【旅程】
写真は荊州城・北大門
【この旅行で行った三国遺跡と春秋・戦国時代の遺跡】 なんと三国遺跡は34箇所!春秋戦国合わせると38箇所!
春秋・戦国:
楚紀南城跡、郢城遺跡、八嶺山古墳群、孫叔敖墓
三国遺跡:
南陽近郊:臥龍崗、博望坡、漢桑城、漢議事台跡
襄樊:古降中、馬躍檀溪処、仲宣楼
宜昌:張飛擂鼓台、劉封城、おう亭古戦場、回馬坡
当陽:長坂坡、太子橋、娘娘井、張翼徳横矛処、錦屏山、関陵、漢雲長顯聖処、周倉墓、麦城遺跡
荊州:荊州城、関廟、関公削骨療毒地、卸甲山、張飛一担土、得勝橋、公安門、点将台、漢関公馬ホウ泉、落帽台、換帽塚、春秋閣
武漢:亀山(群英道)、魯粛墓
4月29日
今回は2回目の湖北省。といっても、前回は三峡下りの帰りに寄っただけなので、湖北省を周ることを目的とした旅行としては今回が初め
てだ。湖北には三国志関連の遺跡が山ほどある。魏、呉、蜀のちょうど真ん中に位置するので、争いが耐えなかった場所だ。それだけ遺 跡が多いということだ。その中でも、昔から行きたかった城壁が残る荊州にいけることが最も楽しみである。
いつものように7時台のはるかに乗って関空へ。今回は初めてスマートチェックインをやったが、カードをかざすだけで国際線のチェックインがで
きる。国内線ではSKIPサービスがあるので、カードを荷物検査場でかさすだけでいいが、国際線でも便利になったものだ。これなら搭乗券 を失くす心配もない。ラウンジでしばらくくつろぎ、9:45に飛行機に搭乗、10時出発だ。日本の上空ではいい天気だったものの、中国に近 づくにつれ、雲が多くなってきた。上海浦東空港に着陸すると、ぽつぽつと雨が降っていた。浦東空港は拡張しているようで、2つ目のターミ ナルを建設中、滑走路も2本になっていた。いつもと違う方向からの着陸で、着陸間際に付近の家がよく見えていたのだが、今回は残念 ながらあまり見えなかった。
空港で両替を済ませいつもの場所でタバコを一服。飛行機から降りたのが11:20頃でタバコ吸うまで20分ほどしかかからなかった。そして、
紅橋空港にバスで向かう。以前、乗ったときと変わらず30元(1元=約16円)、車内でチケット代を回収だ。13時過ぎには紅橋空港に 到着し、チェックインを完了させたが、15:50の出発までまだまだある。しばらく、空港の近くを徘徊した。雨が少し降っていたがなんとか歩け る。少しぬれながらも中国に来たんだ、と実感しながら歩く。
襄樊行きの飛行機はかなり小型のジェットだ。2列×2列で乗客は100名ぐらいだろうか。ほぼ満員だ。小雨のなかを離陸し、襄樊まで約
2時間弱だ。襄樊空港に着陸する間際、外を見ると非常に田舎の風景だった。そして着陸すると、とまっている飛行機は乗ってきた飛行 機しかない。襄樊って結構、都会だよな?と思いながらも、飛行機利用はまだまだ少ないのかもしれない。襄樊は火車(日本で言えば汽 車)では重要な位置にあるため、火車の利用のほうが多いのだろう。寂しい空港を出て、止まっていたバスに乗り込む。市内まで約30分、 わずか10元だ。
(左)上海虹橋空港から襄樊までは1時間40分。かなり小さい飛行機だが満席だった。 (右)かなり寂しい空港だ。
到着したのは襄樊火車駅。とりあえず2日後の宜昌に向かう火車の時刻を調べる。いつものように切符売り場には長蛇の列だ。時間を
確認した後、襄樊の地図を購入。それを見ると諸葛亮文化広場が近そうだったので、歩いていくことにした。しかし、中国の地図は近くに 見えていても、かなり遠いことを思い出した。1時間ほど歩いて、ようやく近くまで来たが、雨が本格的に降ってきた。道端の家の軒下でし ばし雨宿りだ。10分ぐらい雨宿りしていると、少し雨がやんできたので、諸葛亮像がある広場へ。立派な体育館の横にその像があった。巨 大だ。しかも、かなり出来栄えがいい。20時になっておりすっかり暗いので、ライトアップも綺麗。この旅、初めての三国志関係の場所に行 けてご満悦。その後、ホテルまでバスで向かう。ホテルでは明日からの予定を考えながら、0時に就寝。
4月30日
6時起床、中国での起床時間だ。さっさと準備して6:30にホテル出発。今日は、襄樊市内の遺跡を回って南陽、新野に行く予定なので
時間はあまりない。まずは、襄樊城周辺を散策しながら、三国武将である王粲(字は仲宣)関連遺跡である仲宜楼に行くことにした。城 壁の外側を歩いていると堀を見ながらの散策となるため、非常に気持ちいい。中高年のおっちゃん、おばちゃんも散歩したりジョギングしたり 体操したり、いつもの中国の朝の光景だ。しばらく歩いていると、目的地である仲宜楼は城壁の中にあることに気付いた。どこかに入り口あ るだろうと思っていたが、ずーーっとなくって結局1時間ぐらい歩いて仲宜楼に到着。城壁を堪能できたし、仲宜楼からの景色も綺麗だった ので、まー、よしとしよう。
