昔から守るに適し攻めるには難しと言われているだけあって、険しい山に囲まれている。内陸にあるにもかかわらず温暖で肥沃な米作地であることから「天府之国」とも言われている。山が多くて風光明媚であり世界遺産はごろごろしているし、自然の見どころは山ほどある。チベットに近くて成都から航空便が多いことから、チベットの人も多い。 諸葛孔明の天下三分の計によって入蜀した劉備の拠点があるだけに、三国遺跡も見どころ満載だ。おそらく三国遺跡数はあげれがキリがないぐらいあると思われる。中国での劉備や孔明の人気はやはり高く、いまでも劉備や孔明の遺跡が大事にされているところを見ても、その人気はよくわかる。 なお、四川省はバカでかく面積が49万平方Kmというから日本より大きい(日本は38万平方Km)。また、重慶が分離しても8千万人以上の人口だ。恐るべし四川!
【四川省地図】
四川省は広い!よって、三国遺跡が集中する成都から広元までをズームアップした。なお、この道はいくつかの意味を持つ。
①215年、劉備がふ城、{各隹}城から成都を目指す南下行。このとき漢中(陝西省)の張魯は曹操に降服していた。
②218年、曹操との漢中争奪戦のため北上。定軍山で黄忠、趙雲の活躍で夏候淵を斬り勝利、翌年、劉備は漢中王になる。
③劉備の死後、227年から始まる諸葛亮の北伐。漢中を拠点にして戦うが、諸葛亮は234年に五丈原で没する。
④263年、魏の鐘会軍を姜維が剣閣で支えたが、鄧艾が江油から緜竹へ進み諸葛瞻が玉砕。劉禅が降伏し、蜀が滅びる。
ちなみに、各都市の距離は以下のとおり(地元のHPからの引用なので、以下の遺跡紹介の文中と異なる場合があります)。
成都 -30km-> 广漢-20km->德陽-70km->綿陽-60km->梓潼-77km->剣閣県-30km->剣門関-53km->广元
-160km->ろう中-140km->南充-260km->成都 言わずと知れた蜀漢の都で、街の歴史は古く2300年前ぐらいから都市があるらしい。つまり紀元前200年なので、前漢ぐらいから都市になったのだろう。都といっても最近の大開発もあって、三国遺跡は観光地化された武侯祠ぐらいである。
2013年5月訪問
劉備の墓であり、三国遺跡のなかでもトップクラスの遺跡。入口にも「三国聖地」と書かれており、劉備ファンでなくても聖地である。劉備の墓(恵陵・漢昭烈陵)であったが、諸葛孔明が亡くなったあとに祠が建てられ、孔明の絶大な人気から、いつしか武侯祠と呼ばれるようになった。まさに主君逆転した珍しい例である。俗称であった武侯祠のほうが正式名称になってしまったようだ。ただ、漢昭烈廟のほうを先に記載しているのは劉備ファンとしては当然である。しかし、三国志の主役は曹操と諸葛孔明ということを実感する。 なお、諸葛亮を祀っているのに諸葛廟と言わないのは、諸葛亮が生前武郷候に封じられ、死後、忠武候と諡(おくりな)されたことから武候祠と呼ばれるようになった。なお、ここには蜀の将軍像があるが、夷陵の戦いで亡くなったあまり有名ではない武将像も見れる。 朝は8時から開いているので(18時まで)、朝早く行くのがオススメ。10時を過ぎると観光客がどっと押し寄せる。私は8時に行く予定が、タクシーが渋滞につかまり8:50ぐらいになったが、それでも人が少なかった。以前は入場料が30元だったようだが、60元になっていた。高くなったものの60元払う価値は十分にある! (左)武侯祠に入ると正面に劉備像が見える! (右)われらが劉備像。この廟の回廊に左は武官、右は文官とずらっと像が並ぶ。 劉備の横には劉諶(りゅうしん)の像がある。劉備の子供である劉禅は暗愚でありついに魏に攻め込まれた。北地王に封じられていたが。263年に鄧艾が成都に侵攻し、劉禅があっけなく降伏しようとすると、戦って死ぬべきと主張した。