トップページ > 三国志データベース > 三国遺跡(江蘇省)


さすがに沿岸部とあって発達している街が多い。上海から近く、上海地区に進出していた日本企業の工場が、少し内陸部に入っていった感もある。江蘇省
は縦に長く、北部と南部で大きく違いがあると思われる。三国遺跡以外にも揚州の運河や項羽・劉邦の前漢時代の見どころが多い省である。

北部は交通の便から言って、ほとんど山東省の一部の様相を呈す。上海経由で北部の中心地、徐州にいくには電車で8から10時間ぐらいはゆうにかかる場
所だ。いっそのこと青島から入るほうが早いかもしれない。それだけに行きにくい場所でもある。しかし、このあたりは三国時代の前半(というか後漢末期という
ほうが正しいか)の舞台となったところで、是非行きたい場所である。

南部は南京や鎮江といった三国時代真っ最中の舞台や、三国時代終焉の地もある。もちろん南部は呉の国の拠点都市が置かれた場所だ。南京なら上
海から電車で4時間でいけるし、日本からの直行便も出ており、比較的行きやすい場所だ。

【江蘇省地図】


鎮江市 鎮江市街 試剣石、甘露寺、魯粛墓、太史慈墓、伯先公園(算亭)、西津渡街
南京市 南京市街
孫権墓、諸葛飲馬処、諸葛駐坡、石頭城
徐州市 市内 華佗像
沛県 呂布射戟台
き寧県古{丕β}鎮 下{丕β}城白門楼(白門楼水門)
丕β州市土山鎮 関帝廟
淮安市 {目干}{目台}くい県 劉備vs袁術古戦場など



上海から火車で約4時間、江蘇省の省都でもあり人口600万人の大都会。地下鉄も開通し移動も便利になった。三国時代には呉の孫権が都を置いた場
所であり、呉関連の遺跡がある。街を歩けば城壁をいたるところで見ることができる。

  2004年9月、2005年9月訪問
南京市鐘山風景区梅花山石象路沿い。南京博物院から中山門の城壁を乗り越え明陵路を歩く(中山門までは游1、游2、游5、9線など、市内から何
本もバスがでている)。その通りは城壁と並木が素晴らしく歩いていて気持ちいい道だ。しばらくいくと前湖を左手にみつつさらに歩く。博物院から歩くこと1時
間弱、ようやく公園入口と右手に石象路が見える。ここから公園内なので入場料を払う必要あり。入場券はいくつか種類があり、明孝陵(朱元璋)だけ、中
山陵(孫文)だけ、全コースなどである。全コースは100元を越えるなどかなり高いが私はおばちゃんのおしゃべりによりタダで入れた。石象路を歩いて坂道の
頂上あたりの左手に墓標が立っている。私のコースから行けば、墓標はかなり見にくいので要注意。私は一度通り過ぎました・・・。ちなみに、孫権像は探した
もののわからず。
⇒孫権像にいけなかったので、1年後の2005年9月に再度訪問。墓標の位置からして、どう見てもそっちにはないだろ!と思わせる位置に像があるのがにく
い!芝生の広場が前にあって、いいところだった。

これが初めての蜀将以外の遺跡だ。呉の国に入ったからには、孫権様のお墓を参らないわけにはいかない。そう思い日程上ちょっと無理して南京に来た。孫
権像は発見できなかったものの、三国志関係の本でよく出ている孫権墓の墓標が見れたことで、かなり満足だ。なお、孫権墓がある鐘山風景区は朱元璋
の明孝陵(世界文化遺産)や孫文の中山陵と、南京の超有名観光地がある場所だ。そのようなところは目もくれず、孫権墓だけ目指した。孫権墓は明孝
陵のふもとの梅花山にあるが、孫権墓のために朱元璋は神道を曲げて自らの墓を作ったのだ。そんなに崇められた孫権なのに、南京市内地図や観光地図
にはほとんど掲載されていないという扱いである(鎮江駅で購入した「江蘇省実用地図帳」の「南京旅游区」のページにようやく掲載されていた)。昔、このあ
たりを統治していた偉い方なのに!もっと南京に孫権様の遺跡を増やしてほしいと願う次第である。南京での孫権の地位向上を望む!
  