その後、襄城バスターミナル近くの壇渓遺跡に行くことにした。ここは劉備が追っ手から逃れようと、馬ごと川にジャンプし、見事に対岸まで
大ジャンプができた場所といわれている(三国志演義の話なので架空の可能性が高いが)。行ってみると、地区住民の住んでいるにおいが ぷんぷんするところで、劉備が飛んだという川もなく、ごみ溜めのような場所に遺跡があった。まー、期待していったらがっかりする遺跡は山ほ どある。ここもそのひとつだった。その後、南陽までバスで向かう。襄城バスターミナルは襄樊市から南に行く便は沢山あったが、南陽に行く 便は2便しかなく時間も会わない。仕方なく、北に行く便が多い襄樊バスターミナルに行って南陽行きのバスにのる。襄樊といっても広いか ら沢山の長距離バス乗り場がある。乗ってから失敗かと思ったが、このバス、かなりとろい。高速道路を使えば2時間足らずでいける距離だ と思うが、途中、お客を拾いまくり、おろしまくりで、結局、2時間40分もかかった。かなり揺れたし、暑かったので気分も悪い。気を取り直し て、南陽の臥龍崗に向かう。この時点でもう11:20、時間がなくなってきた。
臥龍崗は諸葛亮が劉備に三顧の礼を受けたところと、南陽市が言い張っているところである。というのは、襄樊市の古隆中もその場所だと
言っており、河南省の南陽市と湖北省の襄樊市で昔から論争がある。今回は、その両方に行くことも目的のひとつであった。個人的には 地理的な要因で、襄樊市が優勢だと思っているのだが、臥龍崗に行ってみると南陽市の思い入れはすさまじいものだと感じた。街の外れ にあって山の中に潜むといった雰囲気はないものの、門構えといい、中の整備状況といい、公園としてゆっくり回っても癒される場所であっ た。また、臥龍崗の近くには、三顧橋なるものまでつくり欄干にはレリーフがある。この橋を通って劉備が諸葛亮に会いに行った、としている ものだ。まー、どっちにしろ、当時の状況を偲びながら訪れればいいんでないか、と思った。
その後、諸葛亮が初手柄をあげたといわれている博望坡に行く。かなり不便なところにあるので、タクシーで行くことにした。タクシーでも1時
間以上かかったが、訪れてみると、当時、火計で曹操軍を撃退した跡である、一本のこげた木が柵で囲まれており、その近くには博望坡 の石碑が建ててあった。曹操軍に比して劉備軍は兵士の数が圧倒的に少ない。そんな中、おとりを使っておびき寄せ、火計で炎に包み、 伏兵でこてんぱにやっつけた場所である。そもそも、諸葛亮の手柄ではないという話であるが、三国志演義では立派に諸葛亮の手柄にな っている。そのような話はおいといて、地元ではその故事を大切にして、その木を保護していこうという気持ちが強いんだろう、と感じる。
そして次に新野に行く。タクシーで博望坡から約2時間、すでにふらふらだったので移動の間、爆睡だ。新野は南陽と襄樊の間にある田舎
町だ。ここは劉備が一次、駐屯していた場所であり、そのとき、諸葛亮を三顧の礼で迎えた。城壁の一部が残っているものの、街の雰囲 気は雑然としている感じだ。今の新野県政府の近くに劉備関連の遺跡がある。漢桑城小学校の中の関羽が手植えしたという漢桑城 や、劉備が執務したといわれている漢議事台などがある。漢桑城は小学校の中にあるので、守衛のおっちゃんにお願いして入らせてもら う。中では小学生たちが元気に運動していた。その運動場の真ん中にその漢桑城がある。城という名前の通り、城壁になっているのだが、 おそらく世界最小の城で、周囲10mほどだろうか、中の桑を保護するための城壁だ。ひとりきり堪能したあと小学校を出ようと思ったら、出 口にかぎがかかっていた。おっちゃんがどっかにいってる!まずいな〜、柵を乗り越えようかと思ったが、捕まったらシャレにならないし・・・。と思 案していたら、おっちゃんが帰ってきてあけてくれた。しかし、新野は暑い!30度近いのではないか、と思うぐらい暑い!その後、少しだけ城 壁を見て、襄樊に帰ることにした。
新野を出発したのが16:30で、襄樊には18時についたので、まだ明るい。襄樊駅から1元のバスに乗って、襄陽公園近くのバス停でおり、
お堀の周りを歩いてみる。非常に気持ちいい。劉備、関羽、張飛が諸葛亮を迎えている像がある。まずまずの出来だ。その後、スーパーに よって三国志パズルなどを買い、マクドナルドで夕食をすませ、ホテルへ。充実した日だったが、かなり疲れたので、22時前に就寝。
(左)仲宜楼から見た襄陽城のお堀。朝の散策は気持ちいい! (右)襄陽公園の夕陽。水辺の散策は気持ちいい!
