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ロバとラクダの中央アジア(ウズベキスタン・トルクメニスタン・タジキスタン)

【旅程】
2009年5月1日
関空⇒韓国・仁川空港⇒タシケント
タシケント/ショドゥリク・パレス
5月2日 
タシケント⇒(飛行機)⇒ヌクス⇒(チャーター車)⇒ムイナク(アラル海・船の墓場)⇒(チャーター車)
⇒ヌクス
ヌクス/ホテル・ヌクス
5月3日 
ヌクス⇒ウズベキスタン・トルクメニスタン国境⇒クフナ・ウルゲンチ⇒ダシュホウズ⇒ウズベキスタン・ト
ルクメニスタン国境⇒ヒヴァ(すべてチャーター車で移動)
ヒヴァ/アジア・ヒヴァ
5月4日 
ヒヴァ⇒(チャーター車)⇒ウルゲンチ⇒(飛行機)⇒タシケント⇒(チャーター車)⇒サマルカンド
サマルカンド/アフラシャブ・パレス泊
5月5日 
サマルカンド⇒ウズベキスタン・タジキスタン国境⇒パンジャケント(ペンジケント)⇒ウズベキスタン・タ
ジキスタン国境⇒タシケント(すべてチャーター車で移動)⇒ソウルへ
5月6日 
韓国・仁川空港⇒関空
写真はウズベキスタン・ヒヴァのアクシェイク・ババからの眺め

【旅行前】
いつものように三国遺跡をめぐる中国の旅を考えていた。今回は西安か漢中か、はたまたレッドクリフ関連で赤壁か。そう考えていると、西安から敦煌、そしてウルムチあたりまでもいいなと。そもそも、シルクロードという響きには昔からあこがれていて、いつかは行きたいと思っていた場所だ。それならと、もっと飛び越えてウズベキスタンあたりまで行きたくなった。調べていると、ウズベキスタンのほかに、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、トルクメニスタンと、ソビエト連邦から独立した国々があるではないか。いろんなルートを考えていたが、すべての国を回るのは日程的に無理。しかも、交通の便も決してよくない。個人旅行をしようと考えていたが、いろんなところにいくには、やはり旅行会社に個別手配してもらったほうが効率よく回れる。

そして、カザフとキルギスはあきらめ、ウズベキスタンを中心に3カ国を周遊するという、かなり無理な日程を組んでもらった。移動ばっかりの旅になったものの、行きたかったアラル海、サマルカンド、トルクメニスタン、タジキスタンと周るには、最善のルートだろう。少し割高になったが、ビザ申請等も含めて35万円ほどになった。行き帰りと現地での2回の飛行機、車をすべての行程でチャーター、そして宿泊代などの旅行費用が31万5千円で、後は、ウズベキスタンビザ申請代行が8,400円、タジキスタンビザ申請代行が10,500円、トルクメニスタンビザ申請書類作成代行が15,750円、関空使用料2,650円、ウズベキスタン出国税1,900円、燃料サーチャージが1,500円(極端に低くなった!)という内訳。

ちなみにファイブスタークラブを利用させていただき、とても親切に対応してくれて、旅先でもまったく不備がなかった。
そして現地では、シルクツアーが世話をしてくれたが、ガイドさんが若すぎてイマイチだったものの、通訳代わりになり、まー、問題なかった。

そもそも、中央アジアとは、アジアなのか、ヨーロッパなのか、イスラム圏なのか。名前にはアジアとついているし、ワールドカップ予選もアジア枠に入っているので、アジアの西の端なんだろうけど、外務省のHPではヨーロッパに区分されている。しかも、イスラム圏やインドの影響、そしてソビエト連邦時代の名残もあり、アジアそしてヨーロッパはもちろん、様々な文化が混ざっている感じだ。そのなかでも、ウズベク人、カザフ人、キルギス人、トルクメン人、タジク人など民族も分かれているし、言葉も違う。多様な民族がいるなかで、東西の文化が融合し、現在の形になっているのだろう。

ウズベキスタンのガイドの言葉の端々に、ウズベキスタンに誇りを持っている感じを受け(トルクメニスタンやタジキスタンのことをけなしていたのは気に障ったが)、民族としてのプライドもあるのだろう。そして、ソビエトから独立したことをどう思うかと、あえて2人に聞いてみたら、どちらも今のほうがいいし、これからもよくなるだろうとのことだ。

そんなこんなもあって、歴史も勉強していけば、より理解も深まったのだろうが時間切れ。でも、せっかく行ったのだから、行った後になるが、以下で簡単に歴史についてまとめておく。


【中央アジアの歴史】
簡単だが略歴を記載する。
8000年前 中央アジア南西部のトゥルクメイア一帯では農耕が行われていた。
北部にスキタイ人、サカ人、サルマト人などのイラン系遊牧民族、中央部にソグド人、南部に古代バクトリアが栄える。
紀元前6世紀 アケメネス朝ペルシャに征服される。
紀元前3世紀頃 アレキサンダー大王により征服され、ギリシャ人が居住する。
アレクサンダー大王の死後、グレコ・バクトリア、アルケサス朝パルティアが栄える。
紀元前160年頃 匈奴から追われた月氏が大月氏を建国した。その頃、漢の武帝が張騫を大月氏に派遣している。
パルティア帝国は500年続いたが滅びササン朝ペルシャが台頭。ゾロアスター信仰によるペルシャ帝国の復興を目指す。
5世紀中頃 アムダリア川周辺をエフタルが脅かし始め、領土を拡大。
6世紀中頃 トルコ系遊牧民族の突厥が出現するが、西突厥(西トルキスタン(トルコ))と東突厥(モンゴル)にわかれる。
567年 ササン朝ペルシャと突厥に挟撃され、エフタルは滅亡。
630年頃 中国・唐はシルクロードを確保するため、東突厥、西突厥を相次いで破る。
7世紀始め アラビアを統一したイスラム勢力が進出し、651年ササン朝ペルシャを滅亡させる。唐とタラス川河畔で戦い唐大敗。
1141年 セルジュク・トルコとカラキタイ(西遼:モンゴル系契丹族)がサマルカンドで戦い、カラキタイが勝利。
12世紀から13世
紀始め
ホレズム帝国が栄える。
13世紀始め チンギス・ハーンが率いるモンゴルがホレズムを討伐し、スルタンをカスピ海の孤島に追い詰め病死させる。サマルカンドや
ブハラが甚大な被害を受ける。
チンギス・ハーンの死後、4つに分割され、次男チャガタイに与えられた中央アジアにチャガタイ・ハーン国ができる。
1336年 ケシュ(現シャフリサーブス)でティムール(モンゴル系)が生まれ、1405年になくなるまで勢力範囲を広げる。
15世紀 ブハラ・ハーン国、ヒヴァ・ハーン国などが成立。
16世紀 チンギス・ハーンの長男ジュチの子バトゥの子孫がウズベク族の始まりとなり、ウズベク族のムハンマド・シャイバニが1500
年に西トルキスタンを平定。その後、政権は同族のブハラ・ハーンに継承された。
16世紀 イワン雷帝は中央アジアの通商に乗り出したが、19世紀にインドから北上するイギリスに対抗して、植民地化を進め
る。
1868年
コーカンド・ハーン国とブハラ・ハーン国が、1873年にヒヴァ・ハーン国が帝政ロシアの保護国になった。
1917年 ロシア革命により、タシケントに西トルキスタンを支配するソビエト政権が樹立。それ以降、1991年の独立まで社会主
義体制となる。


【旅行記】
5月1日
仕事が忙しかったこともあり、今回は事前にほとんど準備していない。行き先を決めるときに、ある程度は調べていたものの、行くまでにガイ
ドブックぐらいは読んでおこうと思うぐらいだ。そんな感じで関空から出発。大韓航空で行ったので、ソウル経由のタシケント行き。アシアナ航
空もそうだが、ソウルからアジア各都市への就航があるのが嬉しい。ソウルを中継して別の地域に行くのは今回が初めてだったが、2時間足
らずでいけるソウルを経由するのも悪くないと思った。スターアライアンスをいつも使っているので、アシアナ航空を使って、今度、どこかに行っ
てみたいものだ。しかし、ソウルの仁川空港はすばらしい空港だ。到着して、トランジットのために荷物検査をしてエスカレーターで上がれ
ば、すぐにショッピングセンターがある。トランジットのためのホテルやら、伝統工芸を伝える場所やら、もちろんショップやら、なんでもある感
じ。しかも、日本語もよく通じるし、綺麗だ。関空も一時期はアジアのハブを目指していたが、とてもかなわないと思った。で、ゆっくりとうどん
などを食べていると、気がつけば、17時で搭乗時間がとっくに過ぎて出発時間が迫っている。これはまずい!ということで猛ダッシュで搭乗
口に向かうが、まだ大丈夫ですよ、とやさしく綺麗なお姉さんが声をかけてくれた。ほっとしながら、飛行機に乗る。