(左)この墓標は雰囲気がある。1957年8月30日にたてたというから年代ものでもある。
(右)孫権像。墓標の近くにある売店の右側を歩いていくと、右手に芝生広場を見ながら30秒ほど歩くとこの孫権像がある。顔がしぶい。2004年にはここに
これなかっただけあって感無量。フランス人らしき集団がこの墓を見学していた。孫権墓の前の広場では人民達がバトミントンなどをしており、かなり和やかな
雰囲気になる場所だ。なお、像の後方には試剣石など孫権にまつわる石画があるのでお見逃しなく!


  2004年9月、2005年9月訪問
南京市 石頭城公園内。清涼山公園大門から虎踞路を渡ると城壁が見える。そこは清涼門だ。そこをくぐると秦淮河沿いに公園整備されており、河沿い
に城壁が続いており、しばらく歩くと到着。近年、石頭城あたりは公園整備されているようだ。

ここは南京で最も行きたかった場所だ。南京は城壁が素晴らしい!そう感じさせてくれる場所のひとつがここだ。清涼門から石頭城までの遊歩道は、行く前の
期待に十分応えてくれるものである。綺麗に整備された公園と城壁が見事にマッチしている。行ってよかったとつくづく思う。南京は昔からいろいろと別名がつい
ており、秣陵(始皇帝が改名)、治城、金陵のほか、三国時代には石頭城や建業とよばれたのだ。孫権が南京に遷都してからは、石頭城とも呼ばれている
のだ。

この石頭城では、280年に孫皓(孫権の孫)が晋の王濬に降伏して、三国時代が終焉した。後漢末から90年ほど続いた内乱の時代がここで終わったのだ。
どこで晋の軍隊が整列していたのだろうか、孫皓はどこで降伏したのだろうか、などと想像してみる。現在の城壁は211年に秣陵に遷都された際に建てられた
が、さすがに当時の城壁は残っていない。修復された後がいたるところにあって、中には崩れそうな部分もある。なお、壁は赤みがかった礫岩や砂岩が混じって
おり、それが鬼の面に似ていることから「鬼面城」と言われているようだ。石頭城公園の案内板では鬼面城と表示されていた。

石頭城の横を流れる秦淮河は、孫権が「秣陵には小江があり大船をとめることができる。水軍を編成するにはこれ以上のところはない。」と言ったところだ。小
江とは秦淮河のことである。石頭城あたりの川幅はかなり狭いため、もっと長江よりに船団を編成しただろう。現在は護岸工事もされているため、川沿いの公
園と化している。また諸葛亮は秣陵を通過したとき、石頭山にのぼり、秣陵の地勢を観察したと言われている。鐘山は巨龍がわだかまっており、石頭山は猛
虎が伏せた姿に似ているので、孔明は感心した。「鐘山はわだかまる龍、石頭は伏せた虎、この地こそ帝王がおるべきところ」と孫権に言ったといわれている。
そして、作戦本部を鎮江(当時、京口)から秣陵に移すべきだと進言したという。

近年になって、公園整備されていると思われるが、南京の城壁を堪能するということでも素晴らしい公園だ。清涼門から石頭城まで当時を偲びながら歩くの
はおつなもの。公園も綺麗で歩くやすく、城壁を横に見ながら歩くことが出来る。なお、清涼門の近くに、石頭城の上にいける入り口があるが、そこから入って
石頭城の上へ行くという手もある。石頭城に上って、孔明のように南京の街を観察するというのもいいかも!?

2004年に行ったのがよかったで、2005年9月にも行ってみた。2004年は城壁に下を歩いたが、今度は上を歩いてみた。朝早かったので、それはそれはすがす
がしいひとときであった。石頭城の上にあるのろし台にも当然ながら上った。
 
(左)虎踞路を超え清涼門大街沿いにこの門がある。 (右)石頭城路にでる北側の入り口にたつ石看板。この石刻も新しいことから、最近になってこのあた
り一帯を公園整備したんだろう。
 
これが石頭城である!看板は新しいので近年、立て替えられたのだろう。城壁としては弱弱しいか!?


