以下の記録は松倉さんからの情報提供です。松倉さん、ありがとうございます!
【到達者】
松倉さん
【関連武将】
劉備の先祖
【到達年月】
2004年6月17日
【場所】
河北省満城県(保定市の西北約20Kmのところ)
【中山靖王劉勝の墓の説明】
松倉さんも書かれていますが、私からもこの場所の紹介をしときます。
劉備が何か事を起こすにも、田舎産まれの貧乏人では誰にも相手にされない。そこで、最初のころの決まり文句が「我は前漢景帝の
子、中山靖王劉勝の末裔である!」であった。それで漢朝復興を大義に掲げて、仲間を集め旗揚げすることが出来た。中山靖王劉 勝は、景帝の8番目の子であり、中山郡(現在の満城県)の王に封ぜられて一生を贅沢三昧で暮らした。劉勝には120人の子がいた が、直系は前漢末の王莽の乱のときに絶えている。劉備が本当に末裔なのかどうかは、専門家によると家系も世代数もわからないのでは 判断しようがない、とのことだ。しかし、子供が120人いたから、劉備のころには子孫と言われる人が何万人もいたし、同じ劉性だし、それを うまく劉備は利用したのかもしれない。
ちなみにこの満城漢墓は、1968年5月、人民解放軍が高射砲陣地を構築していた最中に発見された。この頃の中国はソ連と緊張関
係にあり、毛沢東が国防のために地下壕や陣地づくりを盛んに呼びかけていた頃である。ここ漢墓は山の頂上付近を深くくりぬいて作られ ており、2000年来はじめて陽の光が入った。中ではかなりの副葬品が発見されており、松倉さん提供の写真にもあるように 「金縷玉衣 (きんるぎょくい)」なども発見された。このとき中山靖王劉勝の墓ということが、墓誌からわかったようだ。
以下の写真及びコメントは松倉さん提供
【アクセス】
(左)保定火車駅を出ると右側にこの保定汽車総駅がどどぉーんと建っている。このバスターミナルからは全国へのバスが出ており、私は
保定周辺を散策したあとこの汽車駅から天津へ向かいました。今は高速道路が縦横無尽に走っていますので300qくらいまでの移動は 楽になりましたね。
さて、満城漢墓(中山靖王劉勝とその妻の墓)へはここから直線で19.8q。近郊バスの射程範囲だ。どの方法で移動しようか考えてい
ると、建華大街(保定駅前の通り)を「郊区10路」というバスが通りかかった。満城と書かれたプラカードが掲げられていたので飛び乗った。 後先考えないタイプだ。
(中)その郊区10路バスです。初めのうちは混んでいたが徐々に空いてきて結構快適だった。
(右)所要時間40分ほどでこの満城汽車駅に到着。飛び乗ったのは結果としては良かったことになる。が、ここから目指す漢墓まで3q
ほどある。歩いてもよい距離なのだが、火車(列車)で保定に降り立ちそのまま来てしまったので荷物が結構重い。どこでも待っていてくれる 三輪車(バイクのほう)に乗せていってもらうことにした。
<保定から満城までのバス代:3元、満城から満城漢墓まで:3元>
【写真解説】
(左)満城漢墓の碑。
(中)満城漢墓の手前500メートルほどの場所で降り、辺りを見ながら向かおうとしたら、ひとつの施設が目に入った。無論、入場を試み
る。満城漢墓旅游区(漢墓景区)内ではその名にあやかり(客引きのため)幾つもの施設にて“陵山漢墓”という名を附属名としている。 ここ「龍華宮」もそのひとつ。内部には「候君亭」や「招賢宮」といった景点があるが、ハッキリ言って“10元返せ!”的な施設だ。
(右)その「龍華宮」内にはこの施設もある。写真を見てピンッとこられた方も居られるだろう。そう、「八卦陣」だ。中国国内“八卦陣”と称
する施設は80ほどあるという。その半分ほどで孔明の名を語り三国志と無理やり結びつけようとしている。ようは巨大迷路のことだ。中国の この手の迷路は、大人の胸あたりまでの柵で仕切られたものが多いのだが、ここは柵というより壁で仕切られている。ズルは出来ない。 ちなみに浙江省杭州から車で三時間ほどの諸葛鎮も八卦陣に基づいて村が出来上がっている。
(左)ようやく満城漢墓の入口である。
奥に見える山(陵山)が全て景区だ。満城漢墓の正式名称は「満城陵山漢墓博物館」である。先ほどの後からとってつけたような施設
を無視すると、陵山は一号墓と二号墓、それに附葬墓からなる。一号墓は中山靖王劉勝の墓、二号墓は劉勝の妻竇綰の墓。1968 年からの発掘にて1万件以上もの文物が掘り出されている。その殆どは河北省博物館にて保存、展示がされている。
(中) その広場(駐車場)から陵山をみた写真。頂上に見える建物の右に墓がある。さて、どうやって登ろうか…
(右)敷地内に入ると出迎えてくれるのがこれら「満城石刻」。各種珍獣のほか、石人もみられる。中山国時代のものは少なく、後世の
ものが殆どである。目の前は駐車場になっていてその一角に売店がポツリとある。内部では満城県地図や満城漢墓簡介冊子も売ってい るので入手されるとよいだろう。道中ほかにも売店はあるが、汚い商品しかない。
(左)考えた末、索道(リフト)で向かうことにした。結構怠け者だ。中国でのリフトは承徳(北京を挟んで向こう側の河北省)の磬錘峰以
来だ。ワクワクする。日本のスキー場の二人乗りリフトと同等だが、座る板が抜けているのはご愛嬌。眼下には8年前まで使用していたとい う古いリフトも見える。所要時間は12分。半分ほど来たところで「ゴォー」という音がどこからか聞こえてきた。前方を見るとなにやら乗り物 がものすごいスピードで降っている。なんだありゃ?
