トップページ > 項羽と劉邦・春秋戦国時代
〜史記〜 私の認識は今まで間違っていた。中国の歴史は三国志が一番面白い!と思っていたからだ。三国時代は西暦200年頃の話であるが、それより何百年も前、つまり紀元前の時代にも、三国時代に引けを取らない人間ドラマが中国大陸で展開されていたのだ。特に紀元前700年から前221年までの秦の天下統一までは春秋戦国時代と呼ばれ、諸侯が覇権を争っていた頃はかなりハマる!
周王朝の時代は春秋と戦国のふたつにわけられる。前722年に魯が自国や列国の出来事を春夏秋冬にわけて記録はじめたころが春秋の始まりで、前481年に春秋時代が終わりとされている。そして、大国、晋が、韓、魏、趙に分裂されて間もない前403年から、前221年に秦の始皇帝が天下統一するまでを戦国時代と呼ばれている。また、秦始皇帝が天下統一を行ったものの、その暴政に住民が発起したなかで、項羽と劉邦がでてきた。乱世になると、賢人や猛将が沢山でてくるものだ。 この時代には様々な人物が世に出たが、歴史を後世に残したのは漢代の司馬遷であり「史記」にまとめられた。そこには、数百年の歴史が人物ごとに記されているが、特に楚と漢の攻防を描いた「項羽と劉邦」は、司馬遷が最も躍動感溢れる描写で記載している。その人間の生き様や考え方は、三国時代はもちろん、現代でもあらゆる場面で引用され参考にされている。現在でも春秋戦国時代の様子がわかるのは、大歴史家の司馬遷がいたからこそだ。 【春秋戦国時代】 春秋戦国時代の偉大な人たち 【項羽と劉邦】 項羽と劉邦のあらすじ 最強の武将、項羽(コラム) 漢と楚の武将たち 〜項羽と劉邦に従ったツワモノ達〜(登場人物紹介) 【遺跡】 項羽と劉邦・春秋戦国時代の遺跡 【キングダム】 キングダム周辺の歴史 【格言】 韓信が言った大将の資格を言った「5才10過」が心に残る。
5才とは、「智」乱れぬこと、「仁」よく人を愛すること、「義」期待を裏切らぬこと、「勇」罪を犯さぬこと、「忠」ふた心を持たぬこと、この5才を備えて大将になりうる。 10過とは、勇があって死を軽んじる者、急いで心落ち着かぬ者、利を求めてむさぶる者、仁あって人を殺せぬ者、智あって恐れを知らぬ者、信あって誰も信じてしまう者、清廉にして人を許せぬ者、計あって油断する者、意志強きゆえに何事も自分でことを成す者、怠け者であるゆえに人に任す者、この10過のうちひとつでもあれば大将の資格はない。 しかし韓信も最期は決断が鈍り、呂公に殺されることになってしまった・・・。 【参考文献】 「司馬遷 史記 W 逆転の力学」 和田武司、山谷弘之訳 徳間書店 2300円+税 「史記」1巻〜11巻 横山光輝 小学館文庫 各629円(648円のものもある) 「項羽と劉邦」1巻〜8巻 横山光輝 潮漫画文庫 各629円 「その時歴史が動いた 中国英雄編」 NHK取材班編 集英社 720円 【参考サイト】 もちろんリンクに貼っているサイトも参考にしているがその他は以下のものを参考にさせていただいた。 「真漢楚軍談」 「史記〜春秋巷談〜」 「中国的こころ」 項羽と劉邦をご存じない方のために、簡単な解説を記載しました。
