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春秋時代(前722年から前481年)には異民族を含め、国は200を数えた。
周王朝の力が衰えたとき、諸侯は小国を滅ぼし領土を拡大して、天下の覇を競うようになった。なお、地図上の黒線は現在の省の境界線である。
覇者(春秋5覇)
主に武力をもって諸侯同盟の盟主になった実力者のことで、周王朝に認められて覇者となった。斉の桓公(前7世紀)、宋の襄公、秦の繆公(前7世紀)、晋の文公(前7世紀)、楚の荘王の5人を春秋5覇といった。
紀元前145/135年? ? 紀元前87/86年?。 生年月日は諸説があり定かでないが、有力説は前漢景帝のとき、前145年に洛陽の竜門山で西南夏陽で生まれたといわれている。司馬家は周王朝からの名家であった。父の司馬談は一流学者であり、太史公(暦を作ったり国家の祭祀をとりしまる仕事)であった。司馬遷は父の「明君、賢人の生き方を教訓にするために歴史書を作れ」という遺言をうけた。しかし、武帝の質問に正直に答えただけで極刑となったが、極刑を逃れるために生き恥をさらしながら宦官として生きることを選んだ。その後、もともと才能をかわれていたため武帝のはからいで中書令となり、歴史書の執筆に没頭し完成させた。この「史記」は、130篇からなり全体は12本紀と10表、8書、30世家、70列伝で、伝説の帝王から夏、殷、周の3代、春秋戦国、秦、そして漢の武帝(在位前141〜87年)までの通史である。伍子胥列伝、項羽本紀などには物語的な説話も多いため創作部分も入っていると言われるが、単なる記録ではなく、登場人物に血を通わせ短評まで加えているために、大歴史小説と言われている。また司馬遷は20歳のときに長江から淮水、山東、黄河流域を旅し、その後、武帝に随行して漢王朝の主要な地域をほとんど訪れており、それが史記にも影響している。後世に史記を残したことは、立派に親に対して「孝」を果たしたのである。司馬遷は武帝の死の1年後である、前86年に死んだといわれている(異説あり)。
管仲と斉の桓公
太公望を始祖とする斉の国で、前7世紀に暴君、襄公から逃れるために、その弟、糾が魯に亡命するときに、後見人として従った。襄公は前686年に公孫無知の謀反によって殺された。そのとき、同じく亡命していた小白と後継ぎ争いとなり、糾は殺されたが、小白の後見人だった鮑叔の言により、管仲は桓公(小白)に登用された。鮑叔と管仲は親友であり、「我を生める者は父母なるも我を知る者は鮑叔なり」と言って感謝した。その後、管仲が進言した富国強兵策が功を奏し、宰相となった。その後も管仲は信義を重視するように献策を行い、桓公は諸侯の盟主となり覇者となった。しかし、管仲が死んでからというもの、後継者争いが起こり、覇者と言われた桓公も死後10ヵ月後にようやく葬儀を行ったというみじめなものであった。斉の国力はその後弱まり、他国の侵略を受けるようになった。
重耳(ちょうじ) 〜晋の文公〜 19年間放浪した末、晋の文公として62歳で即位した。在位はわずか9年であるが、その間、覇者にまでなった。晋の献公の時代(前666年)、側室の策謀により殺されかけたため、重耳(ちょうじ)、夷吾(いご)のふたりの公子は難を逃れるために、重耳は母の国、狄へ、夷吾は魏へ亡命した。その後、献公が死亡し、重耳に君主の依頼があったが危険なため断り、かわりに弟の夷吾がなった。夷吾は秦の助けを借りて君主になったにもかかわらず、秦に背き、そして重耳も暗殺しようとした。そこから重耳の放浪が始まり、狄、衛、斉、曹、宋、鄭、楚、秦と8つの国に拠り、ついに晋王となった。途中、斉で60歳を迎え、結婚もしてここで骨を埋めると考えていたが、叔父の趙衰(ちょうし)、咎犯(きゅうはん)、賈佗(かた)、先軫(せんしん)、魏武子(ぎぶし)の優れた側近が奮い立たせ、志を高く持たせた。晋王になったとき、亡命中に邪険に扱った国は攻め滅ぼし、恩を受けた国と民は大事に扱ったという。これは優れた側近がいたからこそ、高い志を保てたことと、晋に重耳ファンが根強くいたことによるものである。重耳の人徳と、民を味方につけ、信頼できる側近を持ったことで、苦楽の放浪生活も耐えることができ、そして覇者にまでなれたのであろう。