  2004年9月訪問
南京市 広州路と虎踞路の間にある烏龍潭公園の中にある。南京市内地図なら掲載されている。清涼山公園や石頭城に近いためセットで来るといい。
広州路も虎踞路も交通量の激しい道のため、かなりの喧騒だ。しかもこのあたりは下町なので、ごみごみしている。公園入り口はよく探さないと見過ごしてし
まう。この公園は都会の中にあるひっそりした公園で、近所の人の憩いの場になっているようだ。入場料は4元である。ちなみに私が行った日は休みだったが、
頼み込んで何とか入らせてくれた。ただ、諸葛飲馬処の近くの外壁を工事していたため、そこから自由に出入りできるというおまけつき。
この場所は、諸葛亮が馬に水を飲ませた場所と言い伝えられており、諸葛亮が「帝王の地」と言った話の一場面がここでもある。この公園は、その名のとお
り、烏龍潭を囲んで作られた公園であり、その一部に諸葛飲馬処がある。特にテーマが決められている公園でもなく、市民公園の一角にこの三国遺跡がぽ
つんとある感じ。ただ、烏龍潭の周りをのんびりと歩いていると気持ちがいい。
 
(左)これが諸葛飲水処だ。烏龍潭から少しだけ離れているが当時はここまで水があったのか?
(右)虎踞路側の入り口。門をくぐると、この石板が迎えてくれる。この作りは重々しい。


  2004年9月訪問
南京市 清涼山公園内東大門付近。清涼山公園は南京市内地図に必ず掲載されており、虎踞路沿いにある。私は烏龍潭公園から歩いていったが10
分程度で到着する。

清涼山公園大門から入らずに、わざわざ東大門から入ろうと思ったのだが、それがよかった。東大門の外にはすぐにバス停がある。その付近の公園壁面に大
きな石刻がある。諸葛孔明が呉の国に来て、この地を褒め称えている図だ。大門から入っていれば、駐馬坡だけ行って、東大門の外までは行かず、その石
刻が見れなかっただろうから、東大門から入ってよかった。その石刻は見る価値がある。諸葛駐馬坡は、東大門から入ってすぐのところにあり、入場料を払わ
なくとも公園の外から見ることができる。外から見るだけにしようかと思っていたが、せっかくなんで8元を払って中に入った。駐馬坡の前はちょうどアスファルト工
事をしていて、かなり臭いがきつかった。ここは、諸葛亮が秣陵(南京)の地勢を観察したのはここだと伝えられている場所であり、馬をつないで「鐘山は龍がわ
だかまっているようだし、石頭は虎が伏せているようだ」と評したといわれている。虎踞路という名前もそこからきているようだ。
 
(左)清涼山公園東大門の入り口付近にある駐馬坡。
(右)東大門を出ると「武侯駐馬」と描かれた壁があり、バス停の近くにこのような石刻がある(これは諸葛亮)。「孔明」と書かれている。




南京の隣町。南京からバスで2時間近くかかった。上海からなら火車で約3時間30分程度。こじんまりした街なので、1日もあれば回れる。火車駅やバス駅
を降りると、どことなく田舎街の感じがして親しみやすさを感じた。孫権や劉備関連の遺跡があり、特に甘露寺は1日ゆっくりしてもいい場所だ。

2015年5月に2回目の訪問。上海虹橋駅から新幹線でノンストップで50分。近くなったものである。開発がかなり進み、田舎町の面影もなくなってきているが、長江沿いの歩道も整備され、癒されに行くにはいいところかもしれない。


  2004年9月、2015年5月訪問
鎮江市 北固山公園 大門を入ってすぐ。鎮江国際飯店から輪タクで10分ほどで到着。鎮江の代表的な観光地である北固山公園にある。入場料は30元(2015年:甘露寺の入場料は40元になっていたが、試剣石は有料区域の外にありタダで見れるようになった)。試剣石を見たいがために鎮江に来たと言っても過言ではない。この石の言われから期待していた場所だが、劉備と孫権が妙に接近しているのにはたまげた。これがかの有名な石か、と思うとその場にいることに感動するものの、池は汚いし、石はうさんくさいし、劉備と孫権像もどうも気味悪いし、いただけない。