中国はいくつもの諸侯が互いに競いあい王と名乗っていた。そんななか西の強国、秦が紀元前221年に中国を統一した。そのときの秦王が「政」であり、始皇帝である。彼は10歳まで敵国「趙」に人質として捕らえられており、貧しい生活を余儀なくされ、そのころの環境がトラウマとなり、誰も信じられなくなった。始皇帝になってからは「朕が死ねば統一国家が崩壊する」といって、不老不死の薬を追い求めた。そんななか現れたのが徐福である、彼はその薬を取ってくるといい、財宝や金を持ったまま消息が絶えた。ペテン師とも遭難したとも言われているが、彼の墓は日本の新宮市など数箇所にある(いわゆる徐福伝説)。 その後も、統一国家の威信をかけて、全人口の1割以上を動員して万里の長城を建設したり、世界最大級の木造建築物である阿房宮を建設したり、自らの巨大な陵墓を建設させたりしたため、国費を浪費し国力はかなり衰えた。また、初の統一国家ということで、法によって治めるべく、厳しい法律を作り、国民を統制しようとした。しかし、あまりにも厳しいため「罪人にするための法」などと言われて国民の怨嗟がつのっていった。始皇帝が死んで、史上最悪の宦官、趙高が実権を握ると、国民の怒りは爆発し、各地で農民陳勝などの反乱が起きた。そんななか、頭角を現したのが項羽と劉邦である。 項羽は、楚(現在の江蘇省北部)の名将項燕の孫にあたり、楚が秦との決戦に敗れ滅亡した後、叔父の項梁とともに呉に身を隠していた。幼い時には、文字は自分の名前が書ければ十分だと言うし、武芸をやっても敵を1人倒したからといって何ができる、王になりたい、と言うような子供だ。そんな項羽でも兵法書には興味を示した。陳勝の乱に乗じて、項梁とともに会稽(現在の浙江省紹興市)で旗揚げした。 項羽が剛の人なら、劉邦は柔の人だ。沛県(現在の江蘇省沛県)の農家に生まれた農民出身である。しかし、若い頃は農業はやらず酒と女が大好きで遊びほうける若者であった。そんな劉邦には不思議な魅力があり、彼がいると人が集まってくるようなカリスマ的な存在であった。後に2人は対立するが、最初は「秦を打倒する」という大義名分があったため、同じ旗のものにいた。そして、范増の策に従い、項梁が羊飼いに雇われていた懐王(楚王)の孫である「心(しん)」を再び楚王とした。そして、懐王は「先に秦の都、関中(現在の西安近郊)に入った者がその地の王である。」と言い、その言を受けて項羽と劉邦は楚の地を出発した。項羽は最初、大将軍ではなかったが、大将軍宗義が斉と内通していることを知り、彼を刺し殺した。そして、自ら大将軍となったのである。それから、項羽軍の快進撃は始まった。当事、最強だった秦の主力部隊を次々に倒し、鉅鹿(きょろく)の戦いでは、背水の陣をしいて兵士達を死に物狂いにさせた。それより、項羽の強さは鬼神のようで、彼の前に立てば命はなかった。 項羽と劉邦、この2人が秦の始皇帝を見たときの言葉が印象的だ。項羽は「いまに、あいつにとって代わるぞ・・」といい、周りの者に制止された。一方、劉邦は「ああ、男と生まれたからには、こうでなくてはなあ。」と言った。お互いの性格が出ている言葉である。 一方、劉邦は持ち前のカリスマ性で関中に向かう途中、張良や{麗β}食其(れきいき)などの名参謀を得る。そして、当事、降参した将軍は必ず斬るという掟を無視して、そのままの地位を保証したため、彼が通過するところは次々に無血開城されていった。その劉邦のやり方は各地に広まり、劉邦軍が来れば、開城して待っている太守もいたほどだ。よって、ほとんど無血で咸陽までたどり着くことができたのだ。当然ながら、戦いを行いながら咸陽に行く項羽よりも、劉邦のほうが先に着く。当事の移動距離でいうと、劉邦が2,300km、項羽が1,400Kmと差があったにもかかわらずである。首都咸陽に入った劉邦は、その壮大さに唖然とする。金銀財宝は山のように有り、後宮には何千人という美女がいた。思わず昔の癖で飛びかかろうとするが、そこは張良、樊{ロ曾}(はんかい)などにより抑えられる。そして、泣く泣く財宝、美女に封印をし、項羽の到着を待つことになる。 