河北といえば春秋・戦国時代は燕があり、三国時代は幽州といわれていた。幽州といえば公孫さんや袁紹のイメージが強いが、劉備の出身地ということを忘
れてはならない。しかも張飛も同郷で「桃園の誓い」があった場所でもある。また、「我こそは常山の趙雲」の常山は今の正定だし(つまり趙雲故里)、南のほ うには曹操の居城であるギョウ城もあるから見どころは沢山ある。その気になれば日本をたったその日に、北京経由で目的地まで十分いける。特にたく州など は北京から1時間という手軽さがいい。
【河北省地図】
たく州は北京から南へ約60Kmの位置にあり、保定市でも北の端なので北京からも行きやすい。そこそこの規模の街であり、ホテルも沢山ある。お勧めは桃
園飯店であるが、行ったときは改修中で泊まれなかった。北京からは火車で1時間弱ほどで着く(北京西駅が多いようだ)。バスもひっきりなしにあると思われ る。なお、私はマイ自転車を持っていったので、北京首都空港からたく州市までタクシーで直行し、約1時間30分。自転車でたく州市内を走り回ったこともあ り、だいたいの地理はわかった。
【たく州市地図】
たく州市は比較的わかりやすい街であった。ちなみに、陽光酒店からたく州駅までは約7〜8Kmはある。たく州駅から劉備故里は10Kmはあると思われる。た
く州駅から影視城までは約20Km。
また、たく州の三国遺跡(劉備故里、張桓侯廟、楼桑廟村・三義宮)の位置関係は以下のとおりである。
2004年5月訪問
たく州市大樹楼桑村。たく州市からさらに自転車で南下すること約1時間30分。しかし、場所がどーしてもわからない。「楼桑廟村」の「三義宮」までは簡単
に行けるが、そこからは南東へ約4Kmのところにある、という情報はあった。しかし、それ以上に遠く感じた。自転車だったし、かなり悪路が多かったためかもしれ ない。聞き込みしていけば何とかいけるとは思うが、カメラが壊れていたことと、気力・体力が限界だったこともあり、自転車での捜索はいったん断念し、その日 はあえなく退却。次の日にタクシーで行った。タクシーの運ちゃんでも地元の人に3回も聞いていたから、なかなか行きにくいと思われる。たく州駅前でタクシー を拾い、そこから約40分で到着。現地で調達したたく州の地図があり、劉備故里の場所まで書いてあるが、実際の地図の感覚と、行ってみての感覚がまっ たく違っていた。たく州駅前から大樹楼桑村までバスがでているという情報もあり。
2日がかりで行っただけあって、それは感動でした。行けば石碑のようなものがぽつんとあるだけであるが、ここが大樹楼桑村なんだ、劉備玄徳が生まれた場
所なんだと思うと、感動もひとしお。劉備ファンとしては、大樹楼桑村は行くべきだ。昔、このあたりには大きな桑の木があり、遠くからも見えていたらしい。清朝 末期までその切り株が残っていたらしいが、今はもうない。もちろん、劉備の故宅もその近くにあった桑の木ももうなく、その上には家が建ち、道端に三角形の 空き地が残っているだけだそうな。その場所まではわからなかった。この場所はもう一度、行ってみたいと思う。
(左)劉備故里の石碑。これが畑の真ん中にぽつんと立っている! (中)小学校横から撮影。石碑は畑の真ん中にあるというのがよくわかる。
(右)近所のこども。やけにひとなつこくって、愛嬌があった。自転車がぼろぼろだったのが印象的である。後ろに写っているのが大樹楼桑村の小学校。この学
校の右手に石碑が立っている。
2004年5月訪問
たく州市楼桑廟村。たく州市街地からさらに自転車で南下すること約1時間。距離は約8〜9Kmといったところか。北京から保定市に向かう国道107号線を
ひたすら南下する。途中、鉄道の高架を上るところが心臓破りであった。そこからしばらく行けば、三義宮と張飛廟の道路標識が右側にたっている。その道路 標識には後2Kmと書いてある。もう少し、と思って自転車をこいだが、坂道になっていることもあり、なかなかハードである。そう思って辛抱しつつ自転車をこい でいくと、たく州市の新シンボルとも言うべき、「劉備・関羽・張飛像」が迎えてくれる(107号沿い)。そこは公園になっているので一休みする。そして、公園 を左折すれば楼桑廟村の入り口があり、小学校やら民家やらを越えれば、その奥に忽然と現れる。
どうもうさんくさい。最近できたばっかりで、いかにも、といった感じがぬぐえない。三義宮の入り口には、ジュース売り場なんかもあって、どうも観光地化されつつ
ある。当日は体調が悪かったのも相俟って、好きになれなかった。三義廟村の雰囲気は非常によく、田舎の村に来たんだな〜、と思いきや、いきなり「出来 立てほやほや」の三義宮がどーんと出てくる。ちょっと、作り物ぽくって嫌だな。これなら、文革時に壊されたままの山門のほうがよかったかも。