5月1日
この日から中国のゴールデンウィークが始まる。そして、あわただしいスケジュールだ。古隆中に行ってその後、宜昌に火車で移動、そして宜
昌で見たい遺跡がある。いつものように6時に起床して荷支度を整え、6:40にホテルをチェックアウトしようとフロントへ。すると誰もいない。 他のホテルでは、フロントで椅子を並べて若い女性が寝てることもあったけど、呼んでも誰も出てこず、奥に入っても誰もいない。仕方なく部 屋に荷物を置き、市内観光に出発。漢江に面する襄樊城の北側を見てなかったので、臨漢門に行く。すると素晴らしい門構えと向こう に見える漢江が見事にマッチして、素晴らしい景色だ。川沿いでボーっとしていると、超気持ちいい。すると、川で泳いでいる集団を発見。 5月といってもまだ寒いのに、元気だ。上流から下流に流されるように泳ぎ、そして川からあがってパンツ1枚で走り、また上流から泳ぐ。この 元気を見習いたいものだ。その後、城壁を上りたいと思い、川沿いを歩く。どこかに上るところがないか探したが、結局見つからず。お金を 払って上がるところはまだ空いていない。城壁に上るのは荊州まで取っておこうと、ここではあきらめた。
(左)臨漢門付近から見た漢江。雄大である。 (右)臨漢門から漢江側を見る。生活感が漂う門だ。
襄樊火車駅を11:40発の火車で宜昌に行きたい。襄樊駅へ切符を買うために移動。8時だったのですごい人だろうと思ったが、意外に少
ない。15分ぐらいで切符があっけなく買えた。襄樊から宜昌までは、荊門、当陽を経由するだけで宜昌終着なので、乗る人も少ないのか もしれない。荷物を取りにホテルにトンボ帰りし、すぐに古隆中へ。襄樊西南郊外の山の中にある。時間がないのでタクシーで行ったが、泊 まった南湖賓館から30分で到着、9時過ぎには着いた。しかし、古隆中は観光地だけあって、すごい人だ。うじゃうじゃいる。他の三国遺 跡とは一味違った人の多さだ。さすが諸葛亮、中国では人気が高いのだろう。古隆中といってもかなり広い。その中でも主だった名所を回 り、三顧の礼を偲ぶ。ここなら劉備が諸葛亮に会うために来たとき雪の中だったということがうなずける。しかし、当時、新野にいたことを思う と、新野からここまで、車でも2時間以上かかるところだ。当時、どのぐらいの時間をかけてきたのだろうか?お供をした張飛もこんな遠くまで 来て、諸葛亮がいなければ、そりゃ怒るはずだ。火車の時間を気にしつつ、ひととおり回るところを回ったが、とにかく人が多い。中国の観光 地らしいといえばらしいのか。時間があまりなくて残念だったが、それでも10:30ごろまでいた。そしてすぐに襄樊駅にタクシーで移動、30分で 着いた。
火車の発車まで40分もあると思って、カップラーメンを食べてお湯を入れて食べた。駅にお湯を用意しているコーナーもあって、便利だ。しか
し、食べて気付いた。あのお湯は大丈夫なのだろうか?お腹をこわすのでは?などと思ったが、まーいっかとスープまで飲んでしまった。おいし い。お腹も一杯になったことだし、さーゲートに行くかと思いきや、遅れているとのこと。出発が12:20と書いてある。あちゃー、と思いしばしうと うと。しかし起きると12:10、なんかゲートの様子がおかしい。掲示板を見ると、改札終了と書いてある。おいおい!と思い、ゲートまで突っ走 って、服務員にあけてもらい、ホームへ走る。幸い、俺と同じ境遇の乗客も2人いたので、なんとか列車に乗ることができた。危なかった〜。 車内は珍しく空いている。4人掛けのところに一人で悠々座れた。中国では珍しい。ちょっとあせって疲れた事もあり、しばし爆睡。荊門、 当陽に1時間おきぐらいに到着し、宜昌には定刻より1時間以上遅れて15:55に到着。三峡くだり以来の宜昌に降り立ち、少し興奮だ。
駅でタクシーに飛び乗り、ホテルへ行かずに三国遺跡のこう亭古戦場に行く。ここは前回いけなかった場所で、どーしても行きたかった。ほ
