インドを代表する観光地、タージマハル(アグラ)
【インドでの体験】 今から思うといろんな思い出がよみがえってくる。 とにかく、街にいるインド人は本当にしつこかった。いろいろとエピソードはあるものの、一番びっくりしたのは、ウダイプール空港で待っているとき、見ず知らずの奴がよってきて、紙とペンを貸せというから貸すと、自分の住所を書いてきて、「日本に帰ったらここに時計を送ってくれ」といわれた。あほかっ、何で見ず知らずの奴に時計をおくらなあかんねん! デリーのある寺の中で、そこははだしにならなければならない。寺を一周したあと、近所の子供たちがよってきて、さかんに足を洗ってくれる。親切やな~、と思っていたら「マネーマネー!」と言ってきた。ある程度、予想していたものの、かなり真剣に言ってくる。金はあげたくなかったので、アメをあげた。すると受け取らずに、怒られた。 アグラでぶらぶら歩いていると親切に話しかけてくる奴がいる。しかも日本語喋れる。「俺の彼女は日本人だ。大阪の茨木にいる。」と写真を見せられた。おー、こいつはまずまず信用できるかと思って、いろいろ聞いていると、やっぱり宝石とじゅうたんを売りつけてきた。 デリーを一人で歩いていると、いきなり俺の胸にさしていたペンをとられて、「俺のペンと交換してくれ」といって無理やり交換させられた。もちろん、そのペンはほどんどインクがでない。 ツアーと別れた最終日、1人でニューデリーの観光をしようと思っていたら、どこからともなくやってきた現地人。何かひつこく言ってるが、どうも観光案内をさせろと言っている。「いらん!」と何回も身振り手振りで言ったもののずーーーとついてくる。まーえーわ、ほっとけと思うが、喋ってる言葉はヒンズー語で何を言ってるのかわからない。最後は案の定、金を請求された。途中、象に乗れたのが収穫だったので、20ルピーほど渡したが、もっと請求してきたので殴りかかろうと思ったぐらい腹立った。 数えればきりがないが、こんなことが街を歩いていると日常茶飯事に起きる。そこが不思議の国、インドであろうか。最初、デリーに着いたときは夜であったが、ホテルに向かうまでの道の中央分離帯に人が連なって寝ているではないか!この人達はここが家なのだろう。ホテルの周りにもそういう人が沢山いた。カースト制度により、上級階級はかなりのエリート、しかし、身分が下層の人たちはかなり貧しい。また、身分間でははっきりしており、身分が下であれば、たとえ年上でもこきつかっている。そもそもインドはアーリア人が侵攻してできた国だ(確かそうだった)。だから、侵略してくる癖があるのか、そんな民族なのか、そんなことを思う。 ただ、インドで気をつけなければならないのが病気。私の友人はインド好きで何回か行っているけど、1回マラリアにかかって、生死をさまよっています。これから行かれる方、気をつけてください。その友人、そんな経験を持ちつつ、泊まっているホテルが綺麗すぎるから(私には十分汚かったんですが)、もっとインドらしいホテルに移ろうや!といっていたのには驚いた。人間、いろんな趣味があるからね。 【旅程】
【写真紹介】 ようやく写真を掲載できることになった。もうかなり前になるが、インドの様子をお伝えできればと思う。 ニューデリー(New Delhi) (左)インド門。インド門は第一次世界大戦でイギリスのために戦って死んだ兵士に捧げられたものだ。高さ42メートルのアーチには1万人余りの将兵の名前が刻まれている。インド初日ということもあるが、ここはかなり暑かった記憶がある。この門の前では、10ルピー(約30円)で蛇使いのショーを楽しむことができた。もちろんコブラである。 (右)フマーユーン廟。ムガル帝国第2代皇帝フマーユーンの墓廟だ。この敷地内では、勝手にガイドをしてくるおっさんがいた。ヒンズー語だし何を言っているかわからないんだけど、ここを出るときになってやっぱり金をせびられた。意味わからんわい!と言って出ようとしてもしつこい。仲間が1円をあげると、その価値がわかったのか、そのおっさん怒り始めた。 ニューデリーは首都である。首都といってもやっぱりインド、どこかごみごみしてて洗練された感じはない。街には乞食がそこかしこにいて、日本人を見ればみんな寄ってくる。特にひとりで歩いていた後半になると、30分とゆっくりと1人でいることはできないぐらいであった。以下の写真はデリー市内の街の様子である。人が多いため躍動感があるが、かなりの喧騒である。 (左)街の中心部からそれほど遠くない場所に、こんなバラックがある。最も貧しい人たちの家である。