ちなみに楼桑廟村は、廟ができて村ができた、という面白いところだ。昔、劉備故里の「大樹楼桑村(ここから南東に約4Kmぐらい)」に廟を作ろうとして資材
を運んでいたが、この「楼桑廟村」で荷車が動かなくなってしまった。これも劉備の思し召しということで、この地に楼桑廟を作った。それが唐の時代の900年ぐ らいの話。その廟は1970年までは残っていたそうで、かなり大きく豪華なものであったようだ。残念ながらそれらは文革で壊され、残っていたのが↑の写真の山 門だけだった。それを近年になって、再建したという珍しい廟である。三義廟の入場料は20元。たく州市三義宮旅游開発会社ができている。
中には、威風堂々とした劉備玄徳像を中心に、張飛、関羽像が左右に配置されている。また、劉備に向かって左が武官、右が文官が並ぶ。趙雲と黄忠、
諸葛亮、ほう統、馬超、馬岱、魏延などが勢ぞろいしている。また、三義宮の奥にはさらに廟があり、劉禅、張包、関興の新三結義を意識した像があったの が印象的であった。
どうも楼桑廟村の三義廟といい、西皋村の張飛廟といい、このあたり一帯を三国志にちなんで再開発しようという意図があるようだ。そのあらわれのひとつとし
て、107号沿いの「劉・関・張像」も作られたのだろう。たく州市あげて三国志開発、いいことではないか。三義廟も張飛廟ももっと年代もんになってくれば、い い味を出すと思われる。
(左)これが国道107号線沿いの劉備・関羽・張飛像だ!たく州の新シンボルに違いない。この広場は「三義広場」というらしいが、地元のカップルがいちゃ
いちゃしていたのが妙に気になった。
(中)三義宮の入り口。真新しさを非常に感じる建物だ。 (右)最近作ったばっかりの石碑。年月がたつといい雰囲気を出すと思われる。
2004年5月訪問
たく州市西皋村。たく州市街地からさらに自転車で南下すること約1時間。距離は約6〜7Kmといったところか。北京から保定市に向かう国道107号線をひ
たすら南下し、しばらく行くと三義宮と張飛廟の道路標識が右側にたっている。張飛故里旅游開発会社というのができたようで、国道沿いにでかでかと看板 が立っている。張飛廟はそこから右へ折れて、線路をくぐってしばらく行くと「西皋村」と書かれた建物がある。そこをさらに進んでいくと右側にある。張飛が生ま れたのは忠義店という村であるが、張飛廟があるのは西皋村なのでややこしい。入場料は張飛井戸とあわせて20元。
最近拡張しているのか、出来たばっかりみたいで、がっかり感があるのは否めない。しかし、張飛像は一見の価値あり。かなり貫禄のある張飛像となっている。
なお、忠義店という村の名前は、もとは「桃荘」といったらしく、三国時代以降は長い間「張飛店」と呼ばれていた。しかし、清代に直接名前を呼ぶのは失礼 だということになり、「忠義店」という名前になったらしい。以前は村のはずれに張飛廟があり、正殿の中央に威風堂々とした張飛像があったらしい。ここもご多 分に漏れず文革時代にぶっ壊されたのだ。それで、最近になって張飛廟を再建したのである。
(左)これが張飛像だ!かなり迫力がある。肌が黒というのが意外性があり、その分、白い目がかなり引き立っている。像自体もかなり大きいので、近くに行く
と圧倒される。実はこの像は撮影したら駄目だといわれたのであるが、なんとか撮影に成功。
(右)張桓侯廟の奥にある張飛墓。ひっそりとしてなかなかいい雰囲気である。本当の墓は、四川省にあると言われているが、わざわざ土まで持った手の込み
ようだ。中国では生まれ故郷に必ず墓を作るようだ。
2004年5月訪問
たく州市西皋村。張飛廟の向かい側にある。張飛が肉を隠していた(と言われている)井戸がある。井戸自体は移転されていると思われ、また、この井戸を
張飛が本当に使っていたのかどうかは定かではない。しかし、それを信じて1800年前からある石(井戸)と思えば感動する。
なお、この井戸には次のような言い伝えがある。張飛はかつて豚肉を商っており、売れ残った肉はこの井戸につるし、200キロを超える石で蓋をしていた。ある
日通りかかった関羽がその石を軽く持ち上げ、肉を持っていってしまった。それに激怒した張飛は関羽と大喧嘩となった。そこを通りかかった劉備が仲裁に入っ たというものだ。
井戸の横には清代の1700年に張飛の慰霊祭をしたときの碑もある。当時のたく州の長官が桃園の義をたたえて、張飛の井戸に感心して資金を捻出して遺
跡を修復したらしい。また、その横には張飛の飼い葉桶といわれているものの置かれていた。なお、張飛井戸の敷地内は、整備中であり、井戸のほかに、申 し訳なさ程度に「桃園の誓い」像があった。3人の表情はかなり面白いものであったが、最近ペンキを塗ったものと思われ、これも作り物っぽい感じは否めな い。入場料は張飛廟とあわせて20元。こっそりと井戸のほうに忍び込もうと思ったら、女性係員が飛んできた!