んとは襄樊の南にある南シ章という街に行こうと思っていたけど、この古戦場に来たいがために予定を変更したのだ。その分、期待高まる。 宜昌市内なら約30分で到着。夕暮れだったけど、その分、いい雰囲気だ。ここは関羽が孫権に殺された後、諸葛亮などの苦言を聞か ず、劉備が孫権を攻めて大敗した場所だ。この戦いで蜀軍は大ダメージを受け、劉備も命からがら逃げた白帝城で最期を迎えることにな る。三国志の最後の3大戦役(他は官渡、赤壁)であるが、この戦い以降、蜀のいいところもなく、諸葛亮が孤軍奮闘することになる。
着いてみると、今はテーマパークになっていた。テーマパークでよかったためしがないが、ここは違う。長江沿いの崖っぷちのところに桟道を作り
周遊路を作っているし、何しろ長江が美しい。ここで戦いがあったのかと思いをめぐらすことができる。ただ、最近できた宜昌長江公路大橋 がすぐ近くにあり、こんなものが出来るとは劉備は夢にも思っていなかっただろう。宜昌近辺で長江に橋を何本もかけており、その分、景観 がイマイチになっているのは少し残念だ。また、別に来なくていいのに、20歳ぐらいの女性がガイドをしてくれるのも、どうかと思った。
すべて見終わると18時、それなりの満足感を抱きつつタクシーに乗る。実はもうひとつ行きたい場所があった。宜昌の街の反対側にある三
遊洞だ。以前も行ったが、そこにある張飛像が素晴らしくかっこいいのだ。もう一度、見たいと思って運ちゃんに言ってみると、電話で確認し てくれ、まだ開いているとのこと。すっ飛ばしてくれて着いたのが18:40、急いでチケットを買って張飛像に向かう。実は白居易などがここの主 役なのだが、そこには目もくれず張飛像まで走る。しかし、ここも長江沿いにありアップダウンがかなりある。結構キツイ。ぜーぜー言いながら ようやくたどり着くと、数年前に訪れたときのままあった!かっこえー!荒削りなこの張飛像は躍動感もあり、中国の像のなかでもピカイチで はないかと思う。そして、ここから三峡の一部である西陵峡の東端も見ることができる。三峡下りのときよく見た船も往来している。三峡を 歩いたときのことも思い出し、この雰囲気は最高によかった。三遊洞には1時間足らずしかいれなかったが、来てよかったと思った。そして、ホ テルに着いたのが20時で真っ暗だった。
当初、襄樊から荊州に行く予定だったが、急遽、宜昌に変更した。というのも、宜昌にネット友人がいるからだ。まだ会ったこともなく、名前
だけしか知らない。ネットがこれだけ発達したらいろんな友人ができるものだ。21時前に待ち合わせた。聞くと日本語ガイドをしているという ではないか、日本語を何不自由なく使ってくれるので、中国語ができない私にとっては非常に助かる。一緒に遅い夕食をとり、その後、御 茶屋へ行った。茶城と書かれたところにつれていかれ、喫茶店をおしゃれにしたような場所でいろんなお茶を楽しむ。こんな雰囲気は日本 にはない。ウーロン茶、プーアール茶など、何種類か出してもらった。しかも、若い綺麗な女性がお茶を入れてくれる。中国の人はこんな風 に、お茶を楽しんでいるんだと社会勉強だ。決して安くはないが、貴重な経験ができた。長い1日がこうして終わった。
(左)5年ぶりの宜昌。宜昌駅は高台になっていて街の中心部を見下ろすことが出来る。 (右)こう亭古戦場の遊歩道から。長江大橋が見れる。
5月2日
宜昌まで来たこともあり、全体のスケジュールに無理が生じる。よって、この日は宜昌から当陽、そして荊州に行くというハードスケジュール
だ。どう考えてもバスでちんたら移動することはできず、仕方なくタクシーをチャーターした。7:20に起床して、8:00に出発。昨日お願いして いたタクシードライバーと待ち合わせしてホテル出発。宜昌から北上し、関羽が最期に捕まったという回馬坡に行く。宜昌は中国の真ん中 あたりに位置し、東は平野、西は四川へ向かう山岳地帯だ。北側も相当な山岳地帯、途中、すごい山道をすごいスピードで飛ばしてい く。このドライバー、元は軍人だったためかなり運転に慣れている。怖いという感じはない。宜昌から1時間30分ほど走ると道沿いに川が見 えてきた。綺麗だと思っていたら回馬坡に到着。川沿いに東屋が建っているが、周りは高い山、谷底に位置する。東屋に行ってみると碑 があり、見事な関羽の絵が彫ってある。この碑の「嗚呼」という文字を見て泣ける。この地であの豪傑関羽が捕まったのだ。今では神格化さ れている関羽でもあり、中国人民からも相当慕われている。誰もが悲しい思いを持つのだろう。しかし、ここは気持ちいい。季節がいいことも あり、また山の中なので空気がおいしい。回馬坡近くではバーベキューをしているグループもいる。ちゃんとごみ持って帰れよ。