中を覗いてみると4畳ぐらいのところに家族全員で暮らしているようであった。もちろん、衛生状態もよくない。 (中)ジャムナ(Jamuna)川のほとりで像に乗れる場所があった。ちょっと高いが100ルピー(約300円)でのらせてもらった。背中はかなり堅く、思った以上に高く感じたものだ。 (右)ラジブガンジーのお墓にいった。ガンジーはインド建国の父だ。国民的英雄である。 アグラ(Agra) ご存知、アグラのタージマハル。世界的に有名なだけあって、かなり美しい。ここは見る価値が十分にある。私がいったときは、突然スコールとなり、かなり雨に降られた。しかし、雨上がりのタージマハルもこれまた綺麗であった。タージマハルはシャー・ジャハーン帝が妃の為に建てた霊廟であり、内部にはレプリカの棺を見ることができる。それと見逃してはならないのが、壁の模様だ。こんなものにはあまり興味のない私でも、しばし見とれてしまった。 ニューデリーからアグラまでは約200km。タージエクスプレスで約2時間で到着。左が当時のチケット。右はデリーとウダイプールの航空券。 ウダイプール(Udaipur) 今回の旅の目的はこの街だ。ツアーのお世話をしていただいた方々がここに住んでいる。そして、ここを拠点に植林に行くのがこのツアーの最大の目的である。なお、残念ながら、私だけ1週間で帰ったため、植林にいけていない。 16世紀にムガール帝国の攻撃を受けたメワール王のウダイ・スィンは山間の谷間である、この街に都を移した。王は川をせき止め、ピチョラー(Pichola)湖などを造り、貴重な水の確保を行った。そして、ピチョラー湖に浮かぶレイク・パレスはかつて王族の避暑のために建てられたものを改装した、白亜の宮殿ホテルだ。ビバ!マハラジャ!白大理石をこれでもか、といわんばかり使用してるのだ。今回お世話になったリタさんのとりはからいで、このホテルに豪勢ランチを食べにいった(宿泊は対岸のジャガットニワスというホテル)。そこで食べたカレーがたまらなく美味しかった! なお、この街は007のオクトパスのロケも行われたようである。 (左)これがレイク・パレスだ。ピチョラ湖に浮かぶ世界でも珍しいホテル。 (右)シティパレス。ここのてっぺんからの眺めが素晴らしい。 レイクパレスからウダイプールの街並みを望む。夏であったが、湖の上は心地よい風もあり、さすがに涼しかった。 (左)シティパレスから望む、ウダイプールの街並み。ごみごみしているが、インドの田舎町といった感じ。(右)ウダイプールの夜だ。デリーの喧騒とは違って、とても静かである。 (左)インド好きの宏理くんと。ジャガットニワス(宿泊先)の屋上で。 (左)これはおそらく紙芝居。 インドで出会った人たち インドではいろんな人に出会い、いろんなことを感じ、楽しくもあり、悲しくもあったものだ。 (左から)
カブラ(Kabra)ジー。ウダイプールで旅行会社を経営している。今回のツアーでは最もお世話になった人。ウダイプールではつきっきりでお世話をしてくれた。なお、インドでは親しみを込めて「ジー」と呼ぶらしい。
マクブール(Maqbool)ジー。カブラさんの友人であり、一緒にいくつかの観光地を回ってくれた。人が本当によくって笑顔が最高。一緒にいるだけで安心できるタイプであった。 マノジャデワン(Manoj Kr. Diwan)さん。ニューデリーの旅行会社の人。日本語を勉強中であり、簡単な会話なら日本語で大丈夫であった。マノジャのお兄さんが神戸でインド料理屋をやっているとのことだったので、その後、何回か行った。顔がよく似ており、弟のことを話すと、かなり嬉しそうに喋ってくれて、1品サービスしてくれた。 リタ(Rita)さん。日本に住んでいたこともあり、日本語堪能。かなり頭のいい方である。性格もよくって、ツアーを影で支えてくれた方。もちろん、一番右に写っているのがリタさんである。 (左から) シャキル(Shakil)。ウダイプールでなぜか知り合った奴。というか、営業のために俺に接触をしてきたんだろう。でも、人なつっこい奴でかなり気に入った。 シャキルの兄さん。シャキルが俺の家においで、というから、どうぜ暇だし行ってみることとした。すると、この兄さんがかなり面白くて、その話にのってじゅうたんの営業トークをしばらく聞いていた。じゅうたんを見ていると、質もかなりよさそうだし、この兄さんのトークも面白かったので、安いものを買ってあげた。なぜか一家全員がでてきて、シャキルのお父さんやこの兄さん、そして弟も2人ぐらいでてきて、家族全員と記念撮影までしてしまった。