しかし、乗り込んで自分の席を探していると、なんとイスラム系のうさんくさいにーちゃんがすでに座っているではないか!ここは俺の席だといわ
んばかりにチケットを見せると、邪魔くさそうに、後ろの空いてる席に座れというジェスチャーをしてきた。おいおいと思っていると、フライトアテン
ダントが飛んできてくれて、そのにーちゃんを決まった席に移動させてくれた。見るとかなり後方の席だった。正義は勝つのだ!ただ、中央ア
ジアってこんな奴ばっかりなのか?と若干不安になる。
 
(左)仁川空港のトランジットの掲示板。タシケントという文字にワクワク。  (右)空港内の伝統・文化センターでこんなこともやっていた。

ソウルからタシケントまでは行きは7時間のフライト。時差は4時間あるので、タシケント到着は現地時間で20時半だが、日本(ソウルも一
緒)時間だと0時半となってしまう。ガイドブックを読んでいたものの、仕事の疲れもあり、途中はほぼ睡眠時間に取られてしまった。しかし、
大韓航空の機材が古いのか、タシケント便なので機材が古いのかわからないが、エコノミーにモニターがついていない。いや、後でわかった
が、ビジネスクラスですらモニターがついておらず、10席程度の間隔に、天井から画面がおりてきているだけだ。なんという古い機材なんだ。
映画もゲームも楽しむことなく、ひたすら寝てタシケントに向かう。ずっと夕暮れという感じで、タシケントに向かうが、だいぶ近づいたころ、天
山山脈らしきものが見えた。頂上付近には雪が積もっている。20時近くというのに、まだ明るい。そして、いよいよタシケントにつく頃ようやく
暗くなってきた。首都とは思えないぐらいの、暗い感じの街並みが見えてくると、飛行機が降下を始める。そして、少し暗い空港に着陸し
た。

ウズベキスタンに入国するには税関申告書を2枚書く必要がある。しかも、貴重品ということで携帯電話やデジカメも書く必要がある。それ
を2回同じように書くのだ。めんどくさいと思いながらも仕方ない。この旅で、3回出入国することになったので、申告書も3回も書いたことに
なる。だいぶ書き方も覚えたものだ。

4月後半に、突如、メキシコで新型インフルエンザ(豚インフルエンザ)がはやって、死者もでているということで、日本でも大騒ぎ。そんなこと
もあり、ずっとマスクをしていた。空港での検査も厳しいものかと思っていたが、飛行機降りてバスに乗り、下りるとすぐに体温計を渡された。
それで測りながら歩き、1分もしないうちに係員にその体温計を渡すという、超原始的なやり方をやっていた。これは驚いた。そんなんで、体
温が測れたのか?と思うが、何より、その体温計は綺麗なのか、と思ってしまう。そしてイミグレも旧共産圏とはいえ、思っていたよりスムーズ
に通過でき、荷物も問題なくでてきた。着陸してから、わずか45分ほどで空港を出ることができた。空港の外では、手配してあったガイドさ
んが迎えに来てくれていた。写真を撮ってはいけないと思っていたが、空港の外観ならOKということで写真をとりまくる。そしてホテルへ向かっ
た。
 
(左)空港外観。到着(1階)は古い感じだが、出発(2階)は新しい不思議な空港  (右)空港横の有料トイレのゲート。コインを入れると入れる。

ホテルは空港から15分ほど行ったところにある。外観はなかなか綺麗だ。フロントも英語ができるし、対応もいい。部屋もそこそこ綺麗だっ
た。荷物をとりあえずおいて、ホテルの周りを散策。でも、少し外れにあるのか、店が少ない。DVDの販売店があり、もう少しいけば、昔なが
らの売店があった。そこで、水を買う。少しお腹が減ったので、ホテル近くのレストラン(というか食堂)に行き、麺料理を食べるがこれがなかな
かおいしい。シルクロードは麺ロードといわれるときもあることを思い出した。そして、ご飯のかわりにあるのがナンだ。ナンは毎食に必ずでてく
るし、場所によって味も違った。ウズベキスタンの人はナンが好きなんだそうだが、ここで食べたナンは、味はもうひとつだったように思う。おなか
も膨らんだことだし、明日も早いので、寝ることにした。
 
(左)これが昔ながらの売店。中国によくあるタイプ。     (右)名前忘れたが、おいしかった麺。Kyk-cn(ほんとはnの逆)と書いてあった。


5月2日
この日は4:30起き。たまらなく眠い。旅行に来ればいつも早起きになるのだが、仕事疲れもあるのか、かなり眠い。幸い飛行機移動があ
るので、そこで寝ることにしよう。5時にホテルを出発し、タシケント空港へ向かう。この日は、今回、どうしても行きたかったアラル海。周辺の
灌漑などで水がなくなり、以前は世界第3位の大きさを誇る湖だったが、今では10位にも入っていない。その深刻な環境問題を感じるべ
く、今回無理やりコースにいれた。だから眠いのも仕方ないか。アラル海に行くには、タシケントからヌクスという街まで飛行機で行き、そこか
らさらに車でムイナクという街に行く。タシケントは東の端でヌクスが西の端だから、ウズベキスタンをほぼ横断するように飛行する。

タシケント空港に到着したが、まだ人はまばら。国際線と国内線はターミナルが分かれている。国内線で搭乗手続きを済ませるが、日本
人がかなり多い。みんなウルゲンチに向かうようだが、私はヌクスだ。さすがにヌクスへ行く日本人はほかにいなかった。そして、嬉しかったの
が、旧ソ連のままなのか、空港内でも喫煙できるということだ。世界的にみても少なくなってきているように思うが、ここは違う。ただ、空港の
外観は撮影可能だが、内部は撮影不可だ。撮影したいのを我慢して、7時の搭乗を待つ。そしてアナウンスがあり、いっせいに駆け寄る。
先ほどいた日本人も駆け寄るが、ウルゲンチは後。係員に嫌そうな顔されながら、今はヌクスだ!みたいに手で追い払われていた。チケット
をちぎってもらい、バスに乗り込む。そこから飛行機まで行くが、なんとプロペラ機だった。あーあ、フライトが遅くなる、と思いながらも、まー、仕
方ない。すると、撮影禁止のはずなのに、欧米の観光客らしき人たちが写真を撮りまくっている。いいのか?と思いながら自分も撮るが、係
員にやはり注意されていた。でも、撮った映像を消去しろとかカメラ没収にはならなかった。プロペラ機は久しぶりだ。
 
(左)タシケント空港の国内線ターミナル。 (右)ヌクス行きの飛行機。本当は撮影禁止区域なのだが。

機内に入ると、2列×2列でありかなり狭い。チケットに書いているシート番号を見ると14列目になっている。どこだ?と思いながら進む。か
なり後ろだなと思って、一番後ろまで行くと、なんと一番後ろの席が13列ではないか。14列がない!おいおい、どうなってるんだ、と思いなが
らフライトアテンダントに言うと、空いてるところに座ってくれというジェスチャー。まーえっかということで、8列目に座る。窓側をゲットできたので、
景色を楽しみながら移動できる。

プロペラ機のいいところは急激に上昇しないために街の様子がよくわかることだ。しばらく低空か?と思うぐらい低いところを飛ぶ。そのため、タ
シケントの街並みをよく見ることができた。タシケントは首都だけあって200万人も住んでいる。しかし、緑が多く、市域もかなり広いように感
じた。綺麗な街である。機内誌に目をやると、民族衣装を着た女性達が写っている。感じがでていい。そうこうしてると景色が見えなくなっ
てきたし、眠いので寝る。
 