30分ほど回馬坡でいた後、次は当陽に行った。当陽は三国志にはなじみの深い場所であり、三国志演義でも37回も登場する場所
だ。曹操が北から攻め劉備が危機となったが、趙雲や張飛が活躍して劉備を救った場所でもあるし、関羽が荊州を守った後、孫権に攻 められ最期となった場所でもある。回馬坡がある遠安からは1時間30分ほどで当陽郊外の関陵についた。関陵は関羽を祀った場所だ。 孫権に捕まり殺された後、首は曹操に送られ胴体はここに葬られたといわれている。ここの関羽像はかなり見ごたえがある。堂々としてい る。陵の奥にいくと墓があった。墓の前で熱心に拝んでいる若いお母さんとその子どもがいた。関羽は今でも慕われていることがよくわかる。 墓の前でしばしたたずむ。
その後、当陽の中心部へ行く。到着するとすぐに目につくのが趙雲像だ。当陽の中心部は長坂坡と言われ、ここで趙雲が曹操軍に突入
し、単騎で縦横無尽に駆け回って劉備の子ども、阿斗を救った。趙雲は当陽の英雄であるため、街の中心部に像が建っている。この像 はなかなかのものだ。記念撮影をしている人が沢山いた。その後、長坂坡公園、太子橋、娘娘井という趙雲ゆかりの場所を回る。太子 橋、娘娘井は三国志演義に出てくる場所なので架空の遺跡だと思われるが、今でもしっかりと残っているということは、地元の人たちも 昔、この場所で起こったことを守り続けようとしているのだろう。その後、再び関羽関連遺跡へ。関羽が殺された後、関羽の霊がでたという 玉泉寺へ。幽霊がでたということなので、ひっそりとしたところを想像していたが、中国の休日はすごい。寺なのにまるでテーマパークのように 人がうじゃうじゃいた。池にはボートを浮かべ、池の周りにはひとばかり。顕霊処でも涼んでいる人がうじゃうじゃ。こりゃ感じでいない、というこ とで早々に撤退。その後、張飛の遺跡へ行って麦城へ向かった。
麦城は回馬坡と並んでいきたかった場所だ。当陽から荊州方面に30分ほど行ったところにある。ここは荊州を守っていた関羽が最期にこ
もった城がある。まずは関羽に付き従っていた周倉墓に行く。周倉は三国志演義だけにでてくる架空の将軍といわれている。しかし、立派 な墓がここにはある。関羽の死を知った周倉が麦城近くのこの場所で死んだことになっている。公道沿いに立派な墓と廟があり管理人もい る。入場料は無料であり、中では作業員が何かを作っていた。何かの建物を作るのかもしれない。廟に行くと鍵がかかっていたが、少し戸 をひっぱると鍵が開き勝手に開いた。ラッキーと思い、中のキラキラの周倉像に見とれる。素晴らしい!と思っていたら管理人が走ってやって きた。かなり怒っている。勝手に開けるな、ということだ。像は見せるためにあるんだろ、と思いながら麦城に向かう。
周倉墓の裏の道を沮河方面に行くと土手にぶちあたる。そこを上がってみると雄大な景色が広がっている。沮河は大きな川だ。この川のお
かげで、このあたりの肥沃な土地があるんだと実感。そこから民家があるほうへ引き返し、民家の裏をとおり麦城へ行く。歩いているここが麦 城だが、碑は一番奥にあった。畑の真ん中に碑が建っている。夕方だったこともあり哀愁が漂っている。今ではただの崩れかけた土山だけ ど、1800年も前にここで関羽がこもっていたことを思うと感無量だ。麦城という名前のとおり、小麦を栽培していたのが印象的だ。
回馬坡、当陽そして麦城と大満足の遺跡ツアーを終え、荊州に向かう。大満足で興奮冷めやらない。やっぱり、ここに来てよかった〜と実