そのときだけは劉禅は強く諌め、反対されてしまった。そして、その日のうちに祖父である劉備の廟の前で悲しいかな妻子を殺してから自殺したのである。今となっては劉禅の墓はどこにもないのだが、劉諶はこうやって祖父の像に横に祀られているのだ。後世に名を残す死に方であったのだ。後世の人たちの気持ちがわかるというものだ。 そして、回廊であるが、武官と文官の順番は以下のとおり。 【武官】趙雲、孫乾、張翼、馬超、王平、姜維、黄忠、廖化、尚寵、傅セン、馬忠、張嶷、張南、馬シュウ 【文官】ホウ統、簡雍、呂凱、傅トウ、費イ、董和、鄧芝、陳震、蒋エン、董允、秦ピ、楊洪、馬良、程畿 武官に魏延がいないのはわかるが、馬岱がいないのが意外である。 泣いて馬謖を斬るの、馬謖もいない。 (左)これが武侯祠の諸葛孔明像だ。漢中にある像の顔とよく似ている。 (右)劉備の墓である恵陵。ここに来たかった!竹林の通りを抜けるとここにつくが、とても厳粛な雰囲気になる。 漢昭烈廟や武侯祠でもう十分に満足するのであるが、さらにその奥に三義廟がある。たく州が本家であるが、最近はどこにでも三義廟ができてきている。表のおみやげ屋では、三義に関する置物や人形もずらっと並んでいるほどだ。ここの関羽、張飛像はよくできているので必見。劉備は・・ (左)三義廟入り口。 (右)関羽像! おまけであるが、武侯祠の横丁にはお土産物屋がずらりと並んでいる。ここには、劉備、孔明はじめ関羽、張飛、馬超、黄忠などの人形もあってかなり楽しめる。スタバでのんびりコーヒーを飲むのもおつなものだ。 (左)思わず買ってしまった人形たち。 (右)劉備孔明は外せないとして、関羽、張飛も購入。スタバでコーヒー飲んでいると趙雲も欲しくなり、結局5体購入。大満足。 2013年5月訪問
南河にかかり武候祠の東側に位置する。孔明諸葛亮が費イを呉へ使者として送る際「万里の路、この橋より始まる」と嘆じたことから命名された。南宋時代に再建されたが現在のものは1996年竣工。ただ、万里橋はしたの写真のとおり、ただの交通量の多い橋であった・・。この橋よりも武侯祠寄りにある彩虹橋には、諸葛公明や劉備、関羽、張飛、趙雲、馬超、蒋エン、張松、馬良、ホウ統などの絵が描かれており、楽しめた。
(左)ただの交通量が多い橋なのであるが・・。 (右)川の畔には雰囲気のいい建物とカフェ(木の下)がある。 (左)南門橋のひとつ西側、武侯祠寄りにある彩虹橋。こっちも交通量が多い。 (右)彩虹橋に描かれている劉備。なかなかいい感じだ。 2013年5月訪問 消滅!
成都市街地の北西部にあり、地下鉄2号線で「一品天下」下車。文革前は黄忠祠、墓、像があったようだが、今は何もなく当時を偲ぶことすらできない街になっている。黄忠街や黄忠小区というバス停の看板を見ながら、成都の発展ぶりに唖然とするばかり。
1回目は夜にいったが、普通の都会でまったく黄忠を偲ぶことはできず。2回目は昼にいきマンション群に忍び込むが、何も残ってなかった。 (左)地下鉄の一品天下駅にある近辺図。見事に黄忠村一角が再開発されている。 (右)黄忠街には店もあるが少し寂しいか。
成都市北部にある山で、蜀の始まりといわれる場所。
成都から西へ50~60Km、バスで約1時間ほど行った大邑県にある。ここには趙雲墓と廟があり、趙雲の子供の趙統、趙広像もある。かつては大邑の東2里にあったが、文革で破壊され、現在は大邑県職業高等中学になっており、子龍閣があるのみ。現在のものは静恵山公園内に1985年に再建されたもの。ここの趙雲像は青年将軍のイメージがもろくも崩れるが、中国では老将というイメージが強いようだ。なお、廟の横には望羌台という物見台があり、かつて趙雲が羌と戦ったときに物見台として使用した場所である。
成都双流空港近くの牧馬山にある。しかし地図で確認できず到達することは困難か!?