なかなか面白い一夜であった。なお、ツアーグループでは私の行方不明事件となっていたようだ・・。ご迷惑かけました。 モハマッド(Mohammed)。ウダイプールの運転手だ。こいつは仲良くなったと思っていたんだけど、この顔のとおりかなり悪い奴だったようだ。私が最後にわかれるときにうちわをあげたが、あまり喜ばなかった。ツアーグループがその後、分かれるときにチップをあげたが、もっとよこせということで、かなりもめたそうだ。まー、そんなもんかといいつつ、ちょっと悲しいね。 謎のチベット系の子供たち。アグラのタージマハルで1人でじっくりと鑑賞していたとき、こいつらが襲撃してきた。一番左の奴がリーダー格であるが、どうも、私のカメラで俺たちの写真を撮ってくれ、と言っているようであった。仕方なく撮ったが、どうやって渡すんだろうか?まー、そんなことはどうでもいいんだと思うが、この4人、やけにはしゃいでいて、それを見ているだけで面白かった。小学生時代を思いだす。 金をねだる少年。この子どもは屈託のない笑顔が愛らしい。しかし、分かれる間際になって、「マネーマネー」と言ってきたがった。アメを渡したんだが、受け取らず、しつこくお金くれといってくる。ちょっと失望した瞬間だ。もちろん、金はやらなかった。 (注)インドルピーは当時は1ルピー=3円であったが、2004年8月現在、2.6円程度になっている。 【日記】 当時書いていた日記みたいなものを掲載しときます。 7/30(Sun) いよいよ出発だ。空港でメンバーと喫茶店にはいりしばし団欒したあと,搭乗手続へ。今回は5人のメンバーで名目はインドで植林をすることである。俺は仕事の都合で1週間しか滞在できないため、2週目に行われる植林に参加できない。だから、俺は観光だけとなる。インドははっきり言って不安ばかりだった。気候,水,虫,病気等いろいろな不安である。関空から香港までの間にエアーポケットにはいて,かなり恐かったけど何とかインドに到着。 空港に降り立ったとき,何ともいえない臭いがした。この匂いこそそれから一週間つきあっていく匂いだった。決していやな臭いではない。しかし、ホテルの汚さに唖然としたものだ。ベッドに 横たわるとひんやりしカビ臭い。このひんやり感はなんなのか?風呂もぞうりはかないと入れないし、結局トイレはいけずしまい・・・。この先がかなり不安である。 7/31(Mon) 快晴 友人は興奮しているらしく,朝早くからおきていた。そもそもこいつがインド好きだから一緒に来る羽目になったんだ、なんとなく後悔していた。そうはいうものの、俺も目覚めはよかった。インド初日,インド門やフマーユーン廟にいった。オートリキシャーの豪快さというか,安定性のなさというか,とてもインドらしい乗り物だった。それと街に活気があり,みんな生きているんだという感じがした。ただ、観光者をみるとよってきて,おかねをせびるひとたちがいやだった。「ちゃんと働いて稼げよ」って感じかな。よく知らないけど,カースト制度というものが,そうしている,つまり,下層階級のひとは満足に働けないのかとも考えた。しかし,街は雑然としている。人,牛,豚,車,オートバイ,リキシャー,自転車が入り交じっている。この夜,我々はウダイプールという田舎町に移った。ウダイプールは007のオクトパスという映画のロケ地になった美しい街だ。デリーから南西方面に飛行機で1時間ぐらいのところだ。 8/1(Thr) ウダイプールで滞在しているホテルは最高だ。その名も「ジャガットニワス」。部屋の窓から,湖がみえる。ピチョーラー湖に浮かぶ白亜の宮殿,レイクパレスはまるでマハラジャが住んでいるようで近寄り難い雰囲気がある。ホテルのレストランの料理も最高にうまく,また景色もいい。ついつい,食が進む。この日,現地の仲間である、カブラジーやマクドウージーの案内でウダイプル市内を観光した。カブラジーは見た目恐そうだったけど,実はやさしいおじさんだった。マクドウージーは見た目どおりやさしくて親切だった。今回の旅行の中で,もっとも気に入ったひとだ。インドという風土が人間をつくっているのだろうか。あの屈託のない笑顔は忘れられない。 8/2(Wed) この日も,カブラジーの案内でウダイプールのまちを見学した。ウダイプール最後の日だった。夕方から自由行動になり,マクドウージーに買い物を付き合ってもらった。彼は芸術の先生ということで,俺が絵を買うのをみてもらった。木にかいたウダイプールの街と大理石にかいたマハラジャの絵をかった。結構高かった。しかしいい買い物だったとおもう。