この石のいわれはというと「演義」での話しのためもちろん架空であるが、劉備と孫権がお互いの心中ひそかに「天下を取れるなら石よ割れろ!」と願って剣を振り下ろすと、あら不思議、劉備も孫権も石を割ることが出来たのだ。孫権の妹を劉備に嫁がせたとはいえ、利害は相反する。お互いに、天下統一を夢見て心中喜んだということだ。それなら石が4分割されているはずなのに2分割とは何故?と思ってはいけない。ここにくれば願いがかなうんだと思いながら(自分に言い聞かせながら)、堪能するのがよい。ん?お互い天下統一できてないから、願いは叶わないのか!?
 
(左)大門を入るとこの光景が迎えてくれる。いきなりたまげる。密着しすぎている劉備と孫権。 ※2015年には甘露寺の外にあるので、道路から見れる。
(右)これが試剣石だ!割れている石が2つあるためちかわからなかったが、よく見ると試剣石と書いてあった。この池を作った人も、どっちにしようか迷ったので
はないか?


  2004年9月、2015年5月訪問
鎮江の代表的な観光地である北固山公園にある。試剣石を過ぎてしばらく行って山に上ったところ。入場料は30元(2015年:40元になっていた!)。
生涯行った寺のなかで最も感動した寺だ。四国出身者の私としては88ヵ所巡りまではいかないものの、今まで何度も寺に行っている。そんななかでも、これほど気に入った寺はない。もちろん劉備関係の寺という特別な思いいれがあるものの、寺の門額や雰囲気、見どころなど、すべてにおいて素晴らしい。試剣石を見たことなどは吹っ飛ぶぐらいであった。とにかくこの寺には三国志関係の遺跡が多い。というもののこの寺にある遺跡は三国志演義での話なのですべて架空である。甘露寺が建てられたのは、劉備と孫権が死んだ後の256年(一説には270年)だから、当然史実ではないのだ。どんな遺跡があるかというと以下のものがある。
@孫権が妹を劉備に嫁がせる際、呉国太(孫権の義母)が劉備の品定めをしたという寺である
Aその品定めをしたとも孫尚香(孫権の妹)が婚礼時に化粧や着付けをしたといわれる多景楼
B劉備と孫権がここに座って曹操対策を練ったという狠石(こんせき)
C孫権が南方人は馬に乗れないと劉備に馬鹿にされたと思い、劉備と孫権が馬術を競った溜馬澗(りゅうばかん)
D遠い白帝城で劉備が死んだと聞かされここに留まっていた孫尚香が自殺したと言われる祭江亭(凌雲亭)
といった具合で史実と思わせるようなものばかりだ。しかし、三国志演義で「甘露寺」の役割は重要であり、なくてはならないという印象が強い。それだけ後世の人たちが三国志を愛し、この寺と劉備の婚姻は切っても切れないものとなってしまったんだろう。なお、劉備が荊州の土地の件で鎮江に来たことは事実である。
 
(左)甘露寺の門構えは素晴らしい。寺とは思えない入り口がかなり気に入った。
(右)孫尚香が自殺したと言われる祭江亭(凌雲亭)。ここから飛び降りても死ねないでしょう、さすがに。痛いだけのような気がするが。

  
(左)長江下流の三大名楼と言われている多景楼。ここの2階で腰掛けて長江を見るのはおつなもの。風が心地よい。
(中)劉備と孫権が馬術を競ったという溜馬澗(りゅうばかん)だが・・・、どう見ても馬に乗るのは無理である。場所を間違ったか?と思ったが、岩の真ん中に
青い文字ででかでかと溜馬澗と書いてある。う〜ん、かなりの馬の乗り手だったのか!?
(右)劉備と孫権がここに座って曹操対策を練ったという狠石(こんせき)。羊の形をしている。言い伝えでは劉備孫権対談の生き証人と言われている。

2015年の多景楼、
狠石。多景楼はかなり豪華になっている!