伍子胥(ごししょ) 〜楚と呉の争い、そして呉越の因縁戦争〜 父と兄の復讐を誓い、祖国である楚を攻めたが、その張本人である平王は死んでいたため、墓から棺を出して「屍に鞭を打」った人。楚の27代は横暴な平王(在位前528年から516年)であったが、名門の伍一族は平王に仕えていた。伍子胥の父の伍奢は太子の侍従長を務めていた。しかし、副侍従長の費無忌の出世欲により、ひょんなことから平王に疑いをかけられ、伍奢は兄の伍尚とともに処刑されてしまった(前522年)。伍子胥は処刑を免れ、父と兄の復讐を誓い、楚から呉へ逃げ延びた。そして、公子の光の口添えで呉王僚に仕えることができた。たびたび楚への出撃を促したが、呉の王位継承の複雑さからまだと見た伍子胥は、しばらく野に下ることにした。その間、平王が亡くなったと聞き地団駄踏んで悔しがったが、目標は楚の滅亡へと変わった。
呉軍が楚へ出陣しているときに、公子光がクーデターを成功させ、光が呉王となった。闔慮(こうりょ)である。そのとき伍子胥は外交官として仕えることとし、同時に兵法家の孫子(孫武)を将軍として迎えた。それから富国強兵に力を注ぎつつ、楚との戦争を繰り返し、伍子胥が楚を出て16年目についに、楚の都、郢(えい)を呉軍が陥落させた。そのとき、伍子胥は昔の恨みをはらすべく、平王の墓を暴き、その屍に鞭を打ったのである。闔慮は伍子胥の願いを晴らすべく、楚の平定を目指したが、越の侵略と部下の謀反があり、仕方なく呉の都に引き上げた。それから呉と越の宿命的な戦いが始まった。 呉はしばらく国力充実に努めていたが、ついに越に攻め込んだ。しかし、越の死刑囚を使うという奇襲にあい呉軍は破れ、闔慮もそのときの傷がもとで世を去った(前496年)。そして次に夫差が呉王となった。そのとき、夫差は伍子胥ではない者を宰相にし伍子胥は国政から離れた。このとき孫武も呉を離れてしまった。その宰相が欲深かった。夫差は父の復讐を図るため越への恨みを忘れまいとして、薪の上で寝た(臥薪)。そして越王の句践は呉へ侵攻を開始し夫椒山で激突したが、越軍は破れ会稽山(現在の紹興市)へ逃げ込んだ。そのとき句践は自分が捕虜になることで和議を申し入れ、それを夫差が受け入れた。そのとき伍子胥は越を滅ぼすべきといったが、聞き入れられなかった。それから句践は馬小屋の万人をしては、家に帰ると肝を嘗めて再起を誓っていた(嘗胆)。このとき臥薪嘗胆という言葉が生まれた。 句践は宰相への賄賂が効き、数年後には越に帰ることができた。呉王はそれから覇者になることを夢見て斉への侵攻をたびたび行ったため、国力は著しく低下した。伍子胥は越を討つべきと何回も讒言したが聞き入れられず、息子を斉へ亡命させた後、謀反の疑いをかけられ自害を迫られた。自害する前に「私の墓には呉王の棺の木材にするために梓を植えよ、越が呉を攻め滅ぼすのを見るため、私の目を都の東門にかけよ。」と言った。それが夫差の怒りを買い、伍子胥の死体は馬の皮袋に入れられ長江に捨てられた。前484年のことである。端午の節句は中国では恨みをのんで死んだ人の霊を静めるための厄除けの風習であるが、伍子胥の霊をなだめるために出来たという説もある。 伍子胥がいなくなった呉は滅亡に走るだけであった。夫差は諸侯と会盟するため北方の黄地に向かった。覇者になる儀式(牛を生贄とし、左の耳を切り皿に受け、その血で盟約文を記し、血をすすり盟約を読み上げるというもの。それが「牛耳を執る」といわれ「牛耳る」の語源となった。)を行うためである。このとき越のことを完全に小国と思いなめていた。その間、越が呉に侵攻し首都を陥落させた。覇者にもなれず夫差は呉に帰ると、呉の都は焼け野原であった。呉は越と和議を結び、国力をつけようとしたが、その間も斉や晋に出兵した。その後、越が呉に攻め入り、夫差は破れ「あの世で伍子胥に会う顔がないから顔は布で包んでくれ。」と言い残して自害した。前473年のことである。その後、呉を併呑した越は中央に進出して覇を唱えたが、それから戦国時代が始まっていった。 【戦国時代(初期)の主な国】