これが張飛井戸だ!この井戸を張飛が使っていたと言われている。
ここには、張飛井戸のほかに、以下の「桃園三結義像」もある。つくりがかなり粗いのであるが、なんとなくこの像は気に入った!左から劉備、張飛、関羽。
2004年5月訪問
鼓楼大街は、たく州市中心部のにぎやかなところなのですぐにわかる。市政府から範陽東路を少し西に行ったところの北側にある。
たく州市は劉備、関羽、張飛にゆかりのある街ということを実感する。鼓楼大街はその雰囲気もかなりよかったが、その通りを北上し、中間ぐらいまで行けば、
右手に公益街がある。そこに入って少し行けば三義廟胡同というひっそりとした横町がある。昔はその奥に廟があって、劉備・関羽・張飛を祀っていたらしい。 この像は珍しく、関羽と張飛が殴り合い、それを劉備が仲裁している像だったらしい。これも文革で壊された。非常に残念である。
ここには昔から穀物市場があった。この穀物市場で次の言い伝えがある。
張飛井戸に隠していた肉をとった関羽は、悠々とこの穀物市場に来て緑豆を売っている。そこへ後から駆けつけた張飛がきて、緑豆をこなごなにつぶし挑発す
る。そこで2人の喧嘩が始まり、そこに通りかかった劉備が仲裁を行った。劉備は「男たる者は国のために力を使うべきなのに、どうしてこんなに小事にこだわる のか!」と名ゼリフをはいた。それに2人は感じ入り、桃園の誓いにつながっていくのである。その舞台となったのが、ここ鼓楼大街である。
(左)範陽東路から北にあがると、この門が迎えてくれる。出店やらタクシーやらでごったがえしていた。
(右)通りの中はこんな感じ。昼前であったためか、活気に満ちていた。関羽と張飛がここで出会って喧嘩して、劉備とも出会ったのか〜、と思うと、この通りの
長い歴史を感じる。
2004年5月訪問
たく州市街地 市政府裏あたり。市政府から範陽東路を少し東に行ったところを北上すればある。桃園飯店に行くのに正直迷ってしまった。たく州市内地図
に書いている場所と少し違っていたためだ。結局、わからなかったので、輪タク使った。
三国志を強調している飯店である、すべてが感動する。桃園飯店はそれ自体が豪華な作りとなっており、ここに泊まりたかった〜!と感じさせるホテルである。
今回は泊まるべく予約を入れようとしたが、改装中とのことで泊まることができなかった。入り口の門を入るとすぐに劉備像が迎えてくれる。その少し奥に「桃園 の誓い」像がある。また嬉しいことに、玄徳路とか翼徳路という通り名まであり、さらに宿泊部屋が、玄徳苑や翼徳軒などとしゃれた名前をつけている。
この桃園飯店は特に三国志遺跡ではないものの、あまりに感動したので特別に掲載した。
(左)これが桃園飯店内の「桃園の誓い」像だ! (中)玄徳苑の入り口を入るとこんな感じ。 (右)玄徳苑の部屋。綺麗である。
2004年5月訪問
たく州火車駅は市のほぼ中心部にある。市を東西に走る範陽東路から桃園路に向かって南へ折れるとすぐに左手に見える。
さすが、桃園結義の街である。たく州火車(電車)駅の切符売り場の天井には、劉備・関羽・張飛などの絵が書いてある。天井なので見るのには少し首が
痛くなるが、赤兎馬に乗った関羽や、曹操軍と戦う張飛など、いい味を出していた。また、絵の下の白い部分には、三国志にちなんだ故事が書かれており、 これを見ていても面白い。三国志関連遺跡ではないものの、ここに掲載した。
2004年5月訪問
たく州市北東部。私の場合、体調不良と自転車を持ち運ぶ必要があったため、たく州市街からタクシーで移動。宿泊先の陽光飯店のすぐ前から京石高速