感だ。麦城から荊州までは1時間強、今日のホテルである荊州賓館に19時過ぎに到着。お世話になったタクシー運転手にさよならだ。チ ャーター代の800元はかなり高いが、いろいろと親切にやってくれたのでチップ100元も追加する。満足感からすると決して高くはない金額 だ。その夜は中国でも初挑戦と思われる屋台でごはんを食べる。食べ物を串で刺し、それを湯でぐつぐつ煮込んでいる。ビールも飲みなが らだから消毒されるから大丈夫かな、と思い食べる。が、これが後でお腹を壊す原因になった。やっぱり、中国の屋台で食べるのは、俺には 無理かもしれない。
この日のお気に入りの2枚。左は遠安県の回馬。ここで関羽が捕まった。右は関羽が最期に立てこもった麦城遺跡近くの沮河のほとり。牛がいるのどかな風
景だった。麦城から回馬まで約80Km、関羽は何を思って逃げたのだろうか?
5月3日
この日は荊州を中心に回る。7時過ぎに起きてホテル近くの関帝廟に向かう。荊州賓館から5分ほど歩けば関帝廟に着く。朝の出勤ラッ
シュでもありすごい人だ。関帝廟の近くから荊州城の南側にあたる南紀門が見えたので、そっちに先に行った。荊州城は中国でも珍しい 完全な形で残っている城だ、さすがに素晴らしい。門の近くに階段があったので上ろうとするとおばちゃんが何か叫んでいる。門に上がるのに お金がいるようだ。どうりで城壁は人が沢山歩いているが門には誰も人がいないと思った。城壁を歩く部分と門の部分は行き来できないよ うに壁でふさいでいる。仕方なく5元払って門に上がった。誰もいないので気持ちいい。そこから城外や関帝廟の方がよく見れる。先ほど買 った荊州の市内地図を見ながら今日の予定を立てた。その後、関帝廟に行き、関羽を拝んだ。まだ朝早いので、僧侶が掃除をしてい る。写真を沢山撮っていたら注意された。しかし、この関帝廟の関羽像は立派だ。さすがに関羽が10年間いた荊州の関帝廟だけある。
(左)南紀門から通勤する人たち。すごい人が郊外から城内に押し寄せている。 (右)南紀門の上から東側を望む。朝の気持ちいひととき。
その後、荊州城外の遺跡に行くことにした。バスで行ってもよかったのだがあまりにも多いのでタクシーで行くことにした。まずは、春秋戦国時
代の遺跡である紀南城へ行く。ここは楚の国の首都があった場所で、かなり大きな城跡だ。荊州城から北に公道を走って10分ほど行くと 左手に見えてくる。城壁の一部のようでこんもりした山だ。牛がいたり近所の人が自転車に乗っていたりして、のんびりできるところである。そ の後、荊州地図に郢城遺跡と書いてあったので行ってみた。ここは、前278年に秦将白起が紀南城を陥落させた後、秦がこの地を統治 するために築いた城だ。紀南城に比べると小さいが、それでも城壁跡が田んぼの中にしっかりと残っている。2200年以上前の城跡が残っ ているというのもすごい。南側から東側まで城壁の上を歩いてみると気持ちいい。そして東側には碑が建っていた。
そして三国遺跡めぐりだ。荊州の周りには三国遺跡が多い。関羽が兵士の訓練に使った点将台、関羽の愛馬赤兎馬が水を出したとい
う漢関公馬ホウ泉、関羽が帽子を落とした落帽台、そして帽子をかぶりなおした換帽塚と荊州城の北側の遺跡を回る。すべて関羽関 連の遺跡ばかりだ。中には碑がすでに建っていないところもあったものの、近くに住んでいる人たちに聞きながら、なんとかすべての遺跡に行 くことが出来た。特に換帽塚なんかはふもとの住民に聞けば碑がないと言っていたが、近くに行ってみると、畑仕事をしているおっちゃんが碑 があるよ、と教えてくれ、その近くに住んでいる人しかわからないような場所まで連れて行ってくれた。三国遺跡の中でもマイナーなものばかり で、しかも民間伝説による遺跡ばかりである。ということは、関羽がそれほどまでに慕われ、今でも大切に遺跡が残されているということだ。
一通り回った後、荊州城に帰る。北大門近辺にも関羽が凱旋したと言われている得勝橋や得勝街がある。雰囲気のいい街だ。北大門
