三国時代は青州と言われていた地域。しかし諸葛亮が生まれた琅邪国(今の沂南)は当時は徐州に属していた。このあたりは諸葛家の出身地のほか、太
史慈が煙台あたりの出身であることと、曹操が父曹嵩が殺されたために無差別大虐殺を行ったところだ。三国遺跡はそれほど多くないが、青島、済南、泰 山などには三国遺跡以外の見どころが多い。特に春秋戦国時代は大国「斉」があったし、何よりも始皇帝が儀式を行った泰山もある。
【山東省地図】
基本的に山東省は日本から近くて便利なのだが沂南県は違う。青島からバスで4時間30分かけて臨沂へ、そのバスターミナルからさらにローカルバスで約2時
間で沂南に到着。臨沂までは日本を出発したその日のうちに行くことができるものの、沂南まではかなりきつい。
2004年3月訪問
臨沂市沂南県にある。沂南バスターミナルから輪タクで北西方面の山に向かって5分程度。地元の人なら誰でも知っている。青島からなら日帰りは困難か
も。ただし、青島−臨沂間に飛行機もあるため、それを使えば日帰りできるかもしれない。
沂南は諸葛亮孔明の生まれ故郷である。街の人たちもそれを誇りに思っているのだろう。日本から来た、と言うと心なしか「そうだろそうだろ、日本でも諸葛亮
先生はさぞかし有名だろう。」とでも言いたげな感じだ。諸葛亮像のある場所は、市民広場になっており、そこにずでーんと像がある感じ。バスターミナルからは 1回左に曲がるだけで、あとはずっと直線道路。その突き当たりにある。かなり遠くからでも、この像は目立っている。おなじみの車に乗り遠くを見据えている姿 は天才軍師といったところであろうか。
ここは、像と後ろの壁画があるだけで、あとは庶民の遊び場と化している。ビー球など子供の遊び道具のようなものを売っていたり、ブランコがあったり、像の右
側には結婚式を挙げている新婚さんもいた。市民の憩いの場といった感じか。びっくりしたのが英語でしゃべりかけられたこと。どこから来たのか?日本でーす、 ほうそれはそれは。といった簡単なものであったが、こんな田舎で英語をしゃべれる人がいたなんて!さすが諸葛亮の生まれ故郷!とわけわからん感動を覚え たものだった。のどかな公園といった感じで、のんびりと昼寝をするのもいいかもしれない。
像の後ろには「諸葛亮銅像誌」が書かれており、沂南県人民政府が1994年9月に建立したとあった。まだ新しい像だ。このあたりは諸葛亮公園になるような
雰囲気ではあったが、まだこの像と壁画があるのみである。なお、像の後ろにいる中学生らしき学生さんは熱心に銅像誌をノートにメモっていたのが印象的で ある。ちなみに、入場料はなし。
(左)これが諸葛亮像だ!高台から街を見渡しているようで遠くからも見える。車椅子に乗ってるので晩年の諸葛亮をイメージしたものだ。
(右)像の後ろの壁画である(14枚あった)。かの有名な三国鼎立を劉備に説いている場面である。その他にも諸葛亮にまつわる名場面が後ろの壁画として
書かれている。@誕生時、A晴耕雨読、B三国鼎立講話、C孫権説得、D10万本の矢、E東南の風、F赤壁合戦、G入蜀、H孟獲七擒、I北 伐、J牛流馬、K空城の計、L泣いて馬謖を斬る、M巨星堕つ、という順番に並んでいる。のどかだし絵画鑑賞にはもってこい。じっくり見ていると、味があ ってのめりこんでしまった。
2004年3月訪問
沂南県黄{田童}村(こうたんむら)にある。沂南バスターミナルにたむろしているタクシーの運ちゃんに連れて行ってもらった。沂南バスターミナルから約1時間
弱。臨沂から日照への高速道路の近くである。その運ちゃん、しばらく周りの運ちゃんと相談してたようだが、なんとか場所がわかったみたい。迷わず連れて行 ってもらった。沂南バスターミナルから、どこに行くの?というような田舎道を通る。途中、集落っぽいところで市場があったものの、それ以外はほとんどがかなり の田舎道。しかし、並木があって景色はいい。高速道路を交差して平行に走っているなと思ったら、集落があり、そのなかに諸葛亮故里記念館が忽然と現 れる。閑静な住宅街・・というよりも、かなり田舎の集落といったところか。
鍵がかかっていたので管理人らしき人にあけてもらい入れてもらった。管理人は人民服を着たおっちゃんだ。本堂に行くまでは、諸葛家の家系図やら、孔明像
やらがあり、それをゆっくり見てても面白い。本堂の鍵も開けロウソクをつけてもらい、線香をあげさせてもらった。本堂で1枚写真を撮ったところで、おっちゃんに 「撮影禁止!」といわれた。残念。本堂には諸葛亮像と、そのまわりには沂南諸葛亮像の後ろにあった壁画と同じ絵が書かれているものがあった。のんびりし た雰囲気でいい感じである。中国語がわかれば、おっちゃんがいろいろと説明してくれる(はず)。
なお、諸葛亮故里の一帯は陽都故城遺址となっており(三国時代は琅邪郡陽都県と呼ばれた)、沂南人民政府が1980年、県級の重点文物保護単位
に指定した。そこから諸葛亮故里記念館を建てるという話が持ち上がり、1993年に完成をみた。そのとき、浙江省蘭渓から諸葛亮の後裔が招かれたよう だ。諸葛亮はここで13歳まで暮らしたが、叔父の諸葛玄に連れられ、兄諸葛謹は呉に仕え、諸葛亮は弟諸葛均とともに荊州へ向かった。なお、このあたり 一帯には諸葛氏の子孫は住んでおらず、浙江省蘭渓に諸葛亮の直系が住んでおり、そこには諸葛大公堂もある。
(左)諸葛亮故里記念館の入り口。写っている人が管理人。
(左)記念館の門をくぐるとこの石像が迎えてくれる。う〜ん、イメージどおりの諸葛亮に迎えられてなんだかホッとした。1999年に建てたものなので新しい。この
あたりはこの記念館を中心に、諸葛亮開発をするのかな、という印象を受けた。これ以外にも周辺遺跡地図や諸葛家系図などがあった。
●曹嵩墓
陽都故城の西、約2Kmに曹嵩の墓がある(諸葛亮故里記念館の石碑に曹嵩墓の地図が書いてある)。つまり、諸葛亮故里記念館から歩いていける距離
である。曹嵩は曹操の父であり、董卓が猛威を振るっていた頃、中原を避けて、このあたりにいた(当時は琅邪国といった)。その後、曹操の勢力が大きくな ってきたため、曹操の居城に引っ越すためにここを出発した。そのとき徐州刺史の陶謙が部下を護衛につけたが、曹嵩の財宝に目がくらみ、その部下が曹嵩 を襲って殺してしまった。曹操は激怒して民衆を巻き込んだ徐州の大虐殺を行ったというわけだ。それがもとで諸葛亮は荊州へ移ることになる。 |