成都の地元新聞より(りおさん情報):成都空港近くの「牧馬山」一帯は三国の時、諸葛孔明指揮する蜀軍の駐屯地であった。駐屯当時井戸が造られていたという記録はあったが、牧馬山のどこにあるか分からず、これまで専門家達は井戸発見に手を尽くしていたがずっと謎のままだった。ところが今年の3月、成都警察学校の学生達が野外で訓練していた時、学生の一人が一つの廃棄された井戸に落ちてしまった。その学生は無事に救出されたが、学校当局は井戸の古さに注目し、成都考古隊の専門家を呼んで調査をしたところ、その井戸は三国時代の井戸ということが分かったとのこと(天府早報)。
成都から火車(電車)もしくは汽車(バス)で行けば1時間ほどの街。駅前は開発中で、ホームは和階号(新幹線)が乗り入れできるように工事がほぼ完了している感じだった。火車駅から汽車駅(北)までも400mほどで火車駅から汽車駅が見える。新しい交通基地のようになっている。駅前にはタクシーやバスがあるが、ほう統祠がある白馬関まではタクシーで15分ほどでいける。ほう統祠もリニューアルしており、徳陽駅近辺でも有名だ。 諸葛亮と並び称された軍師ホウ統の墓。入蜀時、劉備は関羽、張飛、趙雲、諸葛亮を荊州に残し、ホウ統を従えた。それが裏目にでたのか、彼をらく城攻略時に失ってしまう。誠に惜しい死である。ここの山門の左右に「鳳雛碑廊」という回廊があり、後人の詩文が陳列されている。前殿は諸葛亮とともに祀られた「龍鳳二師殿」があり、後殿はほう統だけを祀った「栖鳳殿」がある。後殿の後ろにほう統の墓があるが、そこは鹿頭山といい墓が丁度山頂にあたる。墓以外は清代に建設されたものだ。また、前殿の前にある柏は張飛がほう統を悼んで植樹されたと言われている。この木は2本あり、「龍鳳二師柏」と呼ばれている。
なお、ホウ統祠から北に向かうとほう統が流れ矢に当たって死んだとされる「落鳳坡」がある。しかし、これは三国志演義の創作による遺跡。実際にほう統が死んだのは、広漢市にある{各隹}城(らくじょう)攻略時だ。 このあたり一体は観光開発を行うべく、大々的に工事をしていた。ホウ統祠から少し北に行き道並み道を探してみたが、落鳳坡は見つからなかった。代わりに古鎮があって、風情があった。 2013年5月訪問
ほう統祠の西側にある。108号線からほう統祠に向かう途中にある。晴れていれば景色がいいだろう。
2013年5月訪問
ホウ統祠を出た正面にある小高い丘は、諸葛瞻(しょかつせん:諸葛亮の長男)が魏の鄧艾(とうがい)の攻撃を防いだところと言われている。 ホウ統祠にあった写真では、袁家鎮双江村・宏恩村にあると書いてある。そこでそのあたりに行ってみたが、地元住民でも明確な場所はわかっていないようだった。それでも、当時を偲びながら、のどかな農村を歩くのも悪くはなかった。 なお、後記のように綿竹市には、諸葛双忠墓祠がある。 (左)宏恩村の役場? (右)そこだと言われた場所に行ってみたら山の上だった。このあたりで激戦があったのだろうか!? 鄧艾が険しい山を越え出てきた場所が江油市の平武県。平武鎮までいく途中の南覇鎮に関がある。ここで実質的に蜀が滅亡したと思えば、感慨深い。成都から江油火車駅まで2時間30分、そこから汽車(バス)で平武行きに乗り南覇鎮まで1時間30分。とにかく遠い。 江油市の郊外を超えるとすぐに山道となり、途中からは川沿いの道を蛇行しながらバスが走る。遠すぎて腰が痛くなってしまったが、行く価値あり。蜀漢江油関で売り出そうとしているようにも見え、微妙に観光開発をしようとしている。宿泊すれば山に囲まれ、川沿い歩けばとても気持ちいいだろうが、大きなホテルもなく、日帰りするほうが無難か。 