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感動の中国編 ~桂林・昆明・広州~

●以下は中国人の友人が訳してくれた旅行記。ありがとうソウさん!

中国感动行
2月3日
等待许久的中国之行就要开始了。一直到起程前日,工作还没法结束。连日连夜的加班,身体已疲惫得到了极限。即使如此,这天清早6点既起飞向憧憬的大地,中国大陆。JAS,中国叫日本佳速航空。JAS11次航班从关西国际空港到广州要飞4时10分。淡路岛,濑户内海,福冈依次离去,终于,看到中国大陆了。好像,是一条大河的河口似的,悠远的田园风光在机窗外展开。中国,我来了。心里满是期待。飞机接近广州,城市的样子不断显示出来。这就是中国呀!房屋建筑,现代化楼房里又似乎夹杂着营房,什么样的东西都混在一起的一种发展阶段的城市之感。到达白云机场,导游小吴迎了上来。他身材瘦高,体态匀称。换好钱,就开始市内观光。以为广州和印度一样是一个杂乱无章的地方,其实不然 ,发展中的城市的感觉。比想象中的要漂亮。只是人非常多。去了中山纪念堂,越秀公园。听到孙文,鸦片战争等词语,我脸上一定是似懂非懂的表情,因为早已忘得一干二净了。广州,5、6号还要再回来的,这天因为桂林航班时间的关系,只是市内看了看而已。19:45分飞抵桂林。地陪小王把我们带到伏波轩。看上去不是很干净,菜(有狐狸,甲鱼,兔子肉等)也不大好吃。那餐厅似刚刚举行过婚礼,地上飞舞着金银纸屑。在宾馆登记入住后,在附近随意散了散步。以为公园里会有人打太极拳,却没想到交谊舞最盛,一群中年男女跳得正欢。河边又是年轻的恋人们的天下。在伏波山王城走了走就会回宾馆了。这是中国最初的夜晚。


【初めての中国!】
中国は俺が幼い頃から訪れてみたかった国だ。この度やっとその夢が実現する。人口12億、国土は日本の数10倍で世界第3位の広さがあり、何にしてもスケールが違うのであろう。街のパワーは凄まじいものがあると思うが,人の多いところに行きたいのではない。俺が行きたいところは,どちらかというと超自然的な風景が見れるところだ。山水画にでてくるようなところや,広大な平野があるところ,はたまた,山深い風景を見てみたい。(中国を最初に訪れるにあたって 96年2月旅行記より)
【旅程】
1996年2月3日
関西国際空港⇒広州白雲空港(JAS11便)
【広州】中山記念堂(孫文)、越秀公園(美術館、鎮海楼博物館)
広州⇒桂林:桂林文華大酒店(シェラトンホテル)
2月4日
【桂林】漓江下り⇒象鼻山⇒畳彩山
桂林⇒昆明(中国雲南航空公司4350便):昆明飯店
2月5日
【昆明】石林⇒西山龍門⇒華亭寺:昆明飯店
2月6日
【昆明】雲南民族村⇒昆明空港⇒広州空港:花園飯店
2月7日
【広州】六榕寺⇒陳氏書院⇒光孝寺⇒清平路自由市場⇒沙面(珠江):花園飯
2月8日
【広州】広州動物園⇒広州白雲空港⇒関西国際空港

【朋友】
この旅行には私の大親友である「やあ(又はやー)」と行った。彼とは小学校時代に同じ野球チームで白球を追いかけていたときからなんで、相当長くおつきあいさせてもらっている。なんだかんだとしている間にお互い「おやじ」の域になってきた。下の写真は多少若いか!?
 
(左)桂林の漓江下り (右)石林の少数民族(サニ族)の家を訪ねて。日本語堪能。
 
(左)広州動物園 (右)熱心に緊急時のしおりを見る「やあ」。ん?ちょっとビビッてる!?

【食材広州】
秦の始皇帝が中国統一する以前に、5頭の羊に乗った仙人達が人々に稲作を伝えに来たと言われる広州。そして、ここは中国南部の中心都市である。広東料理は日本人の口にあうし、なんと言っても食材広州といわれているぐらい食のメッカだ。飛ぶもので食べないのは飛行機ぐらい、脚があるもので食べないのは机と椅子ぐらい、といわれる中国でも、さらに食材のメッカというから恐ろしい。確かに市場には何でも売っていた。
 
(左)広州(広東省)の市内地図。
(右)白雲空港。今は新空港ができている。ちなみに新空港は2004年8月にオープン。中国南方航空公司(本社広州市)のハブ空港であり、総面積は約15平方kmでアジア第2位の規模を誇る。広州中心部からは北に約28Kmの花都区であり、白雲空港よりも遠くなるものの、高速道路も開通し車で約30から40分で行くことが出来る。なお、地下鉄も延伸されるようだ。