は荊州城の中でも大きな門のひとつだ。ここも上るにはお金が必要だったのでやめて下から見ただけにした。周辺には三国公園もありサイ クリングを楽しんでいる人たちがいた。その後、東側にある公安門に行く。ここは荊州の南に駐屯していた劉備がいつもこの門を使って入城 したといわれている門だ。門の前には刑務所もあり、そこの写真を撮っていると守衛さんに怒鳴られた。そして東門城外にある張飛一担土 に行く。ここも民間伝説の遺跡でこじつけであるが、なかなか面白い遺跡だ。その近くには楚の国の人なら知らない人がない巨大な屈原 の像もあった。その後、一旦ホテルに帰ったがその時点で15時。まだ昼飯を食べてなかったので、ホテル近くのファーストフードですます。遺 跡が多いので、あっという間に時間がすぎる。しかも、まだ行っていない遺跡がある。
荊州城内には関羽が戦いのときに毒矢が腕にささりその治療をした関公削骨療毒地が中心医院内にある。ホテルから歩いていく。そして
南門の近くには卸甲山というところがあり、ここは関羽が戦いの後、甲を脱いだという場所だ。そこから長江に向かう道が見えたので、後から 長江を見に行きたくなった。そして荊州にきたら行きたいと思っていた荊州博物館に行く。着くと丁度17時であり閉館時間だ。ここにはミイ ラや春秋戦国時代関連の文物もあるが、残念ながら中には入れなかった。また今度だ。守衛のおっちゃんにお願いして、荊州博物館の 敷地内にある関羽像など三国志関連の文物を見る。無料で入れてくれたが早く回らないと出れなくなるので、早足で回る。その後、後ろ 髪引かれながらも三国公園に向かう。三国公園には劉備・関羽・張飛像があるが有料だ。その像だけ見たかったのだが、入り口から見え たのでそれで満足し中には入らなかった。三国公園の横には荊州古玩城、つまり骨董品を扱う店が並んでいる地区があった。最近できた ばかりで新しい。店には興味なかったが、店の外に三国志の名場面を書いたレリーフがあり、それを観賞する。このあたりには三国賓館が あったり、まさに三国志パークだ。18時前なのでだいぶ暗くなってきたが、沙市区にある中山公園に行きたかったので、そこからタクシーで行 くことにした。
荊州と沙市が合併して今の荊州市になっているので、荊州城から沙市に行くにはそこそこ距離がある。タクシーで20分だ。18時過ぎから
中山公園に入り、この中にある春秋閣を見に行った。中国にはどこにでもある中山公園で、中に池があったりして散歩するにはいい公園 だ。入場料が3元と安いのもいい。春秋閣は奥にあるので歩いていったが、だんだんとおなかの調子が悪くなってきた。昨夜食べた屋台の 料理がまずかったのか・・・。耐え切れなくなり、ついにあの汚い汚い中国の公衆便所で用を足してしまった。人間、窮地に追い込まれれば なんでもできるもんだと思う。しかし、鼻をつままないと耐え切れないぐらいの匂いだった。気を取り直して春秋閣へ。ここは関羽が春秋という 本を読んでいたことにちなんで立てられた閣だ。昔は違う場所にあったが、ここに移転された。中の関羽像がすばらしいが残念ながら鍵がか かっており入れない。像の近くには麻雀卓が置いてあり、近所の人たちが麻雀するのに使っているようだ。関羽さまの春秋閣でそんなことが 許されるのか!春秋閣に書いてあったのだが、関羽は春秋を読んで名武将になったが、ついには春秋に名前が載るぐらいの人になってしま ったと。中国では孔子は文神、関羽は武神といわれている。一武将が神にまでなるというのはほんとうに珍しいことだ。春秋閣の横には孫 叔敖(そんしゅくごう)の墓がひっそりとあった。
満足して中山公園を出るがその時点で19時。近くに長江が見れる万寿公園があったので行ってみた。長江には水上レストランがあり、
川辺を散策することができる。雄大な長江の流れを見ながら、しばしのんびりする。数年前の大洪水のときは、この川辺も推移が10mぐら いあがったそうで、あと少しで川の水が街に流れ出しそうだったようだ。長江の水量は普段でもはんぱじゃない。氾濫するととんでもないことに なっただろう。そんなことを考えながら、長江を行き来する船を見ている。南側に伸びる大橋が近くにあるが、高速道路でもありあまり車は 通っていなかった。そこで40分ほどゆっくりしてホテルへ帰る。ホテル近くに「えみ」と書かれた焼肉屋があり気になっていたので入ってみた。す ると大分から出てきて農場経営して育てた牛をこの焼肉屋で食べさせているおじさんだった。もとは建設業だったけど農業に転身したよう だ。肉はおせじにもうまいとは言えなかったが、日本の味を思い出させる冷奴や味噌汁があってほっとした。頑張って繁盛してほしいものだ。