  2004年9月、2015年5月訪問
鎮江市に2箇所ある。1箇所は魯粛墓跡地であり、第一中学校内に魯粛墓遺跡として碑が建っている。もうひとつは北固山公園の前峰ふもとにある。第一中学校から北固山公園に1993年に移設されたもの。なお、ここも入場料を払わないと行くことができない。どちらも地球の歩き方に掲載されているぐらいだからすぐにいける。第一中学校は鎮江駅からも歩けるが30分ぐらいか。そこから長江に向かって15分ほど歩けば北固山公園に到着できると思われる。

呉の将軍、魯粛の墓だ。呉関連の遺跡は南京の孫権墓についで2つめだ。まずは第一中学校に行ってみたが、この日は土曜日で門は当然ながら閉まっている。しかし、たまたま運動会。守衛のおっちゃんも気前よく学校内に入れてくれた。運動会で近所の人が集まるからだろう。校内に入り左手奥に魯粛墓遺跡を発見。その横では運動会開催中だったんで、魯粛墓の近くではウォーミングアップをする学生たちがいた。こんな校庭にこのような偉大な将軍の墓があるとは、おそるべし中国である。魯粛墓遺跡のまわりはこじんまりした林のようになっており、昔、墓があったということを偲ぶことができる。運動会さえなかったら、ゆっくりと堪能することができたであろう。

北固山公園内の魯粛墓は公園の端っこにあるため、下手をすると見落とす可能性がある。ほぼ東呉路沿いにあるが、公園内の整備された道路から、ほぼ獣道化した道を森の方に入っていかなければならない。おかげで靴がかなり汚れた。1993年に太史慈墓の横に移設されたものであるが、風格ある立派な墓であった。この公園に移設されたのは、北固山公園に三国志名勝を固めようという趣旨のようだ。  ※2015年に行くと甘露寺内に案内看板があり、順路のとおり行くと必ずたどり着ける。
魯粛は周瑜の推挙で孫権に仕えることとなった。あらゆる場面で劉備の見方となる。周瑜とともに曹操との対決を孫権に進言し、それが赤壁大戦となった。周瑜亡き後は軍師として活躍。演義ではあまり目立たないものの、個人的にはかなり好きな武将である。彼がもっと長生きしてくれていれば、関羽が死ななかったと思うのは私だけだろうか。今でも魯粛は人気が高く、鎮江だけでも墓が2箇所ある。このほかにも、魯粛の墓は江南のいたるところにあるようだ。地元民から愛されているのだろう。
  
(左)魯粛墓遺跡(第一中学校内)。少し手入れが悪いか!?運動会をしている中学生諸君、たまには草刈をしましょう!
(右)魯粛墓(北固山公園内)。本物の墓ではないものの、大将軍の墓、という風格が漂っている。思わず合掌してしまう。


  2004年9月、2015年5月訪問
北固山公園の前峰ふもとにある。魯粛墓のとなりにある。なお、ここも入場料を払わないと行くことが出来ない。行き方は魯粛墓参照。

経路から言うと魯粛墓に行った後、太史慈墓に行くことになる。魯粛墓と作りは同じであるが、こっちは本物の墓。ここは魯粛墓よりさらに東呉路に近いところにあり、昔は近隣住民の洗濯物や布団が干されていたようだ。しかし、今は柵ができているため、簡単に入ることができず、墓は完全に守られている。さすが北固山公園を三国志パークにしようという意気込みが感じられる。なお、太史慈墓には真新しい花が添えられていたのが印象的であった。昔、洗濯物や布団を干していた住民達が、さすがに悪いと思ったのであろうか。太史慈墓は本物なので、魯粛墓とは違う気持ちになる。こっちでも合掌。

昔はこのあたりに孫策(孫権の兄)の墓があったようだが、今ではなくなっている。誠に残念だ。個人的に孫策は好きなのであるが、ご当地ではどうも不人気のようだ。孫策は「小覇王」と呼ばれていた。覇王は項羽のことであり、項羽に次ぐ者という意味である。これは孫策と項羽は、出身地が近い、敵に対して容赦なし、過激な性格が禍し壮絶な死を遂げるなど、共通点が多いことに由来する。項羽は結局、劉邦に敗れた。そして孫策も暗殺された。よって、小覇王という意味は否定的な意味も込められているという説もあるようだ。そんなことから、孫策の墓はどこかにいってしまったのかもしれない。