中山記念堂と鎮海楼
 
(左)関空から広州到着後、すぐにここにつれてこられた。中山記念堂はご存知、辛亥革命で有名な孫文先生を記念して建設されたところ。「天下為公」である。
(右)越秀公園にある鎮海楼。ここの最上階から見る景色はなかなかのものであった。

六榕寺
 
(左)この塔は上まで上ることができるが、少し傾いているらしい。確かに一番上に行くと、傾いているのがわかるが、その時点でかなり恐怖感を覚える。
(右)一番てっぺんまで登ってびびるやあ。
陳氏書院
 

 
(左)光孝寺。もともとは、前漢南越王の邸宅のようだ。なお、ここは三国志でいうと、孫権の配下であった虞翻(ぐほん)が関係しており、ここで学問を教えていたようだ。また、このお寺では少林寺の撮影が行われたそうな。
(右)広州動物園。広州の締めくくりに訪れた動物園であるが、金絲猿やパンダなどがいて、かなり楽しむことができた。
  
(左)西遊記でおなじみの金絲猿。(右)隅っこでいじけているパンダ

広州駅
 
多くの人でにぎわう広州駅。右は長距離バスの時刻表。夜の広州駅は治安が悪いらしく、ガイドからは近寄るなと言われていた。
市場と株価
 
(左)これが何でも売ってる清平路自由市場だ。(右)株価チェックのガイドの呉さん

沙面と広州の港
 
(左)珠江の河口部分。珠江デルタと言われるぐらい肥沃な土地を作っている川だ。
(右)以前は租界地であった沙面

 
広州は何千年も前から栄えている港町であり、阿片戦争という経験もある。どことなく香港に似ており、船の行き来も多く活気を感じるところだ。
【まさに山水画の桂林】
中国といえばまずはこの風景を思い浮かぶ人が多いだろう。桂林はは「桂林山水甲天下」といわれ(中国で最も美しいところという意味)林立する奇峰にはかなり魅せられる。そんな風景を見たくて、当時、最も行きたかった場所がこの桂林というわけだ。今から思うと、陽朔も行けばよかったと思うが、それはまたの機会ということで。当時、中国に行くんだったらツアーしか考えられなかったから仕方ないか。

 
(左)漓江下り地図。桂林は広西チワン族自治区に属する。(右)かなり不安になる桂林空港。

漓江下り
 
まさに山水画の風景が広がっている桂林の漓江下りは感動の連続である。変な形した山々ばっかりであるがそれが奇妙でなかなか面白い。それぞれの山や岩に名前が付いているようであるが、どれがどれかあまりよくわからなかった。このあたりは昔は海底だったそうな。竹江桟橋から楊堤まで3時間の船旅であった。

 
(左)期待に胸が膨らむ「やあ」 (右)乗船した船はこんな名前でした。

 
(左)さーいよいよ漓江下りへ出発、というところ。渇水期なのか川の水量が少ないのが気がかりだ。そういえば途中で座礁している船を見かけた・・・。
(右)漓江ののどかな風景だ。渡し舟では地元の方がひんぱんに行き来している。しかし、たまに観光船に物を売りにくるやつらがいるが、あまり使えないようなものを無理やり売ろうとしている。あれはいかん!しかも、子供を使って売ろうとする輩もいるから始末が悪い。
  
(左)ご満悦の「やあ」  (右)漓江下りを終えて車で桂林市内に向かう途中からの景色。結構、ポイントになっているらしく、我々のほかにも何人か写真を撮っている方がいた。
 
(左)象山公園(象鼻山)。象が水を吸いとっている形に似ているらしい!?水が綺麗だ。
(右)早朝散歩した独秀峰の上から。
  
(右)伏波山。桂林市内にはこのような小高い山、というか奇山が沢山ある。街のビルとほとんど同化しており、桂林独特の風景だ。この山は山頂に伏波将軍が廟をたてたことから名づけられたものだ。
なお、この写真は、朝早くおきてホテル近くの小高い山に登った。この山は独秀峰といい、登るにはお金が必要で(1元)、かつ危険ということで保険もかけられる(0.5元)。結構急な坂を登り、ハーハーいいながら頂上まで登ると、なかなかの景色が広がっている。早朝のすがすがしさもあって、しばしボーっとしたものだ。