(中) その正体はこれ「ボブスレー」だ。全長800bとのこと。「早ければ70秒だよ」(スピードにのるまでに時間がかかるとのこと)と管理のおっ
ちゃんが話していた。続けて「乗らないか?10元!」 興味はあったものの、今しがた大金を叩いて登ってきたところなので諦めることにした。 ちなみにリフトは25元もした。(まけてくれなかった) ボブスレーは「滑道」というそうだ。そのままやんけ。
(右) リフトの終点は墓の南方面にあたる。ボブスレー基地を見ながら200bほど歩くと目指す墓があるのだが、その前に一箇所「千年之
謎古由此掲開」と書かれた石碑が目に入る。ここの穴のことを言っている。1968年に解放軍河北部隊がこの地で演習中(国防施設を 建設していたという)にこの穴の奥で何やら埋蔵物を発見したという。その先は空洞になっていた。そう、一号墓(靖王墓)の南耳室に繋が っていたということだ。その年には多くの文物が発見され考古発見の首を飾った。
(左)右写真は先ほどの南耳室の反対側(北側)にある部屋「北耳室」だ。
(中・右) やっとのことで(苦労はしていないが)靖王墓に到着。ここの入場料は20元、お隣の竇綰墓は10元で合わせて30元なのだが、
門票マニアな私は記念票を購入。両方で32元であった。
中山靖王劉勝について少し。
発見された数々の埋葬品の刻名により漢武帝の異母兄であることが解っている。すなわち前漢(西漢)の景帝「劉啓」の子ということ。西
漢中山王系には歴代10人の王名が載っているが、その一代目の人物である。在位は42年(前元3年〜元鼎4年:前154年−前113 年)で亡くなるまで王であったということがわかる。ちなみに最後の中山王は「成都」(在位元始元年〜初始元年:1年-8年)さて、劉備が この“靖王勝”の末裔かどうかは置いといて、この人には120人もの子がいたという。その子たちがまた多くの子を産み…劉勝の死後273年 後に生まれた劉備の頃には少なく見積もっても数万人の子孫がいることになる。
<管理人注:これこれ!私が見たいのはここです。>
(左) 「劉勝金縷玉衣」全長は188p。お隣「竇綰墓」内での撮影は拒まれたが、こちらでは何も言われなかった。墓中室内部はヒン
ヤリとしていて静まり返っている。6月中旬といえば既に暑い河北省。とてもよい休憩場所になった。
(中) お隣の墓、劉勝の妻「竇綰墓」。内部の造りは靖王墓と同等であったが、若干狭く感じた。青銅のやや大型の壷などが展示され
ていたが暗くて見えにくい。河北省博物館で数日前に見てきたのでほぼ素通り状態の見学であった。
(右)墓の前は満城市街方面を見渡せる。とても眺めがよい。こういった場所に立つと、双眼鏡を持ってきてよかったと感じる。私の愛用双
眼鏡は8×25倍ニコン製で500グラム。少々重いのが難点なので100グラム台のものに買い換えようと考えている。
この写真では見づらいが、麓の競馬場コースのような施設では馬に乗ることができる。さて、どう降ろうか…
(左)歩くことにした。永遠と階段が続く。頂上付近の北側の一箇所だけトイレがある。
(中)半分ほど降ってきたところで奇妙な乗り物を発見。「飛降」という。腰にベルト(背中側に紐が付く。その紐が滑車につながっている)を
巻き、宙吊り状態で麓まで降るというもの。乗ってみようか、その前に安全か?と思い、発射台に行ってみると人影がない。数分待ったが誰 も来なく仕方なく(内心ホッとしながら)また歩いて降ることにした。 ちなみに右側の写真が「飛降」。
<管理人注:いかにもあやしい・・・。乗らなくてよかったね、松倉さん。乗ってたら大ケガしてたでしょうね。>
(左・中) そのほかにも景区内には幾つか施設があるので紹介しておく。説明は無し(よくわからないので!) 左の写真が「蓮薈宮」、真
ん中が 「漢王宮」 。
(右)ちなみに帰りは満城県中心部までコイツに乗せてもらいました。
<管理人注:このトラックのどこに乗ったの?松倉さんの勇気に乾杯!>
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