してくれた。 これはプレミアものだ!ということで、おばちゃんにお礼を言って、手を振って別れる。 そして裏から回って韓信が大元帥になったところに行くが、古漢台の裏は、骨董品やらお茶が売っている店が多い。 骨董品は高そうなので、お茶屋による。漢中はお茶どころでもあり、ホテル近くにも高級お茶店もあった。 昨夜も買ったのだが、こっちの茶は安そうなので、新茶というものをすくってくれて、袋につめてくれた。ほんとに安い。 新茶を入れてくれた。とても親切で優しそうな夫婦がやっている店だ。 韓信拝将壇はすぐにわかったのだが、裏口であり表にいくにはぐるっと回る必要がある。 公園になっているかと思いきや、入場料を払わなければならない。えー、と思いながらも、払って中に入るが、当然、誰もいない。 普通の市民公園のような場所なのに、お金を取るとは・・・。こりゃ人もはいらんわ。 それでも、韓信の像が遠くにあり、そこまでに居並ぶ漢の武将や文官の像もある。 最初、劉邦は韓信を呼びつけて、将軍にしますなどと、命令しようと思っていたが、それも蕭何にいさめられる。 大将軍にしようとするのであるから、吉日を選んで、任命すべき、とのこと。 そこで作られたのが、この韓信拝将壇だ。ここで、劉邦から大将軍(元帥)を任命され、西進して項羽を討ち破ったのだ。 この門に書いていた「偉業発祥の地」というのが印象に残る。 像の作りはちゃっちい気がするが、韓信のほかに蕭何、張良などの像が並んでいるのは圧巻だ。 拝将台から下を見ると、蕭何や張良が両側に並んでおり、大将軍になったような気になる。 そして、公園の両側には、項羽と劉邦が戦ったときの名場面が描かれており、垓下の戦いでの四面楚歌の場面などがある。 じっくりと堪能したいところであったが、そろそろバスの時間が迫っている。そこからホテルに引き返した。 【韓信拝将壇】 ホテルに帰ると12時。ちょうどチェックアウトできる時間である。 このホテルには、英語を勉強したてという若いホテルマンがいて、結構親切に対応してくれる。 しかし、英語が覚えたてなので、何を言っているのかわからないときもあるが、一生懸命なので、ほほえましくなってくる。 そのホテルマンに最後までお世話になったのだが、タクシーを拾ってくれたり、バス乗り場の場所や時間なども教えてくれた。 ほんとにいいやつだった。 なとか西安行きの長距離バス乗り場にいき、14時のバスに乗り込む。 この日中に上海まで行く予定だったのだが、なんとか間に合いそうだ。 険しい秦嶺山脈に長いトンネルを何個も作り、山をぶちぬいている感たっぷりの高速道路を走っていく。 諸葛亮があれだけ苦労して達成できなかった西安までも、こんなにいとも簡単に行けるようになれば、ほんとにびっくりするだろう。 途中、トンネル作るときの作業員の労をねぎらったような像もあったりしたが、確かにすさまじい。 ひとつひとつのトンネルがとても長く、また、川の中に支柱をたてて川の上を走っていったりしている。 山の中で一度、休憩があったが、かなりの高地で、肌寒く感じるところであった。急こう配になっている部分もあったりする。 中国の経済発展をここでも感じることができた。 行くときは宝鶏から7時間もかけて電車でいったけど、帰りはバスを使って約4時間30分で咸陽の空港まで行けた。西安市内なら4時間弱だろう。 【秦嶺山脈越え】 飛行機は19:00のものを予約していたが、さすが東方航空。予定通りに出発せず、かつ、渡されたチケットもなぜか20時出発。 どうも機材が遅れているようであるが、なんかよくわからん。とりあえず待たされて20:30に搭乗し、無事出発した。 上海についたのが22:50だったので、もうかなり遅い。中国国内線を使うときは、時間に余裕を持っていないと怖いのだ。 まして、その日に日本に帰るような予定を組んでいれば、下手すれば帰れないかもしれない。改めてそう思う。 ホテルは浦東にとっていたので、近いしタクシーに乗りこむ。浦東空港から40分ほどで着いた。 これで三国遺跡めぐりの旅も終わりだ。感慨にふけりながら、あとは日本に帰るだけということで、1:30に就寝。 5月6日 上海⇒関空 8時にゆっくりと起きて、ホテルで朝食をとる。さすがにシェラトンだけあって朝食が素晴らしい。いろんなメニューがある。 食べ過ぎぐらいに食べて、9:30ごろにホテルを出発。 あとはリニアに乗って浦東空港へ行って、帰るだけ。 次の旅行に備えるためにも、空港の本屋によってみた。すると「地球の歩き方」をぱくった様な本があって笑えた。 まさにパクリだ。中国はパクリの天才である。何も臆することなく、こんな空港で堂々と売っているとは。恐るべき中国である。 英語と中国語の簡単な辞典もあったので、それも買ってみた。ベルリッツが出しているものではあるが。 さー、次はどこに行くかな。 〜完〜 (左)シェラトンの朝食。メニューが豊富であるし、おいしい。 (右)浦東空港の書店で。ぱくったような本である。中も同じ感じ。 【料金など】
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