【春城、昆明】
昆明は春城と呼ばれており、常に春のように陽気でさわやかな気候の街である。ミャンマーとも国境を接しておりかなり奥地に位置するため、これまで王朝の支配は受けていない。また、雲南省は少数民族が多く居住しており、昆明は少数民族が拠点とする都市へのゲートウェイになっている。大理、麗江、シーサンパンナなどは美しい景色とあいまって、中国でも屈指の観光地となっている。日本人にも大変人気の場所であり、雲南の少数民族とひそかに結婚する日本人も少なくはないらしい。

 
昆明(雲南省)の周辺地図。石林は意外に遠い。

 
ここは有名な観光地だ。昆明から車で1時間以上かかっただろうか、途中、ベトナム行きの列車も見えた。ここはまさに石の林である。このあたりは少数民族の村があり、民芸品を売っている普通の民家に連れて行ってもらった。そこのほうが実は印象深かった。サニ族という部族であり、驚いたことに日本語をうまく喋っていた。日本人観光客が多いのだろう。

西山の龍門
 
 
西山の龍門は、岩をくりぬいて作った道を歩いていかなければならない。下にある昆明湖まではかなりの高さがあるため、かなり怖った。なお、ここに関羽廟があったのだが、写真を撮っていないのが、今になってかなり後悔・・・。昆明湖は中国で5番目に広い淡水湖であり、琵琶湖の約半分である。


雲南民族村
 
(左)さすが少数民族が沢山いる省の都だけあって、このような民族村もある。
(右)雲南民族村で最も目を引いたのが大理だ。大理はパイ族だ。三国志でいえば孟獲か。この3つの塔が綺麗な湖に写っている姿はかなりすばらしいらしい。大理は是非とも行ってみたい場所だ。

雲南民族村~麗江~
 
(左)ナシ族のエリア。ナシ族は観光地として有名な麗江がある。しかし、この数日前、残念ながらM7以上の地震が麗江付近を襲い、00人以上の方が犠牲になってしまった。ガイドさんもかなり落ち込んでいた。ちなみにかなり小さいが、左の写真に写っているのがガイドの甘さん。
(右)民族村には池がありそこでボートに乗れる。ガイドと一緒に乗ったが、かなりスリリングで面白かった。その他、人生初の乗馬もできた(いまだかつて馬に乗ったのはこのときだけ)。

 
(左)民族村には象形文字で名前を書いてくれるところもあった。
(右)強面の運転手(中央)と昆明空港でお別れのとき。

【旅行記】
以下は当時書いた旅行メモである。少し長いけど掲載しときます。

2月3日(土)
待ちに待った中国旅行が始まった。
前日まで,仕事が終わらず連日連夜の残業により,体は極度に疲れていた。それでも,朝6時に起き,憧れの大地,中国大陸へ向かった。JASは,中国名で,日本佳速航空と呼ぶ。JAS11便は関西国際空港を飛び立った。広州までは,4時間10分の飛行時間だ。淡路島,瀬戸内海,福岡を過ぎ,いよいよ,中国大陸が見えてきた。どうも,大きな川の河口らしく,のどかな田園風景が窓から見えてきた。いよいよ中国,期待に胸が膨らむ。

飛行機が広州に近づき次第に町並みが見えてきた。これが中国か。マンションらしきものや,近代的なビル,そうかと思えば,バラックのような建物があり,いろんな物が混在し開発段階の町といった感じだ。白雲空港に到着し,ガイドの呉さんを見つけた。長身で細くて,スタイルがいい人だ。両替をすませ,いよいよ,広州市内の見物である。広州はインドと同じくごみごみした町を想像していたが、そうでもなく開発中の町といった感じで、思ったより奇麗であった。やはり人は多い。

市内見物では,中山記念堂,越秀公園にいった。孫文やアヘン戦争等の言葉がでてきたが、さっぱり忘れてしまっている俺にとっては、わかったようなわからないような感じだった。広州は,5,6日目にまた立ち寄る。この日は,桂林行きの飛行機の時間の関係で,少しだけ市内見学をしただけだった。

桂林には,19:45に到着した。ガイドの王さんが出迎えてくれた。伏波軒という小汚いレストランにつれていってもらい,あまりおいしくない中華料理を食べさせてもらった(狸やスッポン,うなぎなど)。そこでは,結婚式の後だったらしく,金銀の紙が床に舞っていた。ホテルにチェックインした後,市内をぶらぶらと歩いた。公園で太極拳をやっていると思いきや,社交ダンスがブームらしく,老若男女が思い思いに踊っていた。川沿いでは若いカップルが愛を語り合っていた。伏波山や王城を散策し,その夜はホテルに帰った。中国最初の夜であった。