(左)荊州博物館の東側の路地。三国公園に向かう途中。犬の散歩をしているおっちゃんが印象的。
(右)三国公園近くの三国賓館。荊州は三国志になじみの深い場所ということをよく感じる。
5月4日
ついに最終日だ。この日は武漢までバスで行き、武漢⇒上海⇒関空へと帰国する。上海から関空までの便が遅い時間が追加されたの
で、朝荊州にいても日本にその日中に帰れるようになった。ありがたいことだ。最初、荊州城にある長途汽車駅に行ったが、いい時間の武 漢行きバスがなく、沙市の長途汽車駅まで行くことになった。沙市のほうがバス便が沢山あり、ちょうど9時発があった。武漢までは3時間 弱のバス旅だ。5年前は宜昌から武漢までバスで行ったが、ほぼ同じルート。武漢西ICで降りて漢陽客運駅に着いた。武漢は3つのエリ アからなっているが、長江より南岸の武昌まで行ってしまうとえらいことになる。長江を渡るために大渋滞となってかなり時間をロスするので、 早めに漢陽で降りた。武漢では亀山に行きたかった。飛行機の時間は15時なのでまだ余裕がある。タクシーで亀山まで行く。さすがに武 漢、日本人だとわかればタクシー代30元を請求してきた。亀山に着くとあまり時間がないことに気付く。入場料15元払って中へ急ぐ。
まずは、赤壁大戦全景画館に行く。5年前、三峡下りの帰りにここに寄り、360度のパノラマ画を見たときは感動したものだが、残念なが
ら採算が合わず、閉館になった。そいうことを聞いていたが、実際に行って閉じられているのを見ると寂しいものだった。30元という少し高め の入場料もダメだったのかもしれない。しかし、入り口では沢山の人たちが写真を撮っている。君たちがここに入らないから閉館になるん だ!などと思いながら次に向かう。5年前は三国武将の像が100体以上あったのだが、今では孫策・孫権像、曹操像、三義像のみにな った。どうやら景観が悪くなるからといって撤去されたらしい。これも残念だが、3つの像しかないので、じっくりは観賞できる。しかもどの像もか なりかっこよく作られている。像を楽しみながら、亀山の散策道を歩く。そして、ここには魯粛墓もある。5年前にはいけなかったのだが、念 願かなっていけることになった。ひっそりとした場所にあった。魯粛は呉の国では大変人気で、墓もいたるところにあるが、そのひとつだ。これで 目的達成!後は空港に向かうだけだが、この時点で13時。北側に出る道があったので、趙雲、周瑜像(申し訳なさ程度にある像)を見 つつ公園外にでる。
タクシーに乗り込もうと思ってもなかなか通らない。仕方なく大通りまで歩くが結構遠い。ようやく13:20に乗ることができたが、武漢天河空
港はかなり遠いのだ。出発時間をタクシー運ちゃんに告げると、100元だ、といわれる。高いな〜と思いつつも乗り遅れたらたまらない、OK というとすんごく飛ばし始めた。めちゃくちゃ早い。こんなに早く運転する運ちゃんも珍しい。タクシーでも1時間ぐらいかかるぐらい遠い空港だ が、わずか25分で到着。一体何キロで飛ばしたんだろうか?運転もうまかったので怖い感じはしなかったし、時間は余裕で間に合うし助 かった。無事、東方航空カウンターに行きチェックイン完了。15時に出発し上海浦東空港には16:20着だ。18:20発の関空行きのANAに 乗り、関空着が21:20。これで今回の旅は終わった。今回は湖北省を中心に回ったが、さすがに三国遺跡の多い場所だ。30以上の遺 跡を一気に回ることが出来た。その中でも遠安と麦城という関羽最期の地が印象に残る。今回も大満足の旅であった。さて、次はどこに 行くかな?
(左)亀山群英道の劉備・関羽・張飛像。道の真ん中にある。ここでの主役はやっぱり孫策と孫権かな。
(右)武漢天河空港。左手のバスに飛行機まで乗った。飛び立つと武漢近辺は水辺が多いことがよくわかる。
〜完〜
|