張良曰く、「忠言は耳に痛けれども行いに利あり、良薬は口に苦けれど病に利あり。」と。 関中に入った劉邦に函谷関を堅く守り、項羽の進軍を阻めば関中王になれる、と曹無傷(そうむしょう)にそそのかされた。その言に従ってしまった劉邦は、項羽の怒りを買い、項羽は劉邦総攻撃を決断する。軍事力を考えれば、項羽のほうが断然上、劉邦は関中王になる野心は無いことを釈明するため、劉邦の陣営に赴く。それが世に有名な「鴻門の会」である。ここに、楚を出発したときは、同じ旗の下でひとつの目的に向かって一丸となっていたものが、完全な仲間割れである。項羽の軍師、范増は劉邦を殺めることを提言するが、劉邦のへりくだった態度に、項羽は上機嫌。殺す気はなくなった。そこで、范増は将士に剣の舞をさせて、劉邦の殺せと命令する。しかし、劉邦側も腹心、樊{ロ曾}(はんかい)が命をかけてその宴に飛び込み、劉邦を守る。そして、厠に行くフリをして、劉邦は自陣へ逃げ帰った。 最大のチャンスをつぶしてしまった項羽に、范増はつぶやく、「青二才と天下の計を論じることはできぬ。」と。しかし、劉邦を逃がしたものの、項羽は若干26歳で天下の最高実力者に踊りあがった。 関中に入った項羽は、これまで国民を苦しめた秦が築いた財産を、これでもか、というぐらい破壊した。秦王一族はことごとく抹殺、秦王子嬰はじめ800余人や官人4000人を処刑した。その後、咸陽宮の財宝を運び出した後、民を苦しめたとしてことごとく焼き払い、3ヶ月燃え続けた。そして、世界最大の木造建築で巨万の富をつぎ込んだ阿房宮も焼き払った。さらに30万人を動員して秦の始皇帝陵墓を暴き、3万台の馬車で財宝を運び出し、地下宮殿にも火が放たれた。秦への恨みをそこで晴らしたということだ。 その後、秦打倒に参加した諸侯に対して、国を分割して各地の王に封じるのだが、最も功績のあった劉邦は、西の外れの漢中王とした。漢中は地図上では左にあることから左に遷したのだ。このとき「左遷」という言葉がうまれた。関中の一部が、漢中というこじつけだ。范増の策によって、項羽は劉邦をそこに封じ込もうとしたのだ。その後、項羽は故郷の彭城(現在の江蘇省徐州市)に都を遷した。そのとき事件がおきる。旗揚げ時の旗印とした懐王を義帝とし、僻地の長沙に移すことを決めた後、英布に命じて暗殺してしまった。「天に日は2つあってはならない。項羽が天下に号令すべきである。」との理由である。なお、義帝暗殺には2説あり、英布がやったというものと、衡山王呉ぜい{くさかんむりに内}と臨江王共ごうがやったというものだ。 一方、漢中で4ヶ月耐えた劉邦は、その間、人材を集めた。その中でも、項羽を見限った韓信はその後に主役となった。一時は斬罪を言われたものの夏侯嬰によって救われる。そのとき、5大兵法書を間違いなく暗唱したと言われる。最初は劉邦にも重く用いられず漢中からの脱出を試みるが、蕭何、夏侯嬰の説得により、大将軍に大抜擢される。それからというもの、韓信の一人舞台だ。関中に攻め入り3秦を疾風のごとく攻めて咸陽を奪取した。それから劉邦も各諸侯と力をあわせて、56万人の兵力で項羽の居城、彭城を一時は占拠するも、わずか3万人の項羽精鋭部隊にことごとく粉砕された。そこで10万人余の兵士を失い、劉邦も命かからがら逃げたのだ。やはり、韓信なくしては、項羽を撃つことはできなかった。 韓信は劉邦に命じられて北方を攻め、そして平定した。そのとき、側近の進言により仮の斉王になることを劉邦にお願いした。劉邦は激怒するものの、張良の進言により、仮ではなく斉王になることを許した。そのとき、韓信に進言する者がいた。荊通(かいとう)である。劉邦、項羽の次に、3番目の勢力になるべきだと。