マラッカでマラッカ海峡を見る!
〜Malacca (Melaka)〜
【はじめに】
今回は会社のメンバーと旅行に来ているわけだが、1日フリーとなったので1人でぶらっとマラッカに行ってみた。何故マラッカに行きたかったの
か、それはマラッカ海峡を見たかったからだ。昔から軍事上の重要拠点でもあり、また現在では海上航路の大動脈となっている。その海峡
を見たかった。しかし、元マレーシア駐在員によると、マラッカ海峡とはいうものの、対岸のインドネシアは見えないよ、といわれていた。すごく
狭い海峡というイメージとは違ったものらしく、だだっ広い海が広がっているだけだよ、という夢を打ち砕かれるようなことを言われた。それでも、
マラッカは観光地としても有名であり、行くことにした。
【マラッカという街】
マラッカは古都である。イスラム教を導入し、スルタンが統治する王国であったマラッカ(ムラカ)朝は、15世紀初頭に築かれ、マラッカ海峡に
よってこの王国が繁栄した。季節風を利用して東西の貿易船が訪れ、シルクロードに匹敵する海上の道として発展したのだ。明からの陶
磁器や絹をはじめ,アラブの商人達によって綿織物などの中継貿易が行われ、中継点として人が集まり栄えた。
しかし、この重要拠点は欧州列強の目にとまり、16世紀始めのポルトガルに始まり、オランダ、イギリスの数世紀にわたる外国支配の時代
となった。16世紀には「マラッカを制するものはヨーロッパを制する」と言われたほど。1511年ポルトガルは,東南アジアの香料を独占
し,インドのゴアからマラッカを武力で占領した。そのときにサンチャゴ砦を築いた。しかし,ヨーロッパの列強も東南アジアの香料をほしがり、
そしてついにマラッカ王国とポルトガルが戦っている間に、オランダが1641年にマラッカを占領した。そして、香料のほかに当時マレー半島で
つくっていた「すず」もオランダのものとなった。そして,マラッカ王国はしだいに衰え、1699年、ジョホール王朝やジャワのミナンカバウ族などの
攻撃を受け、8代目でついに滅びることになったのだ。
そんな歴史を持つ街なので、西欧諸国の植民地戦争の影響を強く受け、街のあちこちにポルトガルやオランダ、中国などの文化の香りが
色濃く残り、アジアと西洋がクロスオーバーした独特の雰囲気がある。
マレーシアの首都、クアラルンプールからは南に100km、隣国のシンガポールからは北に150km、マラッカ州にある三つの地方自治体の
中央、海岸沿いに位置している。熱帯雨林気候に属し、年間を通じて、日中の気温が23〜32度、湿度は70〜85%と、雨期と乾期が
あるものの、1年中夏の気候が続く。市の人口は36万人、州人口の約6割を擁している。民族比率はマレー系、華人系がマレーシアに
おける国全体の比率にほぼ等しく、それぞれ6割、3割となっているが、インド系については1割に満たず、そのほかにマレー人と融合したバ
バと呼ばれる明の時代にやって来た華僑の富裕な商人の末裔や16世紀にやってきたポルトガル人の子孫が今なお生活を営んでいるのが
特徴である。市の面積は301平方kmで、マレーシアで最も面積の小さな市である。
【マラッカの地名の由来】
マラッカの地名について、2つの話が伝わっている。
パラメスワラはある日、お伴を従えて狩りに出かけた。くたくたに疲れて木陰で休んでいたときのこと、猟犬がネズミジカを小さな流れに倒れか
かっていた木に追いつめた。驚くことに、木の半ばまで追い込まれたネズミジカがそこで立ち止まり、猟犬を川に蹴り落としてしまったのだ。こ
れは普通のことではなかった。というのは、ネズミジカはとても臆病で弱い動物と思われていたからである。これを見たパラメスワラは、ここはな
にか特別な場所で、ここに国をつくればきっと栄えることだろうと考え、お伴もその通りだと賛成した。そうしてパラメスワラは、休んでいたその
場所の木の名前、つまり「Melaka Tree」の名まえからこの地を「MELAKA」と名づけたというものだ。
もう一つの説は、むかしむかし、もっとマレー半島で貿易をしたいと思っていたアラビア商人たちは、この場所をマラカット(MELAKAT)とよ
んでいた。アラビア語で「市場」という意味である。このマラカットということばが少しづつ変化して、いつのころからか『マラッカ』になったというも
のである。
いずれしても、個人的には哀愁のただよう地名だと思う。
【写真解説】
<クアラルンプールからマラッカへ出発>
クアラルンプール(KL)からマレー鉄道でいく手もあるが、通常はバスで行くことをお勧めする。マラッカには鉄道も高速道路も通っていないの
だが、最寄の鉄道駅からマラッカまでが遠くアクセスが悪いことや、バスならKLから直行で行くことが出来るからだ。
KLにはバスターミナルが沢山あるが、その中でも最も大きい「プドウラヤ(Puduraya)・バスステーション」からマラッカ行きが出発してい
る。マラッカまではなんとRM8!日本円で240円程度。2時間かかる場所、しかも高速を使って、バスも乗り心地がいいのに、これだけの
値段はかなり安い。
(左)ジョホールバルの下がシンガポール。ジョホールバルは、日本がワールドカップ初出場を決めた地だ!(野人岡野!)
