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ギョウ城三台遺跡

207年に曹操は袁氏を滅ぼし、このぎょう城を本拠とした。当時、このあたりは冀州魏郡と言われていたため、曹操は魏王に封じられた。
中国の王朝の国号は、原則として本拠地の地名をつけたため、曹操の息子曹丕が皇帝に即位したとき、国号を「魏」とした。

以下の記録は松倉さんからの情報提供です。松倉さん、ありがとうございます!
【到達者】
松倉さん

【関連武将】
曹操孟徳。三国志の主役である。


【到達年月】
2004年6月14日16:30

【場所】
河北省臨ショウ県ギョウ鎮三台村及びギョウ鎮村(ショウ河北岸と南岸)

【アクセス】
邯鄲市から国道107沿いに南へ35qに磁県があります。
磁県駅前の道は「友誼大街」という通り名ですが、国道107号です。すぐ西側は「京広鉄路」です。駅の向かいに駅(東側がバスターミナ
ル、西側が鉄道駅です)があり、そこから臨ショウ県行きのバスに乗り、東へ6.5q行った「塚上」で下車し安陽方面に10.5q南下しま
す。するとギョウ鎮村に入りますので、西へショウ河沿いに1.7q行くと三台遺跡に到着です。場所的には磁県との県境にほど近い場所で
す。

黄金ルートの国道107号はひっきりなしにバスが走っておりますが、塚上から三台遺跡まではバスが走っておりません。そこで足を捜すのは
一苦労(まず無理)ですので、磁県内で車を確保しておきましょう。磁県は小さな県で、中心部での公共バスは走っておりません。メーター
タクシーもありません。面的または三輪車との交渉となりますが、磁県火車駅および磁県汽車駅前には1,2台停まっているかいないかとい
う車の少なさです。(私は時間の節約を兼ね、そこから車を選びました)

他の遺跡「北朝墓群数十基」「雀府君廟」「城隍廟」「鼓楼」「蘭陵王墓」「天子塚」「文化宮」他・・・なども廻りましたので8時間100
元でのチャーターとなりました。その日の夜再び国道107号をバスで南下して21:00頃安陽に着きました。ちなみに磁県から三台遺跡まで
の往復のみの交渉ですと、20元から30元が相場のようです。見学時間に左右されると言っていました。


【感想】
三台とは「金鳳台」「銅雀台」「冰井台」の総称です。主台は銅雀台で、建安15年(210年)に築かれたものです。金鳳台は曹操居城
時は金虎台と呼ばれていたそうです。周囲は見所多数です!!「ギョウ南城宮殿区」「ギョウ北城宮殿区」「地下城門遺跡」など門遺
跡だけで20数基あります(これらは曹操とはほとんど関係ありませんが)。

銅雀台の地下に地下道がありました。首ナシ石像などが放置されていて不気味です。長さは30メートルほどでしょうか?真っ暗ですので
女性ではお化け屋敷よりも怖いと思います。こういう時にマグライトを持っていてよかったと実感します。「曹操墓はどこですか?」と、質問を
遺跡の管理者にしてみました。答えは「沢山あるよ」とのことでした。また、「袁紹墓」は?と聞くと「遥か向うにあるよ」と、天津方面を指差
しておりましたので、以前お話していた通りの場所にあるのでしょう。また、三台遺跡の西隣に博物館があります。ここで知識を深めれられ
ますよ。


【写真解説】
写真及びコメントは松倉さん提供
  
(左)【磁県駅】<火車駅>
北京西駅から473qの京広鉄路沿いの駅である。1日の発着本数も数本しかないので利用するのは困難な駅と言える。しかしひっきりな
しに貨物が走っているので見学は楽しい。
(右)【磁県汽車駅】<バスターミナル>
目の前の道路は国道107号(北京〜深センまでの2509q)。この街は鉄道を利用するよりもバスで乗入れるほうが便利。建物内にはな
ぜか白バイが10数台あった。