2013年5月訪問 蜀に入るには険しい秦嶺山脈を越えなければならない。いくつか道はあるのだが、鍾会(しょうかい)と効を争っていた鄧艾(とうがい)は山岳越えで一気に首都・成都まで攻め入る作戦をとった。諸葛孔明が死んで30年後の263年の初冬10月のことである。鄧艾率いる2万の兵が熊手を持ち、山道を開き、崖をよじ登り、絶壁に桟橋をかけて、時にはトンネルまでほって突き進むが、大山脈はどこまでも続く。2000メートルから3600m級の山が連なる山系である。狼やヒグマもでるような場所だ。300キロほど進み、最後の難所の摩天嶺を超えて、ついに益州の平野に入ったのである。 諸葛孔明の頃は、要所として常に兵が常駐していたが、劉禅がそれを廃して久しく、鄧艾は難なく江油城に突入した。馬邈(ばばく)という城将がいたが、大の酒好き。こんなころに敵兵がくるとも露知らず、しかも弱兵がいただけだったので、鄧艾は難なく入城できたのであった。その後、諸葛孔明の子や孫が奮戦するも鄧艾の相手でなく、成都に迫った鄧艾に劉禅もあっけなく降伏するのであった。 江油はそういう意味では、蜀が滅亡した地と言えるのだ。鄧艾は叩き上げ、鍾会はエリートであるが、鄧艾の山岳越えまでするような強い精神力の勝利といったところか。川が流れているので、雄大な景色のなかにも美しさがあり、当時の状況を想像することはできない。しかし、周りを見渡せば高い山々に囲まれており、鄧艾はどこから来たのかと想像するのも面白い。 その後の人間模様が凄まじい。 蜀の最期の知勇兼備の猛将姜維は、漢の再建を願ってやまなかった。姜維は江油からさらに北の剣閣で鍾会と戦っていたが、劉禅の降伏を聞いてやむなく開門。プライド高い鍾会をそそのかして成都で独立勢力を作ることを企てる。その後、鍾会を騙して漢朝復興を行う算段だ。姜維や鍾会と犬猿の仲だった鄧艾は罠にかけて牢屋にぶち込んだものの、結局は司馬昭にはかなわなかった。鍾会が姜維とともに成都で旗揚げしようとしたが、鍾会は司馬昭親派の武将達にあっけなく討ち取られ、姜維も魏兵に取り囲まれて自刎した。59歳であった。そのときの成都の事変はすさまじく、大火が遠くまで見えたようである。その後、鄧艾も魏兵達に斬られ、蜀を滅亡させた3人の主役はあっけなく死んだ。その後、司馬昭の天下になっていくのだが、曹操、曹丕が作った魏も、司馬一族に牛耳られ、司馬昭に抵抗しようとした鍾会では力不足、まして、姜維の願いである漢の復興も人々は望んでおらず、時代はすでに変わっていたということか。司馬昭が魏に変わって王朝を建てようとしたそのときに司馬昭も急死し、その子の司馬炎が晋の国を建国した。 (左)鎮の入口にたつ街名を描いた看板。 (右)山手の道を歩いていくと、蜀漢江油関の大看板が見えてくる。 (左)街の山手にある関を模した建物。イマイチ趣旨がわからない。開発しようとしている感じは受けるが・・。 (右)壁の一部に蜀漢江油関と書かれている。 2013年5月訪問 蜀の守将である馬邈(ばばく)は真っ先に降人となって鄧艾に降伏する。しかし、それを見た女房の李氏は夫に走り寄ってきて「男に生まれてきてよく平気で国を売り、城を明け渡せるものですね。私はそんな腰抜けの女房でいたくありません。」と罵り、夫の面にツバをひっかけて去った。そして、悲しいかな川に飛び込んで亡くなったのだ。夫の墓はどこにも残っていないが、女房の墓はしっかりと残っている。しかも「漢守将馬邈(ばばく)忠義妻李氏故里」と書かれているのだ。 山岳越えでへとへとになった鄧艾に勝利するのは簡単だったはずだ。しかし、暗愚な劉禅が、これまたぐうたら大将を配置していたばっかりに、蜀は滅亡してしまった。