兵法書「呉子」を記し、「孫・呉の兵法」と高く評価され、孫氏と並び称される兵法家。
衛の生まれで家は裕福であり財産を使い果たして仕官の口を諸国に求めた。しかし、無名の呉起はどこも仕官できず故郷に戻った。母は理解したが、街では後ろ指をさされ、自尊心の高い呉起は若者達を殺してしまった。そして衛を出て、孔子の弟子の曽申の門下生となった。しかし、母の葬式に出ることが出来ず、そこを破門になり魯に移って兵法を学んだ。その後、魯の元公に仕え斉が攻め入ったときは将軍として活躍した。しかし、衛での殺人事件の噂が広まり、魏に移り、文候に仕えた。そこで将軍となり、兵法を駆使して秦の西部、そして魏、韓を服従させ、魏を列強の一国にさせた。そのなかで、兵士と寝食をともにし、兵士の足に膿がたまると自ら口で吸出した。それに兵士は感激し、自分の命を投げ出して戦ったため、祖国の母は悲しんだ、という「吮疽の仁(せんそのじん)」というエピソードがある。前387年に魏の文候が亡くなったときも引き続き西河の太守となったが、その能力の高さから宰相に疎んじられ、楚に亡命した。悼王の宰相となり、領地を与えられた者の子孫の土地は国に返却する、特権階級の者を強制的に地方に分散させ地域振興を図る、などの献策をした。それが功を奏し、国力が増大した楚は、南は百越、北は陳、蔡を併合、韓、魏、趙を退け、西は秦まで攻め入り、強大国となった。しかし、前381年に悼王が死去すると、呉起に特権を奪われた貴族や解雇された役人が呉起を襲い、悼王の霊堂で矢で射られて殺されてしまった。悼王と呉起が死んだ後は、結局、楚は門閥体制に戻ってしまった。 孫武と孫濱(そんびん)
不朽の兵法書と言われる「孫子」を書いた人。どっちが書いたのかは諸説があるが、孫武ではないかとの説がある。孫子の「その疾きこと風の如く その徐かなること林の如く 侵掠すること火の如し 動かざること山の如し」、「彼を知り己を知れば百戦してあやうからず」などは有名である。孫武は春秋時代末期に呉王闔慮(前496年死去)に使え、楚に攻め入り、北は斉、晋を脅かした。その100年後、孫濱が登場した。孫濱は、若い時の友だった魏の大将軍、ほう涓(けん)の策略にはまり、両足を切断されてしまった。今のうちに殺しておかないと、魏に災いをもたらす、という理由だ。そのとき、びんの字を「さんずい」から「つき」に変えた。その後、斉に帰り軍師として迎えられた。それから魏のほう涓は斉と戦うことになるが、孫濱の策で戦死してしまう。その後、孫濱は戦いには出ず、ひたすら兵法書を書いたという。
商鞅(しょうおう)
秦で思い切った国政の改革を行い、その後超大国になる基礎を作った人。本名は公孫で名は鞅であり衛の側室の子である。政治学を学んだが、衛では才能を活かす場がなく、魏の宰相の食客となった。しかし、宰相が死ぬと秦へ移った。秦では25代の孝公(前361〜前338)に3回の謁見を許され、その言よく仕えることとなった。その後認められ左庶長(宰相の下)となって法律を作った。それが厳しく、不満もあったが、王子でも容赦なく法に照らしたため、国は富んだ。その功績で宰相になり、魏を攻めるなどした。しかし、恵文王に変わったとき、謀反の疑いをかけられ、逃亡を図るも、自分の作った厳しい法により捕らえられ、股裂きの刑に処された。前338年のことである。しかし、秦の法治国家の体制は続けられ、前221年に始皇帝が中国統一する土台となった。
【戦国時代まっただ中】