(左)タシケントの街並み。  (右)機内誌。いい感じだ。

気がつくと、外は荒野になっていた。どこまでも続く不毛の大地。中央アジアはステップ気候なので、こんな風景が続いてるのか。予想はし
ていたものの、実際見るとこんなとこに人は住めないだろうと感じる。そして、ヌクスが近づいてくると、灰色の街が見えてきた。荒野のなかに
できた街のようだ。家の色が灰色なので、暗い感じの街に見えた。そしてだんだん高度を下げて着陸。タシケントから2時間30分のフライト
だ。なお、帰りはウルゲンチからタシケントまで飛行機を使ったものの、ジェット機だったのでわずか1時間だった。ウルゲンチからヌクスはさほど
離れていないので、やっぱりジェット機は早いと思った。

〜ヌクス〜
実はこのあたりはカラカルパクスタン共和国なのだ。そしてヌクスはその首都。ソ連崩壊時にウズベキスタンに編入されたのだが、国際的に
認められていないものの、ウズベク語とも言葉が違うようだ。空港内の表示板には、英語、ウズベク語、そしてカラカルパクスタン語の3つが
表示されていた。また、飛行機が到着した側のターミナルにはヌクスは英語標記(おそらく)だが、空港を出て正面から見るとスペルが違って
いるので、おそらくカラカルパクスタン語と思われる。また、国旗もウズベキスタンとは違うものがあるようだ。そんなウズベキスタンの辺境の地に
降り立った。空港を出るとドライバーが迎えに来てくれていて、そこからホテルへ向かう。街並みを見ていると、結構、新しいビルも建ってい
た。ひょっとして日本のODAだったりして。
 
(左)飛行機を降りてターミナルへ。歩いていけるのは地方空港のいいところだ。 (右)これが外から見たターミナル。スペルが違うのだ。

ホテルはその名も、ホテル・ヌクス。そのままだ。チェックインした後にアラル海に向けて出発する。しかし、このホテル、かなり汚い。外観やフロ
ント見る限りそうでもなかったのだが、部屋の床はなんか虫がいそうだし、バスタブは下のほうが黒く、何よりトイレが臭すぎ。水が悪いからか
もしれないが、水も相当臭いのだ。まー、辺境の地なので仕方ないとはいえ、かなりブルー。それでも、気を取り直してアラル海に出発!ヌ
クスの街を車で走っていると、とにかく地面が白い。あれはなんだ?と聞いてみると塩らしい。塩が地面に浮き上がっているようだ。それだけ土
壌が悪いということだろうが、それが水のなかにも入ってくるので、このあたりの水はウズベク人でもダメらしい。そして、ヌクスの街を出ると、ずっ
と荒野だ。飛行機で寝たとはいえ、まだまだ眠い。気がつけば寝ていた。そして起きると昼飯時になっており、道端の食堂のようなところで
車が止まっていた。ヌクスから1時間20分ほど経っていた。
 
(左)ヌクスの街は地面が塩で白い。 (右)これがドライブインだ!オープンテラスというべきか。

この食堂、この近辺の人が来るのか10名ほどの作業員っぽい人が来ていた。ハイウェイにあるので、ドライバーも立ち寄る感じの店。ウズベ
キスタンのドライブインってところか。ラグマンを食べたかった私は、ガイドに頼んでもらった。どんな厨房で作っているかは想像しないようにし
て、ラグマンを食べるが、めちゃくちゃおいしい。シルクロードは麺ロードだ!こんな田舎でこんなおいしいものが食べれるとは思わなかった。か
なり満足して、アラル海を目指す。途中、牛やら羊やらが放牧されているのを見ていたが、昼飯を食べたこともあり、すぐに眠くなる。そして
爆睡モード。タシケントに比べて、少し気温も高いようだ。ぽかぽかしながら寝るのはとても気持ちいい。次に気がつくと、アラル海のモニュメ
ントが目に入ってきた。そうだ、アラル海に着いたのだ!ヌクスからノンストップで来ると2時間30分ほどかかる計算になる。
 
(左)これがラグマン!このあたりは汁があるが、サマルカンドで食べたものは汁がない。 (右)アラル海方面へ向けて出発!

〜アラル海〜
モニュメントだが、かなり新しいようだ。2008年と書いているので、1年前か。アラル海が小さくなっていることを表現されたモニュメントだ。そし
て、その向こうにはアラル海がある。そして衝撃の光景が目に入る。船が等間隔で並んでいる。しかも、錆びている。もちろん、水はない。遠
くを見ても水らしきものはまったくない。ほとんど砂漠と化しているのだ。40年前まではここまで水があったようだが、綿花などの灌漑で水をと
ったことによって、水位が下がったようだ。綿花栽培を行う地域はいいが、かつて漁港があったムイナクはいまやゴーストタウンのような様子。
昔は、ロシアが食料難になったとき、ムイナクからアラル海を通って魚を送っていたという時代もあったのに、いまや水や生命すら感じさせない
荒涼とした地帯となっている。
 
(左)アラル海のモニュメント。 (右)衝撃の瞬間!船が並んでいる。まさに船の墓場だ。

モニュメントがあるところは高台になっているので、そこから船がある場所まで下りてみる。階段まで整備されている。そこそこの崖になっている
ので、だいぶ下りなければならない。船に近づいていくが、怖さすら感じる。そして、風が強く、砂嵐のようになるときもある。目をあけていられ
ないので、サングラスをかける。船は10隻以上あるだろうか。ほとんど一直線に並んでいるので、湖岸に並んでいたが、ある日突然、水が引
いたんだと思われる。このあたりは遠浅だったようで、1m水位が下がると10Km以上、湖岸が下がったらしい。そして、少し大きな船に上がっ
てみた。錆びているものの、甲板はまだ歩けるぐらい強度はある。操縦室やら倉庫室には何もない。沖合いのほうを見てみるが、はるかか
なたにも船の残骸が残っているように見えた。段階的に湖岸が下がっていったのだろうか。なんともいえない気分だ。砂状になっているところ
を歩いて沖合いまで行きたかったものの、砂嵐がひどいので断念。途中、近所の高校生らしくワルガキが2人ほどやってきた。何かを恵んで
もらおうと思っているのか?この辺の人は何をして暮らしているんだと聞いてもらうと、魚を取っているといったそうだ。ガイドいわく、それは嘘だ
ろうとのこと。そのワルガキそうな2人の服を見てみると、かなりボロボロ。生活ぶりがうかがえる。
 
(左)一番大きな船。宇宙戦艦ヤマトみたい。  (右)並んでいる姿は圧巻。

そしてモニュメントのところまで戻ると、アラル海の歴史のようなものが書いていた。そして、40年前、2004年、2007年とアラル海が縮む様子
の写真も掲載されている。2004年から2007年までにもかなりの水がなくなっている様子がわかる。このままいけば、近い将来消滅するので
はないかと思われる。なんともいえない気持ちになる。そして、振り返るとモニュメントの裏側は40年前のアラル海の絵が書いてあった。昔、
社会で習ったアラル海の形をしている。モニュメントのところから、遠くを見ると、やはりところどころに船の残骸が見えた。やはり、段階的に水
が引いていったのだろう。その光景を目に焼き付けて、その場所を後にする。するとすぐにムイナクの街を通った。日差しは明るいのだが、どう
も街が死んでいるように感じた。ヌクスでも水がひどいのだから、この辺りはもっとひどい水なんだろうと想像する。そして、農薬を使っている関
係で人体にも影響が悪いらしく、ムイナク近辺の平均寿命は44歳らしい。なんともむごい話だ。アラル海が干上がり、生活の糧をなくしたう
えに、農薬の影響もあるとは。ただ、学校帰りの学生たちの笑顔が唯一救われた気がした。
 
(左)左から40年前、2004年、2007年。こんなに円かったのに八の字型になっている。 (右)遠くに見えた船の残骸。もっと先にも船の残骸はあった。

ムイナクを後にし、車は一路、ヌクスへ。ドライバーのおっちゃん、かなり飛ばす。一般道であるが、ほぼまっすぐということもあり、100Kmをくだ
らないスピードを出している。でも、腕はよさそうなので、安心して帰り道も爆睡だ。ヌクスに近づいたところで、目が覚める。2時間ほど寝て
いたか。相当疲れている。いつも旅の2日目は体が順応せずに体調が悪い。喉がかわいたので、道端の売店によってもらいファンタオレンジ
と水を購入。とてもおいしい。そして2時間30分でヌクスに到着。17時前にホテルに着いた。少し休憩しようと思い、ベッドに横になったが、
また寝てしまった。何時間寝るんだと思いつつ、気がつくと18:30。体調も少し戻ったので、ヌクスの街を散歩した。でも、これといって見るも
のもなく、ホテルの周りを一周して、ホテルに帰る。ホテルの前はバスターミナルになっており、何台かバスが止まっている。サマルカンドから10
時間以上かけて走ってきたバスもあった。夕涼みもできとても気持ちがいい。近所の人が寄ってきて、話しかけてくる。おっちゃんに日本のタ
バコをあげるととても喜んでくれた。すると、このホテルのレストランはまずいから、いいとこ紹介するなどと言っている。でも、移動するのがめんど
くさかったので、ホテルのレストランで夕食。するとそのおっちゃんが入ってきて、一番いいメニューを紹介していあげると言ってくる。タバコ外交
は威力が大きい。確かにそのおっちゃんが言うように、まずくはないが、うまくはなかった。そして、再度、街をブラブラ散歩して、0時前に就
寝。今日はとても疲れたが、アラル海を見ることができ、目的は達成できた。明日はトルクメニスタン入国だ!
 