遅かれ早かれ蜀は滅亡する運命にはあったのであろうが、それにしても惜しい。 (左)名泉閣の横の細い道を登っていく。街並みはこんな感じ。 (右)少し登った角に石碑がある。写真右手に石碑があるが、何を書いているのかは、もうわからない。新しくなってほしいものだ。 成都から少しだけ北にいったところに綿竹市がある。綿竹といえば、魏の鄧艾と戦って戦死した諸葛瞻と諸葛尚親子を祀った祠と墓があるのだ。確かに成都まで車で1時間ほどだろうし、蜀の都のすぐそこという感じだ。田舎の小さな街といった風情だ。徳陽からも近くて、汽車(バス)で1時間ほど。タクシー飛ばせば30分ぐらいでつくのではないかという距離。 ここで壮絶な戦いがあったのかと思いきや、綿竹のホントの場所はわからないのだ。本によって記述がまちまちで、羅江県白馬関郷がそうだ、という場合と、徳陽市黄許鎮(市街地から北で市街地と羅江県の間ぐらい)という記述もある。いまの綿竹市ではなさそうだというのは確かそうである。でも、まー、祠があるのだから、行かないわけにはいかない。 成都から直通バスもあったのだろうが、徳陽まで火車(電車)でいき、そこからバスにした。成都から2時間30分ほどで到着。なお、「緜竹」と書く場合もある。 2013年5月訪問
263年、曹魏の鄧艾の攻撃を受け、蜀最後の防衛線であった綿竹にちなんで建てられた祠。魏の鄧艾と戦って戦死した諸葛瞻(諸葛亮の子)と諸葛尚(諸葛亮の孫)親子の墓がある。最期の血戦の様子を復元した像があったが、2008年の地震があり崩れ2010年に修復されたときになくなったようだ。1800年経った今でも、諸葛亮の子や孫は立派に戦ったことをたたえ、祠を大事にしている現地の方の気持ちが伝わってくる。
なお、ややこしいことに、ここの地名の綿竹は、隋の時代に名づけられたもので、三国時代の緜竹は羅江県白馬関郷あたりだといわれている(綿竹城遺跡参照)。同じ名前ということで祠があるが、激戦の地は徳陽あたりとなる。 成都から徳陽まで火車で1時間、徳陽から綿竹行きのバスに乗りさらに1時間。汽車駅(バスステーション)が郊外に移転したため、そこからタクシーで祠まで約20分。なお、成都から綿竹行きのバスもある。
三国時代はふ城と呼ばれたこの地は古くから成都の喉元と言われたところだ。劉備が入蜀したのも魏に降伏するために姜維が赴いたのもこの地である。なお、「ふ」は「シ(さんずい)」に倍の右側と書く。
劉備が最初に蜀に入ったときここで劉璋と会った。このときは劉璋の天敵である張魯に備えるために劉備を呼んだので、友好的であった。劉備は蜀の地が富盛んなことを喜び、飲食を楽しんだためにこの名前がついた。ここは市内地図には必ず掲載されている場所であり、公園になっている。中には「富楽堂」、劉関張の「三兄弟像」、劉備と劉璋が会見した様子を彫った「綿州碑林」、会見の模様を模した銅像群がある「ふ城会館」、蜀の猛将5人衆「五虎将像」、ほう統が劉備に献策している「劉備ほう統像」などがある。
綿陽北駅の西側にある。蒋えんは諸葛亮亡き後、丞相となり蜀を支えた。像と廟があり、廟から少し離れたところに墳墓がある。
市内地図にも載っている。 広元市は1991年に三国志演義学会を作ったらしく、三国志遺跡が多い都市ならではである。広元市区には三国遺跡がないものの、周辺に散らばっている三国遺跡の拠点となる街である。市内には嘉陵江と南河が流れ、街の南で合流しており、川沿いに発展した街ということがわかる。また、ここは武則天(*)の故郷でもある。