(右)プドウラヤ(Puduraya)・バスステーションの全景。ブキビンタン通りを西に行き、突き当たりを右に曲がればしばらく行けば見えてくる。ブキビンタンからは
歩いて20分ぐらいであった。
(左)バスステーションの中。どの国もバスステーションはごみごみしていて、物乞いも多いものだ。
(右)行き先ごとにチケット売り場がある。おそらく会社が違うのであろう。マラッカ行きは1時間に1本のペースで頻繁に出発しており、夜も21時ぐらいまでの便
があった。
(左)バス乗り場への降り口。12番ゲートから出発だ。
(右)かなりピンボケしたが、これが乗ったバス。新型でかなり快適に乗ることが出来た。
<高速道路>
KLから国際空港あたりまでの高速は3車線でかなり広い。そこまで快適に走ることができるが、それを過ぎると2車線になる。マレーシアは車
の運転が粗い人が多い。追い越し車線から、びゅんびゅんと車が抜いていく。やけにBMWが多かった。
(左)バスから高速道路を撮影。このあたりは3車線だ。
(右)これがサービスエリアだ。結構綺麗な店が入っている(帰りに撮影)。
<マラッカ到着!>
快適にバスに乗って1時間55分でマラッカバスステーションに着いた。かなり綺麗なバスステーションである。さー地球の歩き方に載っている
地図を見て、街まで行くぞ〜!と歩き出したものの、なんか地図と実際の道が違うようだ。これはおかしい、ちょっと待てよ。このバスステーシ
ョン、かなり新しいやないの!どうも移転しているようだ。結局、タクシーに乗って中心部まで行った。タクシーの運ちゃんいわく、「このバスステ
ーションは2ヶ月前に出来たばっかりだよ。古いバスステーションはもっと向こうだよ。」といわれた。タクシー乗って、あーよかった。しかし、支払
いのときに、RM2を出すとえらい剣幕で怒られ、RM15だよ!と言われた。ちょっと待て、KLからマラッカまで2時間かかるバスがRM8で、わず
か10分ぐらいのタクシーがなんでRM15なんだ!と思ったが、日本円で450円ぐらいなんで快く払った。しかし、日本のタクシーとあまりかわら
ない値段やな〜。
(左)これが新バスステーションだ!どうりで新しいと思った。運ちゃんの情報が正しいと04年5月に完成だ。
(右)新しいだけあって、中はかなり綺麗である。子供の遊び場や小さな店があった。
(左)マラッカ新バスステーションの切符売り場。帰りは結局、ここで買うことがなかったが・・・。
(右)さすがイスラムの国、バスステーションにも、お祈り部屋がある。
<念願のマラッカ海峡!>
マラッカ海峡を見たくてここまでやってきた。ここはマラッカアイランドという人口島の先端である。街の中心部からは30分は歩いたであろう
か、かなり疲れたものの、この海辺でぼんやりしていると、時が経つのを忘れるほどであった。事前に聞いていたように、確かに対岸のインド
ネシア(スマトラ島)は見えない。なんとなくかすかに見えているような気もしたが、まーそれはどうでもいい。この海峡をかなりの数の船舶が行
き来していたのは事実である。この海辺でしばしのんびりしようと思っていたら・・・、途中から謎の中国人集団が50名ぐらいやってきて、のん
びりムードも台無し。20分ほどでここを後にした。
<サンチャゴ砦(Porta de Santiago)>
ファモサ要塞跡である。1511年にマラッカ王国を攻略・占領したポルトガル人によって建設された要塞。ここは昔は海のそばであったが、最
近の大規模な埋め立て工事で完全に「内陸の陣地を防御する砦」とイメージしてしまう。もちろん、この砦は海岸線に沿って建てられた城
壁を守るための砦である。マラッカ海峡から攻め込んでくる外敵からスタダイスを守る重要な軍事拠点だったのである。この要塞の裏側にあ
る階段を上ると、ザビエルゆかりのセントポールチャーチまで行くことが出来る。
(左)サンチャゴ砦正面。 (右)サンチャゴ砦の後ろから。
(左)昔はこの向こうが海だったのだ。
(右)サンチャゴ砦の裏側からこの階段がある。ここを登ればセントポール教会にいける。
<独立記念博物館(左)>
この建物は、マラッカがイギリス植民地時代に社交を目的とした「マラッカ倶楽部」のクラブハウスとして1912年に建設されたものである。
1956年、マレーシアのアブドゥル・ラーマン初代首相が独立を宣言した記念すべきランドマークとして英国から譲渡された。現在は独立の
歴史を展示する博物館として利用されている。サンチャゴ砦のすぐそばにある。入場料はRM2。
<ムラカ・キリスト教会(Christ Church Melaka)(右)>
