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漢と楚の武将たち
〜項羽と劉邦に従ったツワモノ達〜

項羽が武勇一辺倒、敵なら降伏しても殺してしまった。しかし、劉邦は寛大な心で受け入れ、敵でも降伏すればどんどん受け入れた。その違いにより劉邦が天下統一ができ、かつ400年も続く漢王朝を築いたのだ。以下は両武将と、彼らに付き従ったツワモノ達の紹介である。

【劉邦軍の武将】
表の見方:上段は左から「生没年及び生涯年齢」、中は「出身地(当時の地名と現在の地名)」、右側は「死亡地及び墓所在地」
武将名
武将の紹介
劉邦
りゅうほう
前256〜前195 61歳 沛県豊邑中陽里(江蘇省沛県) 陝西省咸陽市 長陵(高祖劉邦)
漢の高祖。劉邦は顔が童顔(天子の顔)であったとか、つねに天子の霊気を漂わせていたとか、体に72(吉数)のホクロがあったとか、神がかり的なエピソードが多いが、これは周りの者が神秘性をもたせるために作ったものだと言われる。字を季といい沛県の農家に生まれた。しかし、農業は大嫌いで酒と女が大好きだった。農民出身のため戦は得意ではなかったが、配下の優れた武将により助けられた。どこか間抜けなところがあるのはご愛嬌だ。

武将名
武将の紹介
張良
ちょうりょう
陝西省漢中市留{土貝}県留候鎮
字は子房(しぼう)。漢の高祖劉邦の三傑の1人。韓の宰相家の家柄に産まれた。少年時に秦に韓を滅ぼされたため、秦への憎しみは相当なものだった。復讐のため、始皇帝暗殺を図ったが、失敗。そのまま下{丕β}に名前を変えて身を隠し、太公望の兵法書を読みふけった。そんなとき劉邦の旗揚げに加った。劉邦は、最初は韓から張良を借りていたが、韓王成が項羽に殺された後は、劉邦に付き従った。その後は劉邦を支えた大軍師となる。張良は、はかりごとを本営の中でめぐらし戦う前に勝利を決定した。困難なことも容易なことから考え、小さなことから順に行い、ついに劣勢の漢軍に天下を取らせた。

武将名
武将の紹介
韓信
かんしん
生年月日は不明 淮陰(現在の江蘇省淮安市) 江蘇省淮安市
漢の高祖劉邦の三傑の1人。貧しい平民の子であり、若い頃は学者の門下生になり勉学に励んだ。しかし、母の葬式に行かなかったため師に破門にされた。その後、淮陰郡の下郷にある南昌(最下級役人)の居候となった。それからは、ぐーたら生活をしたが、特に有名なのが街でチンピラに股くぐりをさせられたので「股夫(こふ)」と呼ばれた。また、食べ物に困り、よくおばあさんに食事を恵んでもらっていた(その2人には楚王になったときに恩返ししているのがすごい)。最初、項羽の下につくが、再三の上奏にもかかわず取り立ててくれないため、蕭何、夏侯嬰の勧めもあり漢軍に加わる。そして、大将軍に取り立てられ、その後は国士無双と言われ、常勝将軍となり大功を打ち立てた。北方平定後、斉王になり、劉邦、項羽、韓信の天下三分の計をかい通(とう)に勧められるが取り入れず。劉邦の天下統一後、楚王に封じられたが、謀反の罪がかけられ淮陰候に格下げされた。それが不満で旗揚げするが、時すでに遅く、都に呼び出され非業の死を遂げた。しかし、劉邦の天下平定は、この人がいなければ出来なかったであろうし、まして項羽に勝つことはできなかっただろう。今でも中国では人気の高い武将である。

武将名
武将の紹介
蕭何
しょうか
陝西省咸陽市渭城区馬家堡(空港への高速沿い)
漢の高祖劉邦の三傑の1人。もともとは、沛県で助役をやっていたが、劉邦旗揚げ時に、秦の役人である知事を殺して劉邦に従った。劉邦に母のような役目を行い、彼がいなければ劉邦は挙兵すらできず、一生平民で終ったかもしれない。蕭何は誰よりも権限が大きく、民政・税政と糧食補給を任されたが一度も民に恨まれることはなく、逆に民は蕭何を賞賛した。劉邦が天下統一したときも、第一の功労者は蕭何としたのだ。

武将名
武将の紹介
樊ロ曾
はんかい
鴻門の会で劉邦の危機を救った劉邦の親友。劉邦の妻の妹を嫁にもらっていたので、劉邦とは親戚になる。鴻門の会では、項羽から進められた大量の酒を一気に飲み干し、豚の生肉を食らい、項羽に大義を悟らせた人物。彼の言により、その会から殺気が消えた。残念ながら、晩年はどうなったのかが史記には記述がない。