(左)ホテル・ヌクス。外観はいいんだけど・・・。  (右)昔ながらの店。店頭でアイスやジュースを売っていた。店員さんの愛想がよかった。


5月3日
いつも旅の2日目はかなりしんどくなる。体がまだ順応してないからか。でも、2日目にかなり大量に睡眠をとることによって、3日目からは元
気になるというパターンが多い。そして、この日は3日目。昨日はかなり疲れていたこともあり、夜も熟睡。そのおかげで、体調がかなり回復
して、朝から気分がいい。これで旅も楽しめるというものだ。カビ臭く、バス・トイレに異臭がするこのホテルともお別れと思うと、気が楽になる
のかもしれない。朝食を取るためにおきて1階のレストランに向かう。すると、若いにーちゃんが何か言っている。でも、まったくわからない。ウズ
ベク語なのかロシア語なのか、それともカラカルパクスタン語なのかすらわからない。何もわかりません!とジェスチャーをしていると、たまりかね
たにーちゃんが、フロントに行ってチケットを取ってきてくれた。チケットがないと朝食がでないシステムだったらしい。それは悪いことをした。出て
きた朝食は、ソーセージと目玉焼きというシンプルなものだ。味はかなり薄味。それでも、食べれるだけいい。そしていよいろトルクメニスタン国
境に向けて8:30にホテルを出発だ。

ここで、トルクメニスタンだが、今回の目的のひとつがトルクメニスタンへの入国だった。調べようとしても、とにかく情報がなく謎に満ちている。
しかももう亡くなったもののサパルムラト・ニヤゾフ大統領が独裁というではないか。まさに中央アジアの北朝鮮状態。調べていると「トルクメニ
スタン共和国へようこそ!!」のようなサイトもあり興味をそそられる。大統領の像か肖像画を撮影するのも楽しみのひとつだ。

そんな思いをいだきつつ、車は、昨日、アラル海に向かった道と同じ道を走っていく。これでいいのかな?と思っていると途中から違う道にそ
れる。すると、古代遺跡のようなものが現れた。ガイドに何か聞こうと思ったが、ガイドはヌクスに来るのが初めてと言っていたので、聞くのをや
めた。そしてしばらく荒野を走っていくと、突如、正面にゲートが見えてきた。ついにウズベキスタンの国境ゲートに到着だ。周囲はのどかな
田舎の風景だが、やはり国境、ライフルをかついだ警官がいて、物々しい感じがする。

ウズベキスタンでは入国時に税関申告書を2枚記載し、1枚を返却してくれるのでそれを出国時まで持っていなければならない。入国した
ときの紙と、新たに記載した紙を提出する。ガイドが税関申告などのデスクまで来てくれて、手続きをしてくれたので、スムーズに手続きでき
た。ただ、トルクメニスタン側のガイドとの約束時間が過ぎているのがとても気懸かりのようで、気ばかり焦っている感じ。なんとか手続きも終
了し、再会を約束してウズベキスタンの境を徒歩で出る。2、3分中立地帯(空白地帯?)を歩くと、トルクメニスタン側の警備隊がいた。
パスポートとビザ発行証明を見せると、しばらくして通してくれた。すると、ガイドらしき人が待っていてくれた。サングラスをかけていて、とてもイ
ケメンぽい。なんとなくGackt(ガクト)に似ている感じ。そして入国手続きだが、まずは、壊れかけたような体温計を渡されて体温計れとい
う。豚インフルエンザ対策か?その体温をノートに記入し、そしてビザ発行などの手続きに入る。それもすべてガイドがやってくれるので、ただ
待っているだけ。待っているときにタバコを吸っていたら、警備員に吸っちゃダメと言われたのをきっかけに、少し話する。どこから来たの?日
本?観光?と人懐っこく話してくる。英語は苦手なんだよ、と言いながら17歳と聞いてびっくり。時間がそれで少し潰れた。ようやく手続き
が終了したと思ったら、次は荷物検査。普段はされないのに、今回はされてしまい、ガイドも恐縮していた。1時間30分ほどかかり、ようや
くトルクメニスタンに入国。さー、旅が始まる!
 
(左)ウズベキスタン国境近くの遺跡っぽい山。 (右)ウズベキスタンから見た国境地帯。車やら乗り合いタクシーやらがとまっている。

国境で待っていた車に乗り込み自然豊な大地をひた走る。晴れていることもありとても美しい景色だ。その景色を楽しむ。ふと車内を見る
と、キツネらしき顔をしたものが横にいる。なんだこれは!とよく見てみるとキツネの中身をすべて取り払い、皮と毛だけになったキツネちゃん
だ。顔の原型はあるしヒゲもある、そして手足もそのまま皮だけついているのだ。可愛そうだし、少し気持ち悪い。そうこうしているうちにクフ
ナ・ウルゲンチに近づく。街らしきところを通過するが、国旗がいたるところにある。これも独裁国家の特徴か。

〜クフナ・ウルゲンチ〜
国境から20分ほどでクフナ・ウルゲンチに到着。街になってきたなと思ったら、いきなり道端に遺跡が見えてくる。クフナ・ウルゲンチは、「古い
ウルゲンチ」という意味だ。ウズベキスタンのウルゲンチができる前から栄えていたホレズム王朝の都。モンゴル軍やティムールに破壊されなが
らも、10世紀から14世紀まで栄えた都。しかし、アムダリア川の流れが変わったので、ウズベキスタンのヒヴァに都が移されて衰退したというと
ころだ。当時に作られたモスクやミナレットが、あまり修復されておらず、自然のままに残っている感じがいい。それでも、ここは世界遺産に登
録されているのだ。ここには、トラベク・ハーン(Turabek Hanum)廟や中央アジアで最も高いクトルグ・ティムール・ミナレット、イル・アルスラ
ン廟、そして、キャラバン・サライの門などの遺跡が点在している。

まずは、小屋のようなチケット売り場でガイドさんがチケットを買ってくれる。ただ、写真を撮るなら2ドル必要というのでそこで支払う。しかし、
このガイドさん、とても英語が上手。普段からガイドしているのか?と聞くと、普段は英語の先生らしい。ガイドは趣味のようなものか。しかも
着ている服が高そうだ。いいとこのおぼっちゃんかと思って親の職業を聞くと、父親は農夫、母親は医者らしい。広大な農地を保有している
のか。なにせ、雰囲気がまったく違うし、かなりイケてる。そして、ガイドもほぼ完璧にやってくれる。いい人に当たったものだ。

まずは、トラベク・ハーン廟を見学。ここには王妃が眠っているようだ。入ってみると天井の美しさにひかれる。八角形になっており、小窓は
12個あいてる。空の様子を表しており、12個は月の数だったように思う。ただ、英語だったので、細かくは覚えていないのだが・・・。そして王
妃の墓もあった。ただ、ほとんど修復していないので、中は綺麗とはいえない状態だ。この日は日曜日ということもあって、トルクメニスタン各
地から多くの学生さんたちが来ている。入れ違いに多くの学生が廟に入っていった。
 