1753年にオランダ人によって建設されたキリスト教(プロテスタント)教会である。建設は、オランダがマラッカを占領した100周年の記念事
業として1741年にスタートし、完成まで12年かかったようだ。独特なオランダ建築であり、教会内部にはタイル画の「最後の晩餐」があるら
しい。ここがマラッカの中心部ともいえる場所であり、この写真を撮った右手にスタダイスがあり、マラッカ川を渡れば中華街、南に行けばサン
チャゴ砦がある。いつも観光客でにぎわっている場所であった。
<スタダイス(Stadthuys)(左)>
スタダイスとはオランダ語で「議事堂・市役所」を意味し、1650年に当時マラッカを植民地化に置いていたオランダが行政を指揮する役所
として建設したものである。現在は歴史博物館や民族博物館となっており、マラッカやマレーシアの歴史や工芸品、民族衣装などが解説
されている。入場料はRM5。
<時計塔(右)>
地元ではクロック・タワー(時計台広場)と呼んでいるようだ。時計塔の向こう側はスタダイスの入り口が見える。この広場には噴水もあり、そ
の周りで思い思いに時間をすごしている人たちがいた。
<風車>
時計塔から道路を挟んだ反対側にこの風車がある。周りには花が植えられいかにもオランダチックである。
<セントポール教会>
この教会は元ポルトガル軍のドゥアルト・コールポキャプテンによって1521年に建てられた。1545年にこの礼拝堂は「イエズス会」に引き渡さ
れ1556年には2階建てとなり1590年には塔が増築された。その後、マラッカを占領したオランダ軍は、この礼拝堂をセントポールチャーチと
改名し、スタダイス広場にムラカ・キリスト教会が1753年に完成するまで112年間、この教会を利用していた。
日本でもお馴染みのセント・フランシスコ・ザビエルは1545〜1552年の期間に定期的にこの教会を訪れ、布教活動を行っていた。彼が
中国のサンチャン島で熱病に冒され殉教した後、その聖骸が9ヶ月の間この教会で安置されていたという。
ここは小高い丘の上にあり、サンチャゴ砦裏側などいくつかの登り道がある。ここからの眺めは最高であった。なお、ザビエル像の右手がなか
ったのが気になった。
(左)セントポール教会の正面から。 (右)誰の仕業か、ザビエルさんの右手部分がなくなっているのだ!
(左)ザビエル像からの眺めは素晴らしい。マラッカ海峡を遠くに眺め、等間隔に並んだマンション群も美しい。
(右)セントポール教会からは少し離れているが、これがフランシスコ・ザビエル教会だ(キリスト教(カトリック)教会)。16世紀にここマラッカを基点にアジアにお
ける最初の宣教師として布教にすべてを注いだフランシスコ・ザビエルを讃えて1849年に建設された教会である。ゴシック建築の塔、荘厳で華麗なステンドガ
ラスと美しい教会である。
<マラッカ海洋博物館・ブキッ・チナ>
(左)マラッカ海洋博物館:
その昔、マラッカの貴重な財宝を積み母国へ帰る途中、マラッカ海峡に沈んだポルトガルの交易船「フロール・デ・ラマール丸」を復元した
博物館。海運都市であるマラッカ港の歴史、貿易に関する写真、海図、船舶模型が展示されている。入場料はRM2。
(右)ブキッ・チナ:
マレーー語で「ブキッ」は丘、「チナ」は中国を意味する。15世紀に明(現在の中国)の皇女「ハン・リー・ポー姫」がマラッカ王国の王様
に嫁いで来たときにこの丘を居住区にしている。王妃が亡くなった後は墓地として利用されるようになり、現在では中国の国外では最大
規模の中国人墓地となっている。
ここは小高い山になっているため、登山をするにはちょうどいいが、時間の関係で登ることができなかった。夕陽が綺麗に見れるらしい。
<サン・ポー・コン仏教寺院>
中国仏教寺院。この寺院の境内には明の皇帝、永楽帝の命を受けアジアを大遠征を指揮した海軍大将鄭和が祭られている。寺院の
名は、その昔中国からマラッカへ向かう途中嵐に遭い沈没しかけた交易船を救った魚に由来している。
(左)寺を入って右手に、このかっこいい像があった。鄭和かなと思い思わず写真をとってしまった。説明書きもなく、結局、正体不明。
(中・右)寺の中はこんな感じであり、左手に掛け軸があった。
<中華街(China town)>
チャイナタウンはどこにでもある。ここマラッカも例外ではなかった。どんなものかと思い、マラッカ川を渡って行った見たが、ゲートから街の様子
を見ただけで引き返した。ここをまっすぐ行けば、お寺やモスクなどもあったようであるが、興味をそそられることなく、立ち去った。
(左)これが中華街の入り口だ!とってつけたような門という感じは否めない。
(右)風車から中華街に行くにはこのマラッカ川を越えなければならない。都会のどぶ川って感じ?