(*)武則天(ぶそくてん 623年-705年 在位690年-705年)は中国武周朝の創始者。唐の高宗の皇后。姓は武。諱は照。中国史上唯一の女帝となり武
周を立てた。日本では則天武后の名前で呼ばれることが多い。創業期を過ぎた唐の政治的矛盾を改めたことで政治的手腕の評価は高い。(参考Web)
2016年5月訪問
広元市中心部から車で北34キロのところにある。少し北に行けば陝西省になり、古代金牛道の重要な関所であった。
「巴山蜀水」という美しい風光もさることながら、水路、古桟道、鉄道などが通っているため「古今の水陸六道を1峡に集める」という特徴の眺めがある。この明月峡は、孔明が魏討伐の遠征軍を率いて通過したところであり、孔明は北伐にあたり大量の人力、物力を動員して金牛道を整備し、多くの関門と駅亭を作ったようだ。孔明は5度におよぶ北伐のたびごとに、ここにひそかに軍を集結して演習を行い、また、「後出師の表」もここで書かれたと言われている(この出師の表は孔明自ら書いたものかどうか疑問視されているが)。
渓谷の長さは3キロ、両岸に高い山が迫り、嘉陵江はこの渓谷を抜けて南に流れる。新しい古桟道を復元させている。東の岩壁には上中下3段の四角い穴があり、その穴は400個以上あるらしい。上段は屋根を渡すため、中段は橋げた用、下段は中段の支柱を下支えするためのものである。
今では観光地になっており立派な門もある。嘉陵江ののどかな流れを堪能するのもいいものである。 2016年5月訪問
広元市昭化鎮。広元市からすると南西方向。蜀の歴史の特徴は「蜀は葭萌(かほう)に興り、緜竹に滅んだ」と言われている。つまり、この昭化で蜀が始まったわけだ。劉璋の天敵である張魯を討つべく、劉璋の要請で劉備は蜀に入った。その場所がここ。このとき劉備は地名を「漢寿県」と改めており、昭化という名は宋代にできたものである(967年)。ここは、費いや姜維も守備についたことがある場所であり、費いの墓も近くにある。今も明代の城壁が残っており、その門をくぐれば昭化の街に入る。今では観光地として整備されており、多くの観光客でにぎわっていた。広大な駐車場もあり、高速道路のインターチェンジが近くにでき、広元からわずか30分ほどで行ける。嘉陵江と白龍江が合流する地域の広々とした大地にある。
2016年5月訪問
張飛と馬超が一騎打ちを行ったところ。二人の戦いは決着がつかなかった。三国志演義に記述がある史跡である。昭化古城の臨清門のすぐそばにある。「は」は{土+覇}。左の写真はろう中・張桓候廟にある張飛と馬超の戦いの像。
2016年5月訪問
昭化古城の臨清門を出て500mくらい行ったところにある。費いは威張らない性格で金銭欲もなくずば抜けた洞察力の持ち主だったので、諸葛亮に重く用いられた。また、成都にある万里橋から出発し、呉に使いしたがそれも見事に役目を果たした。孫権も費いを賞賛してやまなかったという。245年に蒋えんが亡くなると、大将軍(武官の最高位)、録尚書事(文官の最高位)に就任し、軍事、内政の両面で蜀の国政を担った。253年、この昭化に丞相府を設置して政務をとったが、新年祝賀の席で魏の降将郭循に暗殺された。無類の酒好きがたたって、あっけない最期となった。いまでは費い墓も廟が建てられて立派になっている。
昭化古城に向かう途中にあるようだ。
関羽の三男である関索の妻の墓。しかし、彼の名は正史にないため架空の人物ではないかといわれている。鮑員外の三番目の娘は武芸が達者であったが関索に負けてしまった。それをきっかけに結婚するが、彼女は葭萌関を守って戦死したため、ここに墓が建てられた。なお、架空とされている関索であるが「花関索伝」なる小説もでているほどの人気がある。親の七光りか!?