2,3時間マクドウージーといっしょにいた。そのほかにもいろいろな買い物に付き合ってくれた。ウダイプール最後の思い出になった。 夜,ウダイプールで知り合ったサキーという少年についていき彼の家へいった。カシミールの民芸品を売っているところだった。サキーのお兄さんはなかなかのセールスマンで,その説明をきいているとおもしろかった。結局,そこでもセーターとカーペットを買ってしまった。 最後に少し悲しかったのが,サキーは友達と思っていたのだが,やっぱり俺の金目当てだったこと。 学校の学費が払えないとのことで,金をくれといってきたので,サキーを信じて,サキーの兄さんとあわせて20ドルやった。絶対に子供には金はやらないつもりだったが、サキーの言葉を信じてやった。ちゃんと勉強するという約束で。サキーに裏切られた気分を自分なりに正当化しようとして,自然とそういう約束をしたのかもしれないが。ウダイプールの最後の夜は少しブルーになった。 8/3(Thu) いよいよデリーに帰る日だ。朝,みんながヨガにいく時間におきて,最後のお別れをした。友人だけ残ってくれて俺を最後まで見送ってくれた。あいつとずっといっしょだったので,妙に寂しくなったものだ。ウダイプールから飛行機がとびたったときは,思わずジーンときた。いろいろな人の表情やしぐさが浮かんできた。また来るぜ!とこころのなかで思った。デリーにかえるとそれまでの疲れがでて,昼間はホテルで寝てしまった。夜は,ガイドのマノジャデワンさんが晩飯をおごってくれた。なんとなく仲良くなってしまった。彼は日本語の勉強中で,すごく真面目なひとだった。 8/4(Fri) タージマハルを見るためにアグラへ行った。アグラ駅から一人歩いていると声をかけられ,その人と意気投合した。そのひと会社へいき,ティーを飲んでいるとその友達も来た。ラグーというやつで,日本人の彼女がいるらしい。日本びいきの人ばかりだった。 ディーケイという宝石商にもあった。 しばし、その宝石商の家で団欒していた。 結局タージマハルはほんの一時間だけみただけで,あとはその人達と話してばかりだった。不思議な出会いであった。ラグーとディーケイとは日本で会う約束をした(結局、あえなかったが)。 8/5(Sat) インド最終日。デリーの市内を一人ぶらぶら歩いた。インドではいろいろなことがあった。なによりもうれしかったのは,たくさんの素晴らしい人と出会ったこと。日本にかえってからも,交流を続け,またいつか再会したい(その後、カブラジーは来日し再会できた)。そんなことをゆっくり考えたかったけど,さすがにインド。日本人をみると,すぐに寄ってくる。10分たりともゆっくり出来なかった。慌ただしい国だ。そんな奴等がいやになって,人気のないところで夕刻ボーとした。ラッシュアワーの騒々しい中,一人なにも考えず,道端で座っていた。これでインド旅行も終わったんだ。そんな実感がわいてきた。人間とは凄いもので,あれだけ汚く見えたランジットホテルも,最後にはなれて,あまり汚いと思わなくなっていた。人間の適応力は凄いものだ。インド,また行ってみたい国だ。 【あとがき】 (1996年1月20日に記載) インドに行ってきたのは,既に,半年以上も前になってしまった。今,振り返ってみると,あの“がめつい”インド人しか思い浮かんでこないのである。街を歩いていると,あらゆるところから声をかけられ,金をせびってくる,あのインド人しか,浮かんでこないのである。向こうで知り合った,カブラやマクビーは,本当にいい人で,また会ってみたいので ある。確かに,タージマハールやウダイプールの景色は,本当に素晴らしいものがあった。国全体に,神秘的なものも感じた。 でも,やっぱり,もう一度,行きたいとは思わないのである。 あの、インド人の“しつこさ”と“がめつさ”を思い出すたびに、いやな感じがする。 (1年後) 1年経って、夏がくると、あの暑さと独特の匂いを思い出してきて、懐かしい感じがしてきた。それと、この夏に、カブラが日本に遊びに来た。その時、とても楽しく喋ることができ、カブラやマグドウールのいるインドにもう一度行きたくなってきた。ある本に書いていたことだか、インドは仏教発祥の地であり、御布施を行うことは常であり、御布施を行った方が、ありがたいと思わないといけないそうだ。だから、日本人を見ると、よってきて、「マネー、マネー」というのも当然のことなのだろう、と善意に解釈しようとしている。 最後にインド情報満載のWEBページを紹介します。当時、Webが発達してれば、もっと情報が収集できたのに・・・。 |