<マラッカの街で>
(左)こんな花飾りをつけた人力タクシーがよく走っている。
(右)海外近くのおしゃれなとおり。この左側の店でスパゲティを食べた。奥に見えるひときわ大きなビルが、ホテル・エクアトリアル。
マラッカ川の河口付近にかかる大きな橋から。帰りにタクシーの運ちゃんが特別に降ろしてくれた。この向こうに広がるのが、もちろんマラッカ海峡だ!
通り名にはアラビア語も書いてある。
<マラッカはいい街だった!>
マラッカに行ってよかった!マラッカに着いたのが13:30でそれから19時までの間だけで結構回ることができた。かなり駆け足になり、史跡の
中に入ってゆっくりすることはできなかったものの、マラッカ海峡を見ることが出来たし、セントポール教会からのマラッカの眺めは最高だった
し、本当にきてよかったと思った。
さー、明日はゴルフだし、KLへ帰ろうかと思い、タクシーを拾って、バスステーションに向かった。KLからマラッカへは21時ごろまでバスがあった
が、マラッカからKLは19:30が最終である。18:30にバスステーションに行き、バスチケットを買おうと思ったが「すべて売り切れ!」。5つか6
つぐらい、チケット売り場を回ってみたが、どこも売り切れ。う〜ん、中国で経験したことのあるような・・・、と思いつつ、仕方なくタクシーを使
うことにした。
マラッカバスステーションのタクシー乗り場はかわったシステムになっており、客引きがいてその人に行き先を告げると、待機していた運転手が
どこからともなくやってくる。行き先ごとにタクシーを置いているのだが、運転手は乗っていない。そして、その運転手候補者が、カウンターらし
きところで何やらデポジットのようなものを支払っている。紹介料とでもいうのであろうか。行き先をKLと告げると、客引きは「RM140」といっ
た。予想としてはRM200だったんで半ばラッキーといった感じだ。しかし、バスステーションから市の中心部までRM15もとっといて、それより格
段に遠いKLまではRM140なんて、やっぱりおかしいように思える。
ドライバーはインド人。大金が入るからご機嫌だった。彼の父の車に乗り換えて(日産のセドリック:かなり古い)いざ出発。クアラルンプール
で働いていたという彼であり、彼女がKLにいるらしい。でも、道をよく知らないといい始め、友人の家に寄った。このドライバー、インド人だ。あ
ーあ、やっぱりなんか企んどるな、と思いきや、クアラルンプールに着いたとたん「もっと金ちょーだい」といってきやがった。インド人には懲りて
いるので、「アホか、バスで2時間のところ、なんでタクシーで3時間やねん!」と思いつつ、ちょうどなかったんでRM150(4500円)を
渡してさよならした。まー、結局、ペトロナスツインタワーまでつれていってもらったからよかったが、マラッカを19時に出発して、KLに着いたのが
22時だった。ほんまに疲れたわい。
(左)タクシーのインド人の運ちゃん、出発前に給油中。
(右)さよならマラッカ!この夕陽をマラッカ海峡越しに見たかった!しかし、それは無理・・・、これはタクシーの中から撮影したもの。
最後に、マラッカに行く前に参考にしたWebサイトを紹介します。
歴史の街マラッカ |
全部英語であるがマラッカを愛する方が作ったサイトである。ホームページを開くと同時に聞こえてくる音楽は軽快である。 |
マラッカの歩き方 |
マレーシア滞在暦2年の方が作成したサイト。ガイドに載っているような建物やその周辺はすっかり観光地化してしまってい
るものの、ちょっと足をのばしたり、裏の通りを入ってみると本当のマラッカの暮らしが見えてくるような気がする。そんな作者
のマラッカの歩き方を紹介している。 |
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アクセス、歴史、地図、ホテル、観光名所、史跡、写真ギャラリーとマラッカ情報は何でも掲載されている。観光地ごとに
個別紹介されており、その情報が大変参考になった。 |
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