2016年5月訪問
広元からチャーターした車で約1時間。高速で剣閣ICまでいきそこから山道になる。
263年、蜀は魏の総攻撃を受けた。鐘会の大軍を姜維はここ剣閣で支えたが、別働の鄧艾が江油から緜竹へ進み、諸葛瞻親子が玉砕し、劉禅は一線も交えずに降伏した。現在ある剣閣は観光客用に作られたようで、姜維が立てこもった昔の剣閣は右手の断崖絶壁である。現在は広大な観光地となっており、姜維関連遺跡のほかにアスレチック的な道もある。ロープウェイに乗り降りてからかなりの急斜面を岩をくりぬいた感じの烏道を歩く。すこし油断すると崖の下に落ちてしまうかと思われるような道だ。でも、そこからの景色はまさに絶景。遠くに剣閣が見えて雄大な景色を楽しめる。また、ここには「鶴鳴山(かくめいざん)」があるが、後漢末に張魯の祖父にあたる張道陵が初めて道教を唱えて昇天した跡と言われている。
魏将鐘会(しょうかい)と戦った剣門関に姜維を記念して建てられた墓碑がある。かつては祠もあり姜維像があったらしいが今は墓だけ(衣冠塚)。姜維は魏軍の攻撃によく耐えたものの、数的に不利でもあり、魏軍は徐々に蜀に侵攻した。姜維は最後の策で鐘会に独立をそそのかし、鄧艾を殺すことに成功した。しかし、すでに謀反を察知していた司馬昭により鐘会ともども魏兵に殺害された。また、墓の裏手の山頂には、姜維が駐屯した営盤嘴(えいばんすい:姜維城)がある。
剣閣県から108号を南下し普安鎮を右に折れて山道をいった北廟郷というところにあるようだ。司馬昭に謀反を疑われ、鐘会が殺された後に鄧艾も殺され、異国の地となるここに、息子の鄧忠とともに葬られた。
2016年5月訪問
成都陥落後、皇帝劉禅が魏へ護送中に、この木の下で雨宿りをしたと伝えられている(樹齢2000年以上)。柏樹湾という剣閣県から南に5Kmのところにある(車で20分ぐらい)。四川省北部に何千本と植林されている木の1本である。地元でよく言い伝えられたものだ。翠雲廊と呼ばれる街道にあり、総延150Kmで剣閣県を中心に、北は広元市の龍潭から西南は梓潼(しどう)県、東南はろう中県と4県にまたがっている。
翠雲廊は観光地用に整備されており、張飛井戸(写真右)や黄忠柏、魏延柏などもあるが、楼閣から見る剣閣の峰は素晴らしい。 阆中 広元から嘉陵江沿いの212号線を延々と走るとこの街がある。今では高速道路があるので広元からは約2時間。成都への直通バスもある。閬中は昔はこのあたりの都であったこともあり、古い街だ。嘉陵江に囲まれたような旧市街地はなかなかの街並みである。普通に観光地であり人通りも多い。瓦の屋根も美しい街である。 なお、「ろう」は門がまえに良と書く。 2016年5月訪問
ここは張飛ご臨終の地だ。張飛は死ぬまでの7年間、ろう中牧だった。漢中牧になるのは確実と思われていたが、そっちは魏延がなり、この山間の田舎町は張飛が治めることになった。三国志演義では荒くれ者というイメージが定着しているが、実際は繊細な心の持ち主だった。その証拠に、巴郡(重慶)を守っていた厳顔を巧みな計略で生け捕り、そして、その縄を解いてあげることで厳顔を心服させた、というエピソードが残っている。また、張飛の政治の特徴は廉政、清白であり、ろう中では今でも尊敬されているそうだ。現在ろう中は絹の産地のひとつだが、地場産業振興のもとを作ったのは張飛である、と言われている。