(左)トラベク・ハーン(Turabek Hanum)廟。少し朽ち果てている感もある。 (右)67mもあるクトルグ・ティムール・ミナレット。

次に向かったのがクトルグ・ティムール・ミナレット。その途中に建物があり、そこではイスラム教徒がお祈りをしていた。仏教は時計回りに周
るが、イスラム教はその逆だ。敬虔な教徒がお祈りを捧げている。そこで、写真を撮っていると、子どもが寄ってきて一緒に写真を撮ってくれ
と言ってくる。日本人が珍しいのだろう。喜んで肩をくんで写真を撮る。なんか気分がいい。そして、最大の見所のミナレットへ。ガイドブック
には67mと書いているが、ガイドは64mと言っていた。少し崩れたのか!?近づくにつれて、圧倒されるぐらいの大きさということがわかる。根
元部分なんかはとても太い。地上からそれほど高くないところに穴が開いているが、昔はそのあたりから渡り廊下のようなものがあって、別の
建物とつながっていたようだ。ただ、その建物は今は跡形もない。しかも、このミナレットも上のほうが歪んでいるようにも見える。崩れないこと
を祈るだけだ。

その後、イル・アルサラン廟などを周り、最後にキャラバン・サライの門に行く。このは実は一番感動したところであるが、この門は都に入る最
初の門だったそうだ。つまりシルクロードを通ってはるかかなたから来た人がここを通るのだ。アジアと中東、そしてヨーロッパをつなぐところだと
思うと感動だ。まずは、都側から門を見る。すると頑丈そうに見え、重々しさを感じる。次に周りこんで都の外側から見る。するといかにも入
りにくそうな形に見えた。ここでは関税なども取っていたようで、はるかかなたから来た人でも都に入れなかったということもあったのかもしれな
い。しばらく、遠い昔のシルクロードに思いをはせる。門の近くにはなにやら白いものが落ちている。しかも骨みたいだ。動物の骨か?と思っ
ていると、ガイドさんが「ヒューマン ボーン」といっている。なんと人間の骨なのだ!この辺はお墓もあるので、そこから出てきているのかもしれ
ない。なかには歯の形をした骨もあり生々しい。それもひっくるめて、シルクロードなんだろう。とても満足して、クフナ・ウルゲンチを後にする。
最後にラクダの親子が見れたのがラッキーだった。2頭の子ラクダも一生懸命歩いていた。そして一路、このあたりで一番大きい街のダシュホ
ウズに向かう。
 
(左)都の入り口だったキャラバン・サライの門。この周りに人骨があった。 (右)ラクダの子どもはかわいいのだ。

〜ダシュホウズ〜
クフナ・ウルゲンチから平原を100Kmほどのスピードでとばして、ダシュホウズに向かう。途中、小さな竜巻があったり、ロバが道端を荷物を引
いて歩いていたりする景色を楽しむ。ウズベキスタンもそうなのだが、街に入るときかなり大きなモニュメントがある。これはこのあたりの特徴な
のか。しかも重要な場所には必ず警察官が常駐しているのだ。検問も多いだろうし、止められたら荷物チェックなどもされるし、旧ソ連の名
残か!?そしてダシュホウズの街に入った頃、ついに大統領らしき銅像を発見。そして、国旗もやたら掲揚されている。ついに独裁国家ら
しき街並みになってきたか、と期待するが、期待していたほど大統領の像や画はないのだ。確認できたので2つの像だけ。もう亡くなってしま
ったから街から取っ払ってしまったのか?少し残念に思いながら、昼食をとるレストランに到着。クフナ・ウルゲンチから1時間40分ほどかかっ
た。

レストランでは屋外にも席があったのでそっちを選択。天気がいいし気持ちがいい。そして、最初にでてきたスープがめちゃくちゃうまい!こん
なスープが飲めるなんて最高だ。そして、その後でてくる料理も最高においしい。トルクメニスタンには真ん中にカラクム砂漠があるので、おい
しい食材は取れないのだろうと思っていたが、まったく嬉しい期待はずれ。夢中になって料理を食べていく。そして、最後にコーヒーもでてくる
のもいい。とても満腹&満足だ。これでトルクメニスタンにも思い残すことはない、国境に向かい再びウズベキスタンへ。
 
おいしい料理の数々。左はスープで中には細い麺が入っていた。綿花の油を使っているらしい。右は中に肉があり、肉汁もたっぷり。

ダシュホウズから国境まではすぐだ。Gacktがトルクメニスタン出国まで面倒見てくれる。必要な用紙にも書いてくれるし至れり尽くせり。た
だ、税関でがんこなおっさんがいて、荷物の重さを計って書けとか言ってる。計ったものの、違う人の荷物と間違えて記載してるし、なんやこ
のおっさんって感じだった。国家権力をムダに使ったらあかんよ。そんなことがあったものの、トルクメニスタン国境をGacktのおかげでスムーズに
でることができた。そして最後に硬い握手。また、トルクメニスタンに来てねって言ってくれる。ほんとに再び行きたくなる国だった。中央アジア
の人たちは、とにかく握手をする。これはほんとにいい習慣だと思う。心が通じ合う感じだ。日本でも商談ときにやってみようかな。

トルクメニスタンの国境を越えると、ウズベキスタン国境までは距離があるので、乗り合いバスに乗る。これは有料だったみたいだが、それを知
らずに払うのを忘れてしまった。運転手のおっちゃん、に悪いことをしてしまった。そして、ウズベキスタン国境へ。ここでは、トルクメニスタン側の
最後の兵士がいた。パスポートを見せる必要があるが、日本人とわかり、めちゃくちゃ笑顔で話しかけてくる。なごむ。しかもその兵士もとても
カッコイイのだ。しかし、川を越えてウズベキスタンに入ったときにいた兵士は、なんか愛想悪いしブサイクだった。激しい落差を感じる。

ウズベキスタンの入国も2回目。税関申告書を2枚書くのはだいぶ慣れてきた。のんびりした国境だったので、パスポートをチェックするおっち
ゃんも片言の英語で話しかけてくる。そしていよいよウズベキスタン入国。パスポートのビザに、ハンコが2個になった。ダシュホウズから国境ま
で10分ほど、そして国境通過が1時間だったので、とても早かった。ダシュホウズで昼食とってから、1時間10分ほどでウズベキスタンだ。そ
う思えば近いものか。宿泊先のヒヴァに向かう。
 
(左)国境に向かうガイドのGackt。 (右)ウズベキスタン国境。ここは撮影禁止か!?

〜ヒヴァ〜
ヒヴァの街は国境からそれほど離れていない。昔はクフナ・ウルゲンチから首都が移転したぐらいだからそれもそうか。国境から40分ほどでヒヴ
ァまでいける。ウズベキスタンのガイドさんが、トルクメニスタンはどうだったかとやたら聞いてくる。ガイドさんは行ったことがなく、しかもウズベキス
タン好きなガイドなので、トルクメニスタンのことを悪く言う。めちゃくちゃよかったよ、と言ってもケチをつける。これも民族問題か!?整備され
た道をひた走っていると、「XIVA」と書かれた標識が見えた。興奮だ。ドライバーはヌクス、アラル海へ連れて行ってくれた人だが、ヒヴァに住
んでいる人だ。ドライバーの家はここだよと言っていたら、旧市街の城壁が見えてきた。土色の城壁であり、独特の雰囲気がある。ホテルは
南門の近くだったので、ぐるっと周って南門(タシュ・ダルバザ門)を通りホテルに到着。ヌクスと違い、とても綺麗なホテルで安心した。それも
そうだ、昨日は大統領の娘さんも泊まっていたらしい。ロビーも豪華な感じだ。荷物をおいて早速、ヒヴァの街を散策。

南門から入るといきなり生活臭がする。工芸品を作って売っている店を通りながら、少し異臭を感じながらミナレットがあるほうへ向かう。ホ
テルからミナレットは見れるぐらい高い。近くに行くととても巨大に見えてくる。45mあるのだ。その周りではおみやげが売っていたので少し見て
いると、キーホルダーやラクダの置物などがあって、小物ばかりを買ってしまった。売り子のお姉さん、かなり商魂たくましく、あとでわかったのだ
がとても高い値段でふっかけてくる。そのときはこんなものかということで買ってしまったが、別の店で買えばよかったと後悔。その後、西門(オ
タ・ダルバザ)へ向かうが、途中、トルクメニスタンで見たキツネの毛皮、というかそのままの形をした売り物やら、ロシア帽やらが売っている。す
ると、未完成のカルタ・ミナルがどーんとある。1852年に着工したが、途中で中断。完成していれば109mにもなるものだったが、26mでとま
っている。カルタは短いという意味らしい。しこたま写真をとって西門へ出てみた。西門の前で観光バスのターミナルのようになっており、ここか
ら入るみたい。大きな広場になっており、前にはマリカ・ヒヴァというホテルもある。シルクロード・プロジェクトという看板も発見したので見てみ
ると、サマルカンドやブハラあたりが中心になっており、ヒヴァは支線にあるという感じ。シルクロードのなかでは、中心的な街ではなかったよう
だ。ヒヴァが栄えたのは、クフナ・ウルゲンチから都が遷された17世紀あたりにホレズム帝国の政治、経済、宗教の中心地となったのだ。
 