これが、三国時代が始まる400年も前に、三国鼎立するか、という状況が起きたのだ。このとき、韓信が決断していれば、三国鼎立し、もしかすると韓信が中国統一していたかもしれない。股夫と呼ばれた男が皇帝になれたかもしれないのだ。しかし、韓信は劉邦の恩義を忘れることができず、項羽を攻める。それが後に悲劇を呼ぶのである。 劉邦軍、韓信軍、英布軍、彭越軍とあわせて60万人の大軍で項羽を攻めた。彭城を難なく陥落させ、垓下(がいか)に誘い込み、そこで「四面楚歌」の計略で、楚兵を次々に投降させ、項羽軍の残る兵はわずか数百騎となった。そうなると、さすがの項羽もお手上げだ。虞姫と今生の別れをして、囲いを突破する。垓下から烏江まで何とか逃げ延び、その後、呉の国へ渡ろうとするも、自分の運命を悟り、そこで自害する。最期まで、項羽を討ち取れる者はおらず、自害するところがすさまじい。項羽の屍は、懸賞金のため切り刻まれ、それを持ち帰った者は、劉邦から厚い恩賞をもらえた。ここに、項羽と劉邦の戦いは終わったのである。項羽、実に31歳。 宋代の詩人、陸游は項羽に詩を捧げた。 「身丈八尺の偉大夫 将軍は愛馬騅を駆って千里を征く その力は山をも抜き鼎をも持ち上げ その戦の才は比類ない しかし道が烏 江に到った時、貴方は知ることになる 軍師がいかに力尽くそうとも 変えることのできぬ滅びゆく運命を!」と。 その後は劉邦が漢帝国を築くのだが、戦いが終われば、優秀な将軍は不要だ。韓信、英布、彭越は除外された。特に、あれほど功のあった韓信は謀反があったとして、非業の死を遂げる。斉王になったとき、側近から天下3分の計を言われたが、劉邦の恩には背けず、といってしりぞけた。後悔先に立たずである。韓信は楚王とされた後、淮陰候に降格されるが、それが不服で立ち上がったのだ。今でも中国で人気のある武将韓信は、劉邦によって殺された。楚王となった後、股夫事件で耐えることを学んだチンピラと、貧しいときに食事を恵んでくれた老婆には恩を返した韓信。無念の死であった。 「すばしこい兎が殺されると、いい猟犬は要らなくなって煮殺される。鳥が取り尽くされると立派な弓はしまわれる。敵国が滅ぶと謀臣は殺 される。」ということだ。 劉邦が築いた漢帝国は、その後、400年も続くことになる。漢字、漢語、などは漢の時代に使われ始めたと言われている。今でも、その影 響を与えている劉邦の漢帝国である。劉邦が皇帝になり初めて故郷沛県に立ち寄った際、自ら吟じた漢詩が2200年以上経った今でも語り伝えられている。 「大風起こりて雲飛揚す。威海内に加わり故郷に帰る。安くんぞ猛士をして四方を守らしむるを得ん。」 ページの先頭へ 【コラム:最強の武将、項羽】
項羽と劉邦の物語は沢山あるが、ここは自分なりに解釈して記載したものです。
紀元前200年ごろ、二人の名将が全く違うやり方で天下を争った。それが項羽と劉邦である。項羽は豪傑で剛の人といわれ、劉邦は寛大な心で優秀な部下をうまく使う柔の人と言われる。どっちにしても、戦国時代を生き抜くには必要な力だと思うが、項羽はあまりにも強すぎた。そしてあまりにも若すぎた。 古来中国では負けたものが悪というイメージがあるようだが、項羽はまさに悪のイメージがある。しかし、彼が当時、やったことは当時にしてみれば致し方なかったこともあるのではなかろうか。項羽にはいくつかの罪があり、劉邦はそれらを非として戦いを挑んだ。項羽の罪と言われる主なものをあげると、以下のものである。 @投降した秦兵20万人を虐殺した。それに限らず、投降した武将や兵はことごとく虐殺した。 A秦が築いた咸陽宮、阿房宮という重要な建築物を焼き払い、秦始皇帝陵墓を暴いた。 