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三国志、それは遥か1800年前に広大な中国大陸で繰り広げられていたドラマである。日本では卑弥呼が女王として君臨していた時代のことだ。そんな時代に、広大な中国大陸を縦横無尽に駆け回っていた人たちがいた。今からでは考えられないほど、移動するのも大変だった時代である。そんな時代に歴史を名を残している人々はほんとにすごいと思う。そして、そのゆかりの土地に行くことによって、当時を偲ぶ。先人達の夢や思いを想像しながら、それらの地に少しでも多く自ら足を踏み入れたいものだ。
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孔明と司馬懿の対戦
全80シリーズからなる「三國志群士連盟~司馬懿~」を見て、三國志の主役は司馬懿だったのだと確信を持ったところである。曹操から4大の帝に遣え魏を支えた人物だ。子供の司馬師、司馬昭もなかなかの人物で、司馬昭の子供の司馬炎が晋を建国した。考えてみれば、曹操がすごすぎて、曹丕まではまだ良かったが、曹叡も最初は良かったが、それ以降が曹家はひどすぎた。曹真、曹休、曹洪あたりは、曹家を重視しすぎて、司馬懿を敵視しているものの、力的には司馬懿にはかなり劣る。国を続かせるということは本当に大変なのだろう。そういう意味では、劉邦の漢が400年も続いたということは、すごいことなのだろう。

ここで、孔明と司馬懿が戦った場所について整理する。

第1次北伐
228年春:諸葛亮の指示に背いた馬謖が張に街亭で撃破され撤退。馬謖は斬られた。

第2次北伐
228年冬:攻めあぐねているうちに食料不足により撤退。しかし、撤退時に王双を打ち取った(陳倉の戦い)。司馬懿列伝では、曹真がこの戦いで病になり死亡。

第3次北伐
229年春:陳式が武都・陰平を攻め、諸葛亮が魏の郭淮を防ぎ、武都・陰平の両軍を平定(陳倉の戦い)。

第4次北伐
231年春:祁山を包囲し、援軍に来た張郃・司馬懿を撃退するが、夏6月に兵糧不足による撤退。撤退時に張郃を討ち取った(祁山の戦い)。
    三國志演技では、第1次北伐から司馬懿がずっと撃退することになっているが、曹真も孔明に勝っているが、引き立て役になってしまった曹真はその後、231年5月に死去。

第5次北伐
234年春:屯田を行って長期戦に持ち込むが、同年秋8月に諸葛亮は陣中で病没し撤退(五丈原の戦い)

その後、北伐反対派の費禕を経て、積極派の姜維が軍権を握り、北伐(238年から262年)が行われることになった。









司馬懿のクーデター
曹操(武帝)、曹丕(文帝)、曹(明帝)、そして曹芳(斉王)のとき、曹爽が大将軍となり専横をはじめ、司馬懿は太傅となる。
曹真の息子である、曹爽は次第に司馬懿と対立し、司馬懿は病気を理由に引きこもる。そして、249年にクーデータを起こす。
その際、何晏(かあん)、丁ひつ(ていひつ)、とうよう、ひつき、李勝(りしょう)、桓範(かんはん)らをすべて大逆不道で死刑に処した。
クーデターの2年後、251年、司馬懿は死去した。
その後、司馬師が継ぎ、254年夏候玄が李豊、張しゅうらが誅された。9月に皇帝が廃され、高貴郷公の曹髦(そうぼう)となったが、司馬氏に対抗しようとしたが、誅された。
265年、魏の最後の皇帝、陳留王曹
は司馬炎に20歳で禅譲し、魏は5代45年で滅亡し、晋にかわった。


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