(左)どっしりと構えている感じの南門。   (右)45mあるミナレット。

西門でジュースを買って再び中へ。ラクダに乗れるという場所までいってみるが、日曜でラクダは今日はいないとのこと。しばし休憩した後、
東のほうに散策する。42mあるジュマ・モスクのミナレットを見ながら歩く。すると城の中に住んでいると思われる兄妹がいて、飴をあげるととて
も喜んでくれる。なごむ瞬間だ。そして、東門手前のタシュ・ハウリ宮殿近くに小さな店がいくつかあった。ここでも小物を売っている。そのな
かでもとても愛想のいいおばちゃんがいた店で、小物を買う。1ドルのキーホルダーを買うと、何かひとつおまけでくれ、そして、1ドルの置物を
買うとまたひとつおまけしてくれと、とてもいいお母さんだった。その子どもは、あれ取れ、これ取れとこきつかわれていたのが微笑ましかった。そ
して北上しもうひとつの東門あたりに行くと、居住区のようなところが見えた。ヒヴァの城の中でも北半分ぐらいは住居として使っているエリア
だ。そこはさすがに行くのをやめた。そして、夕陽のヒヴァを見るためにキョフナ・アルクに向かう。途中、夕涼みをしていたおっちゃんが、日本
からか?と聞いてくる。そうだ、と答えると何か言っていたが、それ以上はわからなかった。

キョフナ・アルクまで行くと、門のところでおばちゃんが待ち構えている。時間がギリギリだけど入っていいよ的なことを言っている。2ドル払って中
に入り、さっそく階段を上ってアクシェイフ・ババの見張り台へ。すると、ヒヴァの街が一望できてすばらしい景色が広がっていた!しかも、街の
周りもほぼ360度見ることができる。トルクメニスタンのほうを見ると、街を外れると何もないこともわかる。素晴らしい景色だ。そして、段々と
夕陽が沈んでいき、ヒヴァの街が赤くなっていった。ほんとに素晴らしい景色だ。イスラム世界に迷い込んだように、しばらく見とれていた。か
れこれ1時間ほどいただろうか、19:30になると警備員が回ってきて、もう閉めるよと言ってる。暗くなりかけていたので、景色を見納めて下に
下りる。キョフナ・アルクを出たところは、広場になっているが、実は昔は公開処刑場。暗くなる前に立ち去りたく、ホテルに向かった。だんだ
んと暗くなってくるヒヴァの街も素敵だが、昔は残虐非道なことをハーンがやっていたのだと思うと、少し怖くもなる。ホテルではガイドと合流
し、夕食をとり、その後はウズベク族の家族によるダンスショーを見た。10ドルなので期待はしていなかったが、小さい子どももがんばって踊
り、お父さんとお兄さんが楽器、お母さんが踊りと一生懸命だ。その姿に感動した。こうして、長い1日が終わった。
 
(左)青いのがカルタ・ミナル。とても美しいのだ。 (右)キョフナ・アルク/アクシェイフ・ババの見張り台からの眺め。イスラム〜ン。


5月4日
ヒヴァの朝は快晴。とても気持ちがいい。ホテルのベランダから見るヒヴァの城壁、南門、そしてミナレット。時間があればもう一度、街の中を
散策したいところだが、この日は7時にホテル出発だ。ベランダからの眺めで我慢する。ヒヴァから車でウルゲンチに向かう。そこから飛行機で
タシケントに飛び、そしてサマルカンドに車で移動。この日はほとんど移動になってしまう。これもアラル海に行ったことで強行日程になってし
まったしわ寄せだ。仕方ない。なお、最初はヒヴァから車でブハラを通りサマルカンドで行くことを考えたが、ガイドによるとヒヴァからブハラまで
約7時間、ブハラからサマルカンドまで4時間近くかかると言われた。それなら、飛行機でタシケントまで行き、サマルカンドに戻ったほうが楽
だ。ウズベキスタンは地方都市間の航空路線がほとんどないため、タシケント経由になってしまうのだ。そのあたりが改善されれば、もっと観
光客も来るだろうに。

そんなことを思いつつ、ヒヴァからウルゲンチ空港に向かう。ヒヴァとウルゲンチは近い街なので30分ほどで着いた。ウルゲンチ空港は完全な
地方空港。早く着きすぎてまだ窓口が開いてない。仕方ないので空港の外にでて写真などを撮ってみる。30分ほど待っただろうか、ようや
く窓口が開き搭乗手続き開始。その後、空港の中に入るが、なかなかアナウンスがない。ガイドさんも悪いと思ったのか、コーヒーでも飲みま
しょう、ということでおごってくれた。しかし、このガイド、時間感覚、距離感覚が、全行程を通して無かった。早く着きすぎるとか、少し遅かっ
たとかというのが何度かあった。若い21歳のガイドだから経験不足ということで仕方ないか。結局、空港に着いてから2時間後に搭乗となっ
た。日本なら15分前までに行けばいいので考えられない。改札をでて歩いて飛行機へ向かう。ジェット機だったのが救いか。
 
(左)ウルゲンチ空港で飛行機に乗り込む。このエリアはほんとは撮影禁止だ。 (右)真ん中に見えるのがアムダリア川。ヒヴァはアムダリアのたまもの!?

タシケントからヌクスまではプロペラ機で2時間30分かかった。ヌクスとウルゲンチはそれほど離れていないが、ウルゲンチからタシケントまでは
わずか1時間で到着。やっぱりジェット機は早い。飛び立つとウルゲンチの街が見える。結構でかい街だ。広がりもある。そして街を過ぎる
と、このあたりの恵みであるアムダリア川が見えた。空から見るととても大きい川だ。アムダリア川は2日目に行ったヌクスやムイナク、そしてアラ
ル海にもつながっている(地図上は)。また、この川の流れが変わったために、クフナ・ウルゲンチ(トルクメニスタン)からヒヴァに首都が移ったこ
ともある。そして川を越えると、何もない荒野になる様子も面白い。そんな景色を楽しんでいると、雲の中に入ってしまった。タシケントに到
着する頃は雲が多くなり、曇天になってきた。

タシケントには11時に着き、国内線の到着口を出る。首都の空港とは思えないほど小さな到着口だ。その前にはタクシーの呼び込みが
多い。明らかにガイドを伴っているのに声をかけてくる根性は素晴らしいものだ。バス乗り場や乗り合いタクシーもある。個人旅行ならこんな
交通機関を使うのだろうが、行き先がまったく読めない。これでは、個人旅行もつらいかなと思う。中国で個人旅行できるのは、言葉がわ
からなくても、書いている漢字を見ればだいたいわかるからだ。しかし、待ち合わせしていたドライバーがまだ来てない。ガイドが電話をするが
場所がわからないようだ。そしてようやく数分後にやってきた。一見、ドン臭そうだが、確かにドン臭かった。サマルカンドに向かう途中、2回も
スピード違反で捕まったのだ。確かに検問が異常に多く、しかも木陰に隠れてスピードガンでスピード違反をチェックしている。ただ、プロのド
ライバーなら、どのあたりにいそうだ、というのは察知するか記憶しておくものだ。かわいそうだが、1回につき20ドル払っていたので、フィーがな
くなったのではないかと思う。後で思ったが、チップを渡してあげればよかった。タバコはあげたのだが。
 