に乗り、北京方面に向かって1区間で影視城インターチェンジ(IC)に到着。影視城はICから東側にあるが、そこから影視城までがかなり長い。一本道だが約 7〜8Kmある。陽光飯店からは約20分もあれば到着する。たく州市街地(例えば、火車(電車)駅)からなら、30分強といったところか。たく州から影視城ま での高速代は5元。
本当ならたく州市街から自転車で行くつもりであった。たく州市街から影視城までは約20Kmある。京石高速沿いに走っていき、影視城ICが見えれば右折し
て、そこから約7〜8Km一本道を行けば到着するはずであった。なお、たく州火車(電車)駅からバスもでているらしい。最近は北京からタクシーをチャーターし て来る方も多いらしい。私が出発前に調べた限りでは、CITSで300元の車代と日本語ガイド300元、合計600元(約7800円)でここに来ている人がいた。
ここは三国志遺跡ではないが、中央電視台が誇る歴史映画の撮影基地。中国にはいくつかこのような基地があるようだ。いわば京都太秦映画村といったと
ころか。ドラマ「三国演義」の撮影にも使用され、魏・呉・蜀の街並みやいろんな城や城壁がある。一番のお目当て、というかそこしか興味がなかったんだが、 曹操の居城を復元した銅雀台は荘厳であった。
とにかく広いが、なんとか歩ける広さである。入り口を入ると、いきなり近所に住むバイトねーちゃんがやってきて、「車で案内しますよ〜」攻撃にあう。そして、ふ
っかけてくる。最初なんと100元といわれた。あほか、そんな金払えるか、「高いんじゃい!」と言って歩き始めた。しかし、おねーちゃん引き下がらない。結局、 60元ということで手を打ったが、それでも高い。入場料が50元もするので、合計で110元(約1430円)が消えてしまった・・・。そのねーちゃんは中国語と、ほん のわずかな英語が喋れるだけなので、中国語が出来ない私にとっては何のガイドにもならなかった。意味わからず「ふんふん」と言っているだけで時間が経過。 確かに中はかなり広いので、体調が悪かった私にとっては、車で移動できることには助かった。
ここは体調が悪いせいもあり、来るかどうか非常に迷った。行けばそれなりの満足感があるものの、入場料が高いことと、いらないねーちゃんガイドが着いてきた
ことから、感想としてはいまひとつといったところか。しかし、こんなに高い入場料なのに、中国人の観光客がかなりいたのには驚き。観光地の入場料はどこも軒 並み値上げしつつあるが、どこも中国人でいっぱい。中国の人たちもお金持ちになってるんだろうね。
(左)これが銅雀台だ!撮影した後ろには池があるんだが、その池を入れて写真を撮ればよかった、と後悔。
(右)銅雀台からの眺め。お城セットが見える。ここは地上5階ぐらいになるので、眺めはかなりいい。気持ちよい風も吹いていて、しばし休憩した。
●ギョウ城三台遺跡
こちらを参照。
●中山靖王劉勝の墓(満城漢墓)
こちらを参照。
●趙雲故里
石家庄市正定県のにある。河北省南部の中心都市である石家庄市から北に約20Km。「われこそは常山(正定のこと)の趙子龍」というのは趙雲の常套
文句。その常山がここである。趙雲はファンが多いと思うので、このあたり一帯を観光開発してほしいものだ。
●趙雲像
石家庄市正定県。火車駅の近くに建っている。写真で見る限りあまりかっこよくないが・・・。
邯鄲市臨{シ章}県。ぎょう城三台遺跡の東南約10kmのところにある。曹操が馬を止めたといわれる柏。現在は、巨木になっている。
●曹奐墓
邯鄲市臨{シ章}県。ぎょう城三台遺跡から約8kmのところにある。魏の廃帝、曹奐の墓。彼の代で魏が司馬氏に乗っ取られた。
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