2月4日(日)
この日は,朝早く起きて,市内を散歩した。目的は独秀峰を登ること。期待して行ったがあいにくの曇り空で景色はあまりよくなかった。体は疲れ足はがくがくとなってしまった。しかし,シェラトンの朝食がその分美味しかったので,まあよしとしよう。この日は,漓江下りであった。山水画で世界的に有名な漓江は,この旅行のハイライトともゆうべきところである。遊覧船に乗って,山水画の世界を満喫する。「桂林山水甲天下」といわれただけあってさすがに素晴らしいものがあった。三峡下りはもっと迫力があって,さぞかし素晴らしいだろうなあと思いながら,風景を楽しんだ。

漓江の川沿いには,まだ貧しい村落があって,船にのっている外国人を相手に,子供達が金をせびり,また,筏にのった売り子達が,訳のわからないものを観光客に売ろうとする。これは,インドでよく見かけた風景だ。金はやらなかったが昼食ででてきたリンゴをやった。なんか複雑な心境になった。

漓江下りのあと,ガイドに無理をいって畳彩山にいってもらった。ここからの風景は格別で,晴れたこともあり,見事に市内を一望できた。素晴らしい風景であった。桂林はこれだけで,その後夕食を食べた後,昆明行きの飛行機に乗った。桂林では,風光明媚な景色と,運転手の優しそうな笑顔が印象に残った。

昆明では,甘さんと恐そうな顔の運転手が出迎えてくれた。当初の予定では,ガイドは女性であったが,変更されたらしく,男であったことに,激しく失望した。しかも,運転手の顔はかなり恐い。昆明飯店に案内された後,市内をぶらぶらした。ミュージックテープを買ったり,本屋にいき,「三國演義」を購入した。大満足であった。中国のホテルで「三國志」,しかも中国語の「三國志」を読める(見るだけか・・)ことは夢のようであった。昔,この国で,劉備,関羽,張飛そして諸葛亮孔明がいたと思えば,感慨もひとしおである。この夜は,「三國志」の世界にひたりながら,寝ることができた。

2月5日(月)
この日は,代表的な観光地である,石林と西山の龍門に行った。石林は思ったほどのことはなく、ただ遊歩道の上の岩が落ちてこないことだけを祈っていた。石林は,その風景も見たかったが,もう一つの目的があった。それは,少数民族の村に行くことだった。幸運にも少数民族のパイ族の村に行くことができた。そこで,伝統工芸品を買い,また,少しだけコミュニケーションが図れた。とても親日的(にみえた)であり,心があたたまった。石林自体は,たいした感動はなかったが,その少数民族と,途中の景色に感動した。ベトナムやミャンマー行きの列車を見た時には,感動した。西山(龍門)はさすがにすばらしかった。何段もの石段を登って行き,龍門をくぐる。まさに,登龍門だ。ここからの眺めは最高で,はるか下方に,昆明湖が見え,その風景は,素晴らしかった。ここには,あの関羽雲長を武士の神様として祠ってあるところがあって,突然の関羽に感動した。


2月4日(火)
昨夜の飲みすぎと騒ぎすぎとたばこの吸いすぎで頭が痛かった。ぼーと朝食を食べていると,甘さんがやってきて,一緒に食べた。甘さんは28才だけど,しっかりしていて,今の中国の現状や,日本の立場とかをかたってくれて,すごく感銘した。以前,知り合いになった中国人も、社会的な制度とかには不満があったらしく,切々と語っていたのを思い出した。甘さんによれば,今の日本の若い人は,物事をよくわかっていない,勉強が足りないそうだ。たしかにそれは言える。平和な日本で,ぬくぬくと育ちすぎているのだと思う。この日の朝の話しは心に残るものであった。

一応,この日も観光した。雲南民族村に行き,馬に乗ったり,ボート(高速船)にのったり,少数民族の踊りを見たり,とても楽しかった。甘さんは,俺達が若いからといって,いろいろと考えてくれていたみたいだ(自分の好きなことをやっていた気もするけど)。とにかく,楽しかった。少数民族の各村を訪れ,それぞれ特徴があって,実際に,訪れてみたいと思った。整理すると,タイ族はシーサンパンナパイ族は大理ナシ族は麗江が主な本拠地だそうな。「三國志」に登場する孟獲はタイ族である。そして,麗江は,地震があったばかりで,200人もの人が亡くなったそうだ。俺達が桂林を観光している日のことだった。雲南省は,地震が多く,最近,頻発しているそうな。やはり,地震は恐ろしい。大理も麗江も,一度はいってみたいところの一つだ。