(左)タシケントで見えた近代的な道路。こんなに整備されているのか!? (右)タシケント空港の乗り合いタクシー。行き先がまったく読めない。

さて、タシケントを出発して、しばらく市街地を通り、すぐに田舎道になった。牛や馬が道のそばにいてのどかだ。草原が続きとても景色がい
い。ガイドが途中でイチゴを買ってくれて食べたが、それもおいしい。サマルカンドまでの約300km、景色も楽しめそうだ。標識もあり、テヘラ
ン(イラン)1859Km、バクー(アゼルバイジャン)2279Kmと国際的。しかも、シルクロードが通っている街の表示なので、ノスタルジーを感じ
る。さすがに大陸だ。2時間ほど走ったところで昼食。道端にウズベキスタン版のドライブインがある。そこで、青空の下でラグマンを食べる。ヌ
クスで食べたラグマンは汁が入っていたが、ここでのものは汁がなく、しかもうどん焼きのようなラグマンだ。地域によって違うらしい。味はかなり
おいしかった。ご飯も食べたし、再び出発。地図をよく見ると、サマルカンドの手前あたりは少し山になっている。どんな景色かと思っていた
ら、疲れからか寝てしまっていた。次に起きると、山岳地帯に入っており、遠くにはタジキスタン側の山も見える。草原なので緑と、そして赤
い花が咲いているのがとても美しかった。景色も楽しめる。しかし、ガイドからは3時間30分ぐらいと聞いていたが、一向に着かない。タシケン
トを11時過ぎに出発して、昼食で30分ほど使ったものの、もう16時だ。まだか、と思っていると、ようやくサマルカンドという文字が山肌に見
えてきた。
 
(左)ドライブインで食べたラグマン。                 (右)ついにサマルカンド到着!

〜サマルカンド〜
サマルカンドの街に入りしばらく走ると、シャーヒズインダ廟群が見えた。時間がなく車のなかからしか見なかったのが残念だが、ティムールゆ
かりの人々の霊廟がほぼ一直線に立ち並ぶ聖地だ。そしてごちゃごちゃした街中を走り、まずはホテルにチェックイン。すでに16時30分だっ
た。荷物をおいてすぐに出発。まずは、グリ・アミール廟に行く。ここにはティムールの墓がある。外観がとても綺麗だが、中はもっとすごい。中
の写真撮影するなら1500スム払う必要があるので、それを払って中に入る。すると真ん中に棺が置かれ、その周りでお祈りしている人たち
がいる。上を見ると綺麗なシャンデリアと天井だ。壁は大理石などで作っている。そても豪華。しばらくいたい感じだったが、レギスタン広場が
閉まるというので、急いで移動。

レギスタン広場はサマルカンドでも最も有名な観光地。世界遺産にもなっている。ここに来るのが今回の旅の目的のひとつでもある。グリ・
アミールからすぐのところで車からおり、そしてガイドブックなどでよく見たレギスタン広場が見えてきた!曇天なのが残念だが、3つの巨大なメ
ドレゼが綺麗に配置されている姿は圧巻。展望台で写真をとり、中に入る。すると、ひとつのメドレゼにある塔に上れるという。3ドル払って
上ってみる。途中から狭い空間の螺旋階段を上るが、上のほうは人がすれ違うのがやっと。しかも急勾配なので、気をつけないと落ちてケ
ガをしそうだ。一番上にいくと覗き穴が開いており、そこからレギスタン広場や、さらに遠くを見ることができる。ただ、この塔はなんか傾いてい
る感じがするし、高所恐怖症ということもあり、ゆっくりできなかった(ガイドいわく、ほんとに傾いているとのこと)。写真を撮って、すぐに退散。
後ろに人がいたというのもあるが、3ドル払って景色があまり堪能できなかったので、もったいない気もする。その後、中庭から教室跡(メドレ
ゼは学校だった)、そして、金箔を塗った建物などをめぐる。3つのメドレゼをそれぞれ堪能できるのだ。もう少しいたい気もしたが、閉館時間
が迫っていることや、今にも雨が降りそうだったので、ホテルに引き上げた。曇天だったので、晴天のレギスタン広場を見たい。明日の朝、晴
れていれば行ってみようと思った。曇天のレギスタン広場が消化不良だったのか、ホテルでバイキングの夕食を済ませた後、雨も上がってい
たし、ホテルからすぐのところにあるグリ・アミール廟のライトアップを見に行った。そのライトアップだが、3色の色使いがとてもよく、きてよかったと
思わせるものだった。それに満足してホテルで就寝。そろそろ旅の疲れがたまってきているので、23時には寝ただろうか。明日はついに最終
日だ。
 
(左)曇天のレギスタン広場。右側の塔に上ったのだが、明らかに左に傾いている! (右)ライトアップされたグリ・アミール廟。美しい!


5月5日
ホテルで起きた最後の朝。昨日はレギスタン広場が曇天で暗く見えた。ここまで来て「灰色の街」ではもったいない。サマルカンドは「青の
街」「イスラム世界の宝石」「東方の真珠」などといわれている街だ。そんなことを感じさせる街として見たいものだ。そこで、かなり眠い目をこ
すりながら6時過ぎに起床。旅の疲れもたまっているのでかなり眠いのだが、ベランダにでると昨日の天気が嘘のように晴れている。これは行
かねば!ということで、出発前の時間を使ってレギスタン広場へ散歩に行く。ホテルを出るとグリ・アミール廟がとても綺麗に見える。そして胸
を躍らせレギスタン広場へ向かうが、もう、観光客は動き出している。泊まったホテルには、日本人ツアーが何組がいたので、そのなかの人た
ちも散歩をしていた。そして、晴れ渡ったレギスタン広場に到着!すると、昨日見たものとは全く違う景色が広がっている。天気でこれほど
見た目が変わるものだろうか。早朝だというのに多くの人たちが来て、写真を撮っている。そして、イスラム教のひとたちがお祈りを捧げてい
る。まさに見たかった景色がそこにある。時間外なので広場の中までは入れないが、それでも柵をしているところまで近づき、メドレゼの存在
感に圧倒される。しかも、青い空に映えてとても美しい。しばらく、時間を経つのを忘れて、早朝のレギスタン広場を楽しんだ。
 

この日も少し無理して日程を組んだ。サマルカンドからわずか60Kmほどのところにあるタジキスタンへのパンジャケントというところがいいという
し、しかも国境越えができる。ということで8時にホテル出発。なお、タシケントからずっと同行していたガイドさんのほかに、タジキスタンに入れ
るというガイドさんが合流した。サマルカンドの中心部に住んでいるのなら、ビザなしでタジキスタンに入れるらしい。ずっと同行したガイドはサ
マルカンドでも田舎に住んでいるが、合流したガイドは中心部に住んでいるのでビザなしでタジキスタンへいけるというものだ。その新ガイド、
日本語も話せる。ただ、今はウズベキスタンとタジキスタンと国が違うとはいえ、昔は同じソビエト連邦だったんだから、ビザがいるとは、自由
がきかないものだ。

サマルカンドの街を抜け、とてものどかな田舎道を走る。すると右手のほうに雪をかぶった山脈が見える。ひょっとして世界の屋根といわれて
いるパミール高原か?と思っていたが、それはザラフシャン山脈という山だった。それでも、とても美しい。野原の緑と山にかぶった雪の白とがと
ても素晴らしいのだ。景色をずっと楽しみながら、国境へ向かう。サマルカンドから50分ほど走ったところに、検問らしきものが見えてきた。国
境といっても、ここはとてものんびりしている。付近の農夫らが集まってライフルを持った警備員と談笑している。顔なじみなんだろうが、それに
してものどかだ。国境の風景である乗り合いタクシーも待っている。空も晴天で、景色もいいし、タジキスタンへの思いをはせていたところ・・・
トラブル発生。タジキスタンにいけるからというガイドさんだが、なんとビザが必要とのこと。旅行会社から国境の偉いさんに電話してかけあうが
当然ダメ。そのゴタゴタで30分もロスしてしまう。タジキスタン側のガイドは英語になるとのことだが、別にそれでもいいから早く行きたかった。
ほんとにムダな時間をすごしたものだ。
 