 
(左)【塚上村〜ギョウ鎮村までの道】
永遠とこんな感じの道が続く。写真方向は北(塚上村方向)。数十分の間にすれ違った車は2台。
(右)【ギョウ鎮村内を西へ】
左側(南側)が「ショウ河」。この道は堤防のような感じである。すでにギョウ南北城宮殿遺跡に突入している。左右の林の中には遺跡が
ごろごろ。

 
(左)【ギョウ城三台遺跡】
曹操が建安9年(204年)に袁紹を破り、営建した城。この地は、曹操の魏のほか、后趙、冉魏、前燕、東魏、北斉が都を定めたことか
ら六朝古都としても有名。正面の楼閣の題額には「三臺勝境」と書かれている。
(右)【蔵兵洞内の首ナシ石人】
この地下道内には石人や石馬などゴロゴロしているが、ちゃんと設置されているのは数体のみで、他はこのように転がっている。真っ暗なの
で懐中電灯が必要。

 
(左)【三台壁遺跡】
三台遺跡の東側からみた銅雀台。ぐるりと東・北・西がこんな感じになっている。実は三台のうち、冰台はすでに痕跡すらなくなっている。
銅雀台の北側にあったとされる。
(右)【金鳳台】
清順治8年(1651年)に文昌閣楼が建てられた。門額には「金鳳台」と書かれている。この奥に曹操像などが鎮座している。(訪れたとき
にみてくださいね!)

 
(左)【三台博物館方面(西方面)】
三台遺跡の西側に三台博物館・建安文学館・六朝帝王館がある。設備はたいしたことはないが、ここでしか見られないものも数多いの
で行かれるべし。
(右)【三国形勢図】
時代ごとにこのギョウ城をとりまく形勢図が描かれている。

 
(左)【銅雀文物】
銅雀台からの出土品などが複数展示されている。なかでも世界的(中国と韓国と日本くらいだが)に有名なのが銅雀瓦(紋様)である。
書道を嗜む方はご存知かと。
(右)【臨ショウ県文物管理所】
ここら一帯の遺跡を管理している事務所。見たい文物を紙に書いて渡すと場所を詳しく教えてくれる。三国志にも精通した研究員がいる
とのこと(この日は不在)。

 
(左)【磁県・臨ショウ県境】
中国で県境碑は珍しい。三台遺跡から西へ2qほどきたところ。もっと西へ行くと例の国道107号。このあたりも遺跡景区。
(右)【曹奐墓・・・墓碑】
曹奐は魏の最後の皇帝元帝である。イワク付きです。写真に写っている曹奐墓のもっともらしい墓碑は、同じく写真に写っている文物保
管所の庭の片隅で発見したものです。「思わずパシャ!!」という次第です。そこの文物保管所の人間に曹奐墓はどこにある? なぜここ
に墓碑がある?と、質問したところ、風が強く、墓碑を立てても直ぐに倒れてしまうとのこと。去年までは角ばった墓碑を立てていたのだが、
頭がポロリと取れてしまい、物置のような曹奐墓も風と雨で跡形も無くなってしまったとのこと。そこで、あたらしくこの墓碑を作ったのだが、人
手がなく放置しっぱなしであるとのこと。なんとこの墓碑2枚ありました。他の陵墓と同じく、曹奐墓は結構あいまいであり、『この周辺』という
感じで決められているらしいです。孫権墓などと一緒ですね。ついでに曹操墓のことも聞いたのですが、詳しい人(達人)が留守とのことで
話は聞けませんでした。「西門豹紀念館」も近くにあるよ。


【後記】
ずばり私(松倉)は三国志には詳しくありません。興味は人並にあるのですが・・・
ここの三台遺跡もほんの90分しか滞在しませんでした。磁県の北朝墓群に目が奪われていて・・・そちらのほうに時間を費やした為です。
今後この三台遺跡に行かれる方がおりましたら、複数の南北宮殿城門遺跡の写真を撮ってきていただきたく思います。城壁城門大好き
人間です。


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