豪傑張飛の最期はあっけなかった。義兄弟の関羽が孫権に殺され、その弔い合戦の出陣間近のとき、部下に白装束を3日以内に準備しろと命じる。しかし、それは無理な話しで、部下の范彊、張達に寝首をかかれてしまった。そのふたりは呉の孫権への投降の手土産に、張飛の首を船で運ぶ途中、長江に落としてしまった。そして、その首が流れ着いたところが重慶市雲陽というわけだ。 張桓候廟はろう中の中心的観光地。旧市街地の中にある。そのなかに巨大な張飛墓がある。
ろう中城から東北方面にいったところの蒼溪県双山にある。張飛と張こうが戦った場所。
広漢は三国時代には「{各隹}城(らくじょう)」と呼ばれた。成都からバスで約1時間弱行ったところで、立派な城がある。
張任は成都防衛の最期の砦であり、ほう統が戦死したのもここを攻めているときだ。張任の墓は金雁湖付近の畑の中にある。また、市内の「金雁大橋」は張任が敗北し捕らえられた場所である。諸葛亮の計略によって張任が城を出た後、この橋を落とされて捕らえられている。張任を劉備配下にできていたら、その後もかなり活躍しただろうに、惜しい武将をなくしたものだ。この付近には古代長江文明を代表する「三星堆遺跡」もある。
成都と重慶の間にある街。現在は成都からも重慶からも高速道路ができているしCRHもある。CRHを使えば成都東駅から1時間30分。ろう中からはバスで1時間30分。
2016年5月訪問
もともとは魏の将軍。しかし徐晃とともに戦った蜀との戦いで破れ、蜀に投降。漢水一帯の地理に詳しくて、偏将軍に任じられた。その後、諸葛亮とともに南征に参加したり、街亭の戦いでは馬謖の副将として参加した。巴西郡の人なので、この地に墓がある。死後、故郷に運ぶときに途中のこの地で墓を作ったものと思われる。
左の写真が、南充市区から南方面の、高坪区永安郷臨江村鳳凰山のふもとにある墓。右が南充市街地にある白塔公園の墓。 1
2016年5月訪問
果山公園内に237年に建てられた三重の楼閣。ご存知、正史三国志を書いたのは陳寿、その正史を書いた場所にちなんで建てられたのがこの博物館。当初は蜀の臣下だったが、後に晋の臣下となり、正史を書き上げる。微妙な立場だったので、蜀に関する記述はともすれば事実が歪んでいるかもしれない。陳寿は280年頃からここで三国志を著したと言われている。また、陳寿記念館の隣には、世界中で出版された三国志を収集した蔵書楼がある。楼閣に向かう道には三国志の名場面を描いた絵もあって、見所満載。南充市街地の眺望も良い。
2016年5月訪問
陳寿の師匠。蜀の文官で天文に通じており、劉禅に降伏を勧めた人物でもある。市区内、果山公園にこの墓はある。文化村の隣。
街の中心部にあり、南充市人民の憩いの場である。
【その他】
四川省でも東北の奥地、ほとんど重慶市と陝西省の境目になる「達州市万源」には徐庶が隠居していたと言われている。
また、成都の南西に「雅安市蘆山県」というところがあるが、そこには姜維候祠がある。はたまた、最近、有名観光地となった九寨溝の近くに「{三文}川県」があり、姜維の点将台があるようだ。点将台といえば、峨眉山市の北、「来江県」に諸葛亮が南征時に使った点将台がある。四川省は調べればいくらでも三国遺跡がある。
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