(左)国境へ行くまでの景色。牛と雪山と緑が素晴らしい。 (右)国境付近から見たザラフシャン山脈

ウズベキスタンの出国は2回目。もう慣れたもの。ガイドがいなくても手続きをして中立地帯を通り、タジキスタン側へ。するとガイドらしきひと
が待ってくれている。その人に連れて行ってもらい、タジキスタンの入国手続きへ。すると、明らかにウズベキスタン側の雰囲気と違う。タジキ
スタンは国土の93%が山岳地帯で、民族も山岳民族のタジク族。顔立ちが違うのもあるが、みんな笑顔でフレンドリー、そして、人懐っこい
感じ。入国審査で待っていると、そこで待っていたおばちゃんも気軽に話しかけてくれる。日本から来たの、あれま〜って感じだ。入国審査
も顔がきくガイドがいるからか簡単なもので、国境通過は30分で終了。少々あっけない感じもする。そして迎えの車に乗り込みパンジャケン
トに向かう。その間はほぼ一本道だが、両側の景色がとてもすばらしい。ガイドと話ながらも、両側の景色ばかり見ていた。

国境から30分ほどでパンジャケント(ペンジケント)に到着。まずはルダーキ記念博物館を見学。ここでガイドが、大学で英語を教えている
教授先生に交代した。国境から送ってくれたさっきまでのガイドであったおばちゃんはどこかに消えたと思ったら、なんと博物館の入り口でひ
つこい売り子のおばちゃんに早変わり。ちょっとびっくりした。ルダーキという人は10世紀ごろ活躍したペンジケント出身の詩人で、タジク語を
作った人だそうな。この博物館には、石器や壁画、絵画、そしてタジク族の生活様式などが展示され、タジキスタンの歴史や自然が紹介
されている。民俗&歴史博物館といった感じだ。そのなかを初老の教授先生がとても親切丁寧に説明してくれる。時間があまりなかったか
ら、もう少しはしょってもいいよと思いながらも、あまりにも熱心なので、フムフムといいながら聞くのであった。タジキスタンのことを好きだからこ
そ、タジキスタンのことをもっと知ってもらおうと思って教えてくれているんだ、ということがひしひしと伝わってきた。博物館の出口で、さっきまでガ
イドのおばちゃんやその仲間のおばちゃんたちを振り払いながら、外にでる。次はソグド人の遺跡だ。
 
(左)ルダーキ記念博物館。最近できたのか外観は綺麗だ。 (右)パンジャケント遺跡。向こうのほうに門が見える。

街の南の高台にその遺跡はある。車は勾配を上っていく。すると10分ほどでパンジャケント遺跡に到着。この遺跡は、ソグド人の街であ
り、5〜8世紀に栄えるものの、8世紀後半にアラブに襲われ、そのまま放棄したという遺跡。まだまだ未発掘らしいので、今後の発掘が待
たれるところだ。車を降りて土の小山を上ると、これまた素晴らしい景色だ。遺跡と景色がとてもマッチしてかなり美しい。しかも、花も咲いて
いる。遺跡にいること自体も感動だが、周りの景色にも圧倒される。こんなところで住んでいたソグド人はとても羨ましい。遺跡には、街の
人たちが集った場所や、門が残っているが、それ以外はただの土山のようだ。時間があれば、もっと散策してもよかったんだろうが、ほとんど
時間がなくなってきたので、途中までにする。眼下にパンジャケントの街が見え、遠くにトルキスタン山脈、その下にザラフシャン川という風景
が見れる丘までとしてが、そこでの景色を見れただけでも十分だった。その後、街まで帰り昼食を食べる。タジキスタン風の料理なんだろう
か、ウズベキスタンで食べたときとはまた違う味に感じる。最後にマーケットによって再び国境へ。帰りの国境もとてもスムーズ。タジキスタン側
などはものの数分で通過。お世話になったガイドさんとお別れして、再びウズベキスタンへ。ウズベキスタンへの入国は3回目。パスポートのビ
ザのうえに3つハンコが押された。帰りの国境通過もわずか30分。
 
(左)ペンジケント遺跡の奥まで行くと対岸のトルキスタン山脈とザラフシャン川が見える。 (右)少し右を向くとこんな感じ。手前がパンジャケントの街。

 
(左)向こうに見えるのがザラフシャン山脈。遺跡のなかを歩くガイドさんたち(後ろは見習いの人)。 (右)花も美しい!

ウズベキスタン側では、ガイドが待っていてくれた。するとウズベキスタンを愛しているそのガイド、トルクメニスタンのときと同じように、タジキスタ
ンはどうだった?あまりよくなかっただろ的に言ってくる。そんな話はあまり聞きたくないので、とてもよかったよ。景色もいいし、人も優しかった
と。すると、景色なら、サマルカンドの南にあるティムールが生まれた街のほうがいいよ、といってくる。もうえーわ。軽く聞き流す。これで、今回
の旅も目的はすべて終了。後はタシケントへいき、ソウル経由で帰国するだけだ。ただ、それからが長い。昨日と同じルートでは面白くない
だろ、ということで、ドライバーの兄ちゃんが、違う道を通って帰ってくれた。途中、ティムールが切り開いた山がある。そして草原もあり、景色
を楽しみながらタシケントに向かうことができた。休憩を挟んで、タジキスタンとの国境から4時間30分でタシケントに到着。まだ時間があるか
らと、タシケントでもマーケットによってくれた。その間、ガイドが会社に行くとか言って、少し離れる。マーケットを一回りして帰り、そして空港
へ。しかし、ドライバーはサマルカンドの人なので空港の場所をよく知らないようだ。隣の車に何度も聞きながら空港へ向かう。大丈夫かい
な?そして空港に到着すると、ガイドから衝撃の言葉が。今日、またサマルカンドまで帰るのだが、あのドライバーはクビにしたと。違うドライ
バーを雇うために会社に行っていたと言う。昨日は2回もスピード違反で捕まり、合計40ドルも罰金を払ったうえにクビかよ。ガイドは21歳と
まだ若いが、かなり(人には)厳しい。お父さんは裁判官で、お金は持ってると言ってたな。ただ、そのドライバー、タシケントに向かう途中、
車のスピードの話になり、日本では100Kmが高速では最高速度だけど、200Kmぐらい出したことがあるよって言うと、そのドライバーも力ん
で、俺もあるよ。今、出したろか?という感じで言っていた。少し熱くなる人なのかもしれない。プロなんだから、もっと冷静にせねばと思ったこ
とはあった。なんとなく後味悪く、空港でガイドと別れ搭乗手続きへ。
 
(左)タジキスタンの国境からサマルカンドを迂回する道を通りタシケントへ。ここを左に行けばサマルカンド。 (右)タシケントのマーケットで。高そうな絨毯。

ここでカバンを見ると、スム紙幣が大量にあった。500スムが70枚の束だ。ガイドに両替してもらったものが、そのまま使わずに残ってしまったのだ。ガイドに再度、両替してもらったらよかったのだが、忘れていた。仕方なく空港内で使おうと思うと、どの店もドルかユーロしか使えず、スムはダメとのこと。おいおい、そんなに外貨ほしいのか。仕方なく、立つほどのスムの束をもって帰国する羽目になった。ただ、それでも3千円ぐらいなので、記念としておいておこう。それと、タシケント空港の係官はすれているのか、とても愛想が悪い。イミグレ通過時もそうだが、通過した後、再度、パスポートを見せろと係官が言ってくる。なんの意味があるんだと思いながら見せると、ぱらぱらめくって探せなかったのか、どこにビザがあるんだ?と聞いてくる。おいおい、ビザがなければそもそも入国してねーだろという目で見ながら、ここだよ、と強く指で指す。ほんと無愛想だし、嫌がらせか。もうかなり疲れきっていたので、自分にも余裕がなかったのかもしれないが。

そんなことがあったものの、無事、大韓航空に乗り込み22時に出発。ソウルまでほぼ熟睡。気がつけばもうソウルの手前だった。ソウル到着が8:40だが、ウズベキスタンの時間では4:40。実はかなりつらい。チョコレートなどのみやげを買って関空行きへ乗り込み、関空には11:30に到着。恐れていた豚インフルエンザの検査も、機内ではなく、また、そんな特別な検査もなかった。基本的には自己申告だ。12時頃には外に出ていたので、到着して30分ほどで関空を出ることができた。体調も悪くなっていないし、インフルエンザは大丈夫だろう。今回もかなり駆け足になった旅行だったが、当初の目的も達成できたし、かなり思い出に残る旅行であった。いつも思うことだが、もっとゆっくりと滞在してみたいものだが、それは何十年後かの退職後になるかな・・・。さー、次の弾丸ツアーはどこに行くかな。やはり、カザフスタンとキルギスタンか!?

〜おわり〜


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