諸葛亮孔明が尊敬する人。中山国に住んでいたが、中山国が趙に滅ぼされた後、趙に仕え、趙王が死んだ後、魏に仕えていた。その後、昭王のとき、人材を広く募集した燕に仕えるようになった。その頃、斉のびん王{さんずいに民+日}が勢力拡大しており、南は楚を重丘で破り、西は韓・魏・趙の軍を観津でたたき、敗れたものの韓・魏・趙と連合して秦を攻め、趙に援軍を送って中山国を滅ぼし、宋を倒した。そんななか燕は斉にだまされて父を殺された昭王は、楚、韓、魏と連合して、斉を討とうとした。その上将軍が楽毅である。連合軍と斉は済水の西で激突し、撃破した。その後、楽毅率いる燕軍だけが斉の首都に迫り、斉のびん王は楽毅を恐れ、南方へ首都を移転し、楽毅は首都に入城した(前284年)。その功により、楽毅は昌国とされ領土まで与えられた。その後も楽毅は斉を攻め、6ヶ月で70余城を落とした。ただ、2城だけはなかなか落ちず、その頃、昭王が亡くなり、恵王が即位した。楽毅とうまくいっていない恵王は、2城を落とせないのは内通しているから、という贅言に乗せられ将軍交代を命じた。身の危険を感じた楽毅は前279年に趙へ亡命した。楽毅のいなくなった燕軍は弱く、ことごとく斉に城を取り返されてしまった。さらに楽毅を恐れた恵王は、楽毅に書簡をしたためたが、その楽毅の返書が泣ける。昭王に恩恵を受けた楽毅は、昭王を称え、昭王がいた燕に対する忠誠心がにじみ出ていたのだ。それを読んだ恵王は楽毅を疑ったことを後悔したのである。燕、趙から客卿の待遇を受け、趙で亡くなった。
〜戦国4君子(斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君)〜 田嬰(領主)の子として生まれたが5月5日生まれは親に災いをもたらすとのことで、田嬰は生まれてまもなく殺害を命じた。しかし、母親に秘密に育てられ、20歳のときに父に謁見した。田嬰は激怒したものの孟嘗君の才能を見込まれ、結局、田文(孟嘗君)が後継者となった。孟嘗君は財産を投げ打って3000人の食客をかこっていたが、中には泥棒や物まねのプロまで囲っていた。前299年、王命によって秦へ行くことになり食客たちも同行した。秦の昭王は孟嘗君の才能を買い、宰相にしようとしたが、部下の進言で、秦の災いにならないように殺そうということになった。そのとき、昭王が寵愛する側室を口説くために、盗みのプロが毛皮のコートを倉から持ち出したり、秦の国境である函谷関では物まねのプロのにわとりの鳴き声を真似させて開門させ(にわとりが鳴けば開門するというルールであった)、偽造のプロが作った偽の通行手形で見事、斉まで帰ることができた。変な人を食客で抱えているとうことを言われていたが、この事件によって孟嘗君は先見の明があったといわれた。これが「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」のエピソードである。
その後、斉の宰相となったが、びん王{さんずいに民+日}は自分より目立っている孟嘗君が煙たくなり罷免した。しかし、食客が秦の宰相へもう少しでとりなそうとしたとき、再び孟嘗君が宰相になった。しかし再びびん王の殺意を感じ魏に亡命し、その後、燕などの連合軍に斉は破れびん王は殺害された。その後、説得により再び斉に帰ったが、すぐに息を引き取った。食客を大切にしたからこそ、人生の狂いがなかったと言える。 完璧と刎頚の交わり 春秋時代の楚に卞和(べんか)というものが山中で見つけた名玉の原石を王に2度献上したが、鑑定の結果、ただの石と言われ、都度、両足を斬られた。老人になったとき、文王が即位したが、原石が認められなかったのを山で嘆いていたが、文王が気になり召しだした。そこで原石を磨かせてみると素晴らしい名玉ができあがった。それが「和氏の壁」と名づけられ、卞和は恩賞を授かった。