 
魯粛墓とほぼ同じ作りになっているが、左側は山が崩れていた。墓と東呉路は目と鼻の先で交通量が多いため、かなりうるさい。

なお、墓標の裏に「太史慈は合肥で魏の武将、張遼の矢にあたりそれがもとで206年に死亡した」、と記載があるが、合肥の戦は215年に行われており、太史慈はもちろん参加していない。呉の猛将、太史慈は206年、赤壁の戦いの前に亡くなっている。なお、演義ではこの石板のとおり、合肥の戦いがもとで亡くなったことになっているため、この石板は三国志演義にあわせたのだろう。でも没年は合肥の戦の年ではないため、見る者を混乱させる石板なのである。

2015年の太史慈墓。かなり豪華になっている!




  2004年9月訪問
伯先公園内。鎮江駅からバイタクで10分程度。観光地図には必ず掲載されているが、付近はかなりの下町。

入り口がわかりにくい公園だ。ここ公園か?しかも有料の?と思ってしまう。15元も取られるが、近隣住民たちはタダで入れるみたいだ。この公園は趙公伯先を祀っている公園であり、近代において鎮江の発展に寄与した人物らしい。その像を過ぎるとさらに驚く。所狭しと子供の遊具が並んでいる。しかも旧式戦闘機まで置いている。15元のチケットには動物園の入場料も含まれているが、金絲猿がいるぐらいであとは特段見るべきところがない動物園であった。そんな公園内にたまげながら、山道を登っていく。10分ほどそこそこの勾配がある坂を上ると、視界が広がってくる。そこは算亭と呼ばれるところで、昔、諸葛亮と周瑜がこの場所で、曹操対策を論じた場所だ。有名な話では、「互いの作戦を掌に書いて見せ合おう」と言い、お互い「火」という文字を書いた。それを見て大笑いしたそうだ。つまり、曹操の船団を鎖でつなぎ、それを火で焼ききってしまおうというものだ。その作戦が見事に成功して、赤壁の戦いに大勝したというものだ。公園内の山は雲台山(67m)と言われており、そこからの眺めは素晴らしい。
 
(左)山頂からの眺め。揚州まで行く吊り橋が見事に見える。こんな橋ができるなんて諸葛亮と周瑜は想像もできなかっただろう。
(右)この公園の主役である趙公伯先像。


  2004年9月訪問
伯先公園の近く。鎮江駅からバイタクで10分程度。観光地図には必ず掲載されているが、付近はかなりの下町。伯先公園から博物館の横を通ってすぐ。

この通りは1000年以上の歴史を持つというだけあって、さすがに歴史を感じる。ここは今でもれっきとした街であるが、そのなかにはいくつかのアーチがある。そのうち昭関というアーチは、三国志となじみがある。呉の国が赤壁の戦いの後にこのアーチを凱旋したときに、「伐烏林曲」を歌いながら通過したが、この作者韋昭の名をとったと言われている。韋昭は「呉書」を記載した三国志においては重要な人物だ。しかし、韋昭は273年頃に亡くなっているため、赤壁の戦いがあった208年に歌を作ったのは、少し無理があるかも!?しかも、1000年前から通りがあるとはいうものの、三国志は1800年も前だから、この通りがそのときあったのかも疑わしいし・・・。という浅はかな詮索はやめて、この通りを歩いてみた。入り口はなかなかの門構えとなっており、「西津渡街」という文字も立派だ。門までの階段には露天商が並んでおり、土産物を売っていた。街に入ると、そこには昔ながらの生活風景があり、街の雰囲気はタイムスリップしたようだ。
  



三国時代には曹操、劉備、呂布、袁術といった英雄たちが活躍した場所だ。現在の徐州市は江蘇省北部であるが、三国時代の徐州といえば、現在の山
東省中部までの広い地域をさす。当時の徐州の治所は、現在の山東省たん(火2つ+おおざとへん)城県にあり陶謙が治めていた。また、ここは呉の文官
の張昭の出身地でもある。三国遺跡以外にも徐州市には見どころが多く、項羽の戯馬台や劉邦が逃げ込んだ雲龍山などがある(項羽と劉邦の遺跡)。