B秦打倒の旗印として義帝(懐王)を立てたが、自分が天下を取ると暗殺した。 しかし、これらは戦国時代の当事の状況を考えると、十分に理解できることと私は考えている。当事の常識として、投降してきた将軍はかならず斬罪とされていた。秦兵20万人の虐殺も、謀反の疑惑が持ち上がったために、やられる前にやったということだ。当時の状況としては、理解できるものである。 また、Aについても、秦に対する憎しみがあまりにも強くてやったことだろう。秦の暴政は住民を苦しめ、項羽はそのやり方に腹を立て旗揚げしたのだ。確かに世界最大の木造建築物の阿房宮が失われたのは惜しいことであるものの、秦への許し難い感情がそこまでやらせたのだろう。 Bについても、平民に落ちていた懐王(楚王)の孫である「心(しん)」を、再度、楚王として担ぎ上げ、楚王にしたのは諸侯に説明するには当然である。しかし、懐王は彭城にいたままで、強大な秦軍を撃破したのは項羽だ。項羽は命を賭けて秦を倒したのであり、天下が平定されれば、自分が王になろうと思うのは当然である。 では、何故、圧倒的武力を持ちながら、項羽は負けたのだろうか?それは「おごり」であると整理する。項羽は強いからこそおごりがあった。いつでも劉邦に勝てると思っていた。誰よりも強く、自分が一番になるものだと思っていたのだ。よって、人の意見は聞かなかったという。それでは部下はついてこないだろう。実際、亜父(あほ:実の父と同様の待遇)とまで慕った范増ですら項羽のもとから去った。そして、垓下の戦いのときには、項羽の強さに惹かれた数名の武将しか残っていなかった。そのうえ、やり方の残虐さから、民心をつかむことができなかったことが、衰退を早めた原因であろう。これは、曹操軍を散々蹴散らしたものの、そのおごりによって孫権に殺されてしまった、三国時代の関羽にも似ている。 一方、劉邦は楽であった。なぜなら、項羽の逆をやればいいのである。項羽は自ら敵軍のなかに突進し、強すぎて誰もそれを止めることができない。あっちで謀反があればあっちへ行き、こっちで反乱が起きればこっちへ行く、というやり方だ。そして、捕虜にした後は、ほとんどの者を殺していった。しかし、劉邦は、蕭何、張良、韓信の三傑を始めとする名武将で脇を固めたため、自分が先頭にたたなくてもよく、また、占領していった地の住民を見方に付けることをやっていった。そのやり方が、その後400年も続く漢王朝を築ける源になったのだろう。 最後に、項羽と劉邦の年齢差について記載する。有名な「鴻門の会」は紀元前206年のできごとであるが、そのとき劉邦50歳、項羽26歳である。そこでは、自分の子供ぐらい年齢差がある項羽に対して、劉邦はよく耐えた。項羽に対して「臣」とへりくだり、下座に座らされても耐えに耐えた。そこでの我慢の結果、漢王朝の創始者となれたのだ。項羽は義を重んじるところがあり、ここで劉邦を殺めるのは男として不義と感じ、また、おごりもあったのだろう。いつでも劉邦は倒せる、と。何度も暗殺をほのめかした范増だが、事がならず劉邦に逃げられた。鴻門の会の後、范増は「青二才とは天下の大計は論じられぬ」と天を仰いだ。その時、范増は70歳を超えている。項羽が亜父とまで慕い、項羽に軍師として仕えた范増までもが、項羽をそう評価するのであるから、自ずと勝敗は見えている。やはり項羽は「若気の至り」の部分が垣間見え、そして、劉邦に敗れ去った。結局、劉邦に敗れて烏江で自らの命を絶つのであるが、そのときまだ31歳。天下の覇者としては、若すぎる、そして惜しい。ただ、20歳代後半であのような活躍をし、波乱万丈の生涯を送り、勇猛果敢な生き様は、私の心を魅了するに十分であった。 |