その後、強国となった秦が、「和氏の壁」が欲しいため、15の城と交換するという嘘の話を趙(楚から壁を献上された)に持ちかけた。そこへ、藺相如(りんじょうじょ)が秦へ赴くことになったが、秦王が約束を守るなら壁を置いてくるが、城を渡さぬなら壁を完うして趙に帰る、と言った。そこから「完璧」という言葉が生まれたのである。なお、藺相如は見事に秦王を論破し、無事に壁を持ち帰った。 その後、藺相如は幾度も秦と口で戦い趙に貢献したため、上将軍である廉頗(れんぱ)より上の大臣となった。それに気を悪くした廉頗将軍は、藺相如の中傷を行うようになった。しかし、藺相如は「今、秦が趙に攻め入らないのは、廉頗将軍と私がいるからだ。ここで、2人が仲たがいしたら秦の思う壺だ。」と言った。それに感じ入った廉頗将軍は、自分の思慮のなさをわび、「刎頚(ふんけい)の交わり」を結んだという。友のためなら首を刎ねられても悔いはない、という意味で「刎頚の友」とも言われる。趙の恵文王(在位前298〜266年)のときのことである。 白起(はっき)将軍 秦の勢い盛んなとき、あたるところ敵なしの猛将。前293年、韓魏連合軍と戦い5つの城を落とし24万人の首を奪い、魏の61城を奪った。その後、楚に進んで5城を落とし、楚はたまらず東の陳へ遷都し、そして、魏韓趙の連合軍を破って13万人の首を奪った。前260年には戦国時代最大の合戦と言われている長平の戦いが趙との間で始まった。趙は老いた廉頗将軍でよく戦ったが、秦の計略にはまり、若く未熟な趙括を将軍に変えた。趙括は白起の敵ではなく、趙括は戦死し、40万人という兵士が生き埋めにされた。しかし、その戦いが白起の最後の戦いとなった。そのまま首都邯鄲まで攻めれば趙を滅ぼせたものの、秦の宰相の言により秦はいったん引き上げたのに、白起は不信感を持ったためだ。白起は自宅にこもったままになった。その間、秦軍は邯鄲を攻めたが、なかなか落ちず、楚の春申君や魏の信陵君の援軍もあって秦は敗走した。何度、命令しても出陣しようとしない白起に、とうとう昭王は激怒し、自刎を要求した。白起は「長平で無抵抗の人間を40万人を生き埋めにしたなど、むごいことをしてしまった。昭王からこういわれたのも神のおつげだ。」と言って、自決した。前257年のことであったが、秦の人々はその死に同情した。
范雎(はんしょ)
字は叔。魏の中大夫、須賈(しゅか)に使え、須賈が斉に使いにいくことになり范雎も同行することとなった。斉で、魏の使者のなかに賢人がいるという噂が広まり、それが范雎であり、范雎に対して金品の授与がなされた。それがもとで須賈にうとまれ、魏の宰相の魏斉に報告されるとスパイ扱いされて、范雎は拷問を受け、簀巻きにして便所に放り込まれた。辱めを受けた後、死んだことにしに番人に逃がしてもらい、親友の鄭安平のところに逃げ込み、名を張禄(ちょうろく)と改めた。その後、秦から使者がきたおり、鄭安平の紹介で、秦にいくことになった。
その後、秦の昭王に謁見を許され「遠交近攻策」を説き、客卿として迎えられた。その策に従い魏に攻め入った。今度は昭王に対してより王の権限を強化するように国内改革について進言した。それが成功し、范雎は宰相にまでなった。その後、秦に恐れをなした魏から使いとして須賈が来た。范雎が宰相になっているとは知らなかった須賈は恐れおののき、范雎に魏斉の首をとってくるように命じられた。それを聞いた魏斉は趙の平原君のところに亡命した。しかし、秦からの度重なる要求もあり魏の信陵君のところに逃げ延びたが、結局、そこで魏斉は自害した。それにより范雎の恥がそそげたのである。 その後、長平の戦いなどで秦は国力を増大させていった。しかし、范雎が推薦した鄭安平は趙との合戦で破れ降伏し、同じく范雎推薦の王稽も諸侯との内通により処刑される事件があった。推薦した者も罰せられるという秦の法律により、范雎は刑を覚悟したが、昭王に寵愛されていた范雎は何の刑も受けなかった。それが元で気が沈んでいた。そんなとき蔡沢という説客がやってきて「人を鏡として吉と凶を知る」と言って、昔の伍子胥、呉起、商鞅などの例を挙げて隠居を勧めた。それに従い、范雎は余生をのんびりと過ごすことが出来た。賢者らしい身の処し方であった。 <参考文献> 司馬遷「史記」歴史紀行 村山 孚(人民中国雑誌社編集顧問) 尚文社ジャパン 1,800円(税込み) 「史記」1巻〜11巻 横山光輝 小学館文庫 各629円(648円のものもある) |