昼飯は,当初の予定を変更し(時間的な理由),どこかのレストランで,雲南名物のビーフンを食べた。甘さんとの別れが近づいていたため,少し寂しかった。年齢が近いこともあって,甘さんは最高のガイドだった。甘さんと運転手との別れを名残惜しみながら,昆明空港を後にした。

広州の白雲空港に着き,呉さんと再会した。広州では,夜の町を俳諧した。活気があって,躍動感が溢れ,中国人民のパワーを感じた。特に,広州駅のあの人の多さといい,雰囲気といい,凄まじいものがあった。切符を買うのに,何十にも列をつくり,ひたすら待っている人々の姿がやけに印象にのこった。それと,町ゆく娘の格好が,都会じみていて,昆明では見られなかった,スカートやスーツの女性が目立った。この夜,俺の見当違いもあって,2時間はゆうに歩いてしまい,くたくたになってしまった。ホテル「花園飯店」で熟睡した。


2月5日(水)
この日は,広州の市内観光であった。六榕寺,陳氏書院自由市場はコース通りであり,それぞれよかった。しかし,コースにはなかった光孝寺や沙面は感動した。光孝寺は,広州市が出来る以前からあっただけあって,由緒ある寺であった。少林寺の映画の撮影に使われた寺ということを聞かされて,ますます興味をそそった。沙面は,昔の租界地(英,仏)であり,西洋風の建築物ばかりであった。白人が多いのも,そのためであろう。長崎の出島のようになっており,珠江のほとりで気持ちよかった。珠江も見たかったうちの一つであったから,満足であった。珠江を見ていると,どこか香港のようで,渡し舟が旅情を誘う。なかなか素晴らしい場所だった。そのあと,無理をいって,広州駅にいってもらった。昼間の駅をみたかったからだ。凄い人だった。その時の,呉さんの険しい表情(警戒していたと思う)が忘れられない。

夕食の四川料理は強烈であった。めちゃくちゃ辛い!最初はうまいと思ったが、3皿目ぐらいから顔が赤くなり始め、最後は頭がボーっとしてきた。胃の調子がおかしくなってしまった。そのお腹を治すためにも、食後、流花公園を少々散策した。


2月8日(木)
中国最後の日だ。呉さんは,親切にも,動物園や,翡翠の工芸所に連れいて行ってくれ楽しましてくれた。呉さんには,本当に感謝している。ガイドとして最大限の努力をしてくれた。白雲空港で見送ってくれる時も,最後まで見送っていてくれていた。その姿が印象的である。

帰りの飛行機の中では,中国の楽しかった思い出が蘇った。壮大な景色もよかったが,やはり,人との触れ合いがよかった。金で雇っているガイドとはいえ,親切にしてくれた呉さん,自分の考えを語ってくれた甘さん,無口な王さん,みんな最高だった。そんな思いを抱きつつ、関西国際空港に降り立った。これで,6日間の中国の旅が終わった。


あとがき
今回が最初の中国旅行であった訳だが,一言で言うと,「最高」であった。全てが素晴らしかった。甘さんによると,3年前から,自由経済に移行した中国は,今,急速なピッチで動き始めている。それを肌で感じ取れた。訪れた3都市どれも,建設ラッシュで,工事中の建物ばかりが目立った。今,出来るだけいっておかないと,どんどん変わっていく,そんな気がして,少し焦ってしまう。思ったより進んでいて,夜の街もディスコやローラースケート場,パブなんかがあったりして,遊ぶところは沢山ある。それに,カップルが目立ち,至る所でべたべたしている。そんな光景は信じられなかった。共産主義の頃は,そんなことは出来なかったのかもしれないが,今は全く共産主義とは思えないものであった。夜の街も活気があり,若者は遅くまで遊んでいる。

中国のことが何故好きなのかを考えてみる。壮大な風景しかり,爆発的な人口による人民パワーしかりであるが,やはり12億人というとてつもない人口がいながら,その一人一人が,自分のことは当然だが,国家のことを考えているような気がする。どうすれば,国が豊かになるか,どうすれば,発展してくか,考えているような気がする。あの,早口な中国語で喋っていることはわからないが,そんなことを喋っているのではないか,そう思った。中国びいきの俺の偏見かもしれないが,今回の旅行では特にそれを感じた。

と同時に,上(政府)の命令があるから,上が決めたことは必ずやるという風潮もあって,へたすれば,危ないところもあると思う。政府の命令は絶対であり,死刑といわれれば従い,厳しい法律をつくるといえば,それを受け入れる,そんなところもあると思う(甘さんが言っていた)。ただ,これからは,必ず発展してく国だと実感した(そこがインドと違うところ)。

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