武将名
武将の紹介
夏侯嬰
かこうえい
夏侯嬰は太僕として常に劉邦の側に従い、数多くの危機を救った。戦車隊を巧みに率い戦を勝利に導き、また韓信・季布を見出した具眼の士でもある。また、劉邦が項羽に追われているとき、劉邦が馬車から自分の子どもを振り落としたとき、「天下を望むなら慈愛の心を持ち万民に尊敬される君主におなりなさい!」と名言を吐き、後の魯元公主と恵帝を救った。劉邦の天下統一に多大な功績を残した者だ。

武将名
武将の紹介
彭越
ほうえつ
漁師をやっていたが、本業は野盗であった。陳勝の乱がおきたとき、周りに請われて頭となる。そして、劉邦に参軍して秦打倒を目指した。劉邦が項羽と戦う時には、後方を錯乱するなどポイントとなる働きをする。劉邦が天下統一を果たしたとき、王に任命されたが、その後劉邦に誅された。

武将名
武将の紹介
陳平
ちんぺい
始め魏に、ついで項羽に仕えたが、誅罰を恐れて劉邦に帰順し、護軍中尉(諸将の監察官)に抜擢された。奇計によって漢王の危機をたびたび救い、漢の天下統一後は丞相として手腕を発揮した。

武将名
武将の紹介
{麗β}食其
れきいき
高陽出身の儒者で、始皇帝の焚書坑儒により狂人のふりをして高陽に身を隠していた。そのとき、劉邦に見出された。その後、関中に向かう箇所箇所で、城主をくどき劉邦に多大に貢献した。また、韓信が斉を攻める前に、斉王を降伏させた。しかし、そのことを韓信に事前に言っていなかったため、韓信が斉を攻めたとき、斉王に釜ゆでにされた。

武将名
武将の紹介
曹無傷
そうむしょう
劉邦が関中に入ったとき、函谷関を守り項羽の侵入を防げば、劉邦が関中王になれるとそそのかした。しかし、項羽に対しては、劉邦は咸陽の宝物や美女を1人占めしていると密告した。鴻門の会で劉邦が九死に一生を得ると、即刻、打ち首&さらし首の刑となった。劉邦から小人と言われた。


【項羽軍の武将】
武将名
武将の紹介
項羽
こうう
前232〜前202 31歳 江蘇省宿遷市 江蘇省宿遷市
名を籍、字を羽といった。楚の名将項燕の孫にあたり、楚が秦との決戦に敗れ滅亡した後、叔父の項梁とともに呉中に身を隠した。幼い時には、文字は自分の名前が書ければ十分だと言うし、武芸をやっても敵を1人倒したからといって何ができる、王になりたい、と言っていた。そんな項羽でも兵法書には興味を示した。項羽には、孫子の「その疾(はや)きこと風の如し、その徐(しず)かなること林の如し、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し。」という言葉がぴったりだ。猛将で、あたるところ敵なしであったが、最後は四面楚歌になり虞美人とも別れ、非業の死を遂げる。わずか31歳という若さでの死はあまりにも惜しい。

武将名
武将の紹介
范増
はんぞう
76歳? 徐州市
項羽に亜父(あほ:実の父と同じ待遇)とまで言われた名軍師。70歳にして歴史の表舞台に立った。項羽に慕われ軍師を務め、一度は中国を制することができた。数々の提言を項羽にするが、項羽はそれを聞き入れない。特に項羽が劉邦を見くびっていたため、劉邦を警戒せよという忠告にほとんど耳を貸さなかった。最も悔しがった場面は、鴻門の会で劉邦を誅することができなかったときだ。このとき、范増は覚悟を決めたのかもしれない。陳平の計により、項羽に疑われたため、自ら項羽軍を離脱し、故郷に帰る途中に背中に膿ができて人生に幕を引いた。70歳にしてこの気力、恐れ入る。三国時代の黄忠も、老いてなお猛将であるが、范増も引けを取らず、むしろ黄忠よりすごいかも。

武将名
武将の紹介
英布
えいふ
黥布(げいふ)とも言われる。若い頃、連座制で罪に問われ黥(入墨)の刑を額に受けたためそう呼ばれる。英布は初め項羽に仕え、項羽軍きっての猛将で、秦の大軍を破り20万人を生埋めにしたり、義帝を暗殺したり、項羽の影の部分の役目を請け負った。項羽が咸陽入りしたとき、九江王に封じられた。しかし、項羽のやり方に疑問を感じ、しかも劉邦の計略もあり、項羽からの援軍要請を断り、劉邦に寝返った。項羽が滅んだ後は、劉邦からも離反したが、結局、劉邦に誅された。受刑者から王にまでのし上がった一代の英雄であり、個人的には好きな武将である。

武将名
武将の紹介
龍且
りゅうしょ
項羽軍のなかでも有名な猛将。韓信が斉に攻めたとき、斉王田広は項羽に援軍を求めた。そこで、龍且が派遣されたが、韓信の水攻めによりあっけなく斬られた。韓信をなめてかかったことも災いした。


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