 2006年9月訪問
中山南路沿いの中医院の中にある。沛国誰郡出身の名医華佗の像。周りは病人だらけでちょっと気分が滅入る・・・。
 



徐州市から104号線を東南に70Kmほどいった場所にある。三国時代は下{丕β}(かひ)と呼ばれていた。ここには下{丕β}橋のほか、双孤堆古墳群や
昭漢寺院遺跡もあり、見どころも多い。き寧県の北部に位置する古{丕β}鎮(こひちん)への行き方としては、徐州か宿遷からき寧県行きのバスに乗り、さ
らに古{丕β}鎮行きバスに乗り換えれば行ける。私は時間の関係上、宿遷からタクシーチャーターした。

  2006年3月訪問
小沛(現沛県)では活躍した呂布であるが、ここは最期の場所だ。呂布が戟を射た2年後に、この場所で曹操に攻められ、部下の裏切りによって曹操に捕ら
えられてしまう。そのとき呂布は、「貴殿が兵の指揮をして、私が騎馬を率いると天下を取るのは簡単だ。」と曹操に進言する。曹操は心が少し動くが、そばに
いた劉備が「呂布は2度も主君を裏切っているのをお忘れか?」という言葉によって曹操によって処刑されてしまった。198年のことであった。後漢末の戦乱
期、主役であった呂布がいなくなったことで、このあたりから曹操勢力が拡大し始める。

下{丕β}城(かひじょう)はかなりの大きな城であったようだが、1668年の大地震によって城もろとも地面に埋まってしまったらしい。残念だが、白門楼や水
路、そして埋まっているであろう城跡を偲ぶことができた。白門楼は、もともとは下{丕β}城内にある大きな酒屋の屋号であったようだ。また、近くには高祖・
劉邦の謀臣・張良関連遺跡もある。田んぼや畑の中をひたすら走り、いきなり水門が現れる。そして、ここが下{丕β}城跡なんだと思えば、かなり感動だ。
この当たりは特に水路や池が多く、中には下{丕β}城の堀跡ってのもあるかもしれない。

 
(左)呂布が殺された白門の名残。 (右)あの跡は何だ!やけに人工的。白門の上から見た景色。

 
(左)下{丕β}城遺跡碑。  (右)水門の下は整備されている。




徐州市から連雲港市に向かう途中にあり、高速や鉄道も通っている。しかし、上記の下{丕β}城跡とセットで周るなら、古{丕β}鎮の北方13Kmのところ
にあるため、徐州市⇔土山鎮⇔古{丕β}鎮で周るのが効率いいだろう。

  2006年3月到達
丕β州市南部の土山鎮にある。き寧県との境目にあるため、古{丕β}鎮とは隣町といった感じ。下{丕β}城跡では曹操と劉備が呂布を捕まえたことにな
ったが、200年、再度曹操は徐州に兵を出し、劉備を蹴散らした。劉備が曹操暗殺計画に加わっていたためだ。劉備や張飛は逃げ散り、関羽が取り残され
生け捕りにされた。その場所がここである廟が建ったということだ。三国志演義では投降するにあたり3つの条件を出すが、実際はただ単に捕まっただけらしい。
演義では関羽をヒーローにするためにかなりの脚色がされている。関羽はその後、しばらくの間、曹操配下の猛将として働くのである。

また、「馬跡亭」と呼ばれている場所もある。山の斜面に1枚の大きな黒い岩があり、馬蹄のような丸い窪みのことで、関羽の馬がつけた跡だと言われてい
る。その他にも、長方形の巨石があり、表面がなめらかなので、関羽が用いた砥石と言われている。なお、土山といっても、表面は石の山なので注意が必要
だ。それと、関帝廟の北2Kmのところに議堂鎮という鎮がある。ここは、曹操が作戦会議を開いた跡だとされている。

この関帝廟には、昔は曹操配下の張遼(関羽の旧知の仲)が関羽に降伏を勧める像などがあったようだが、現在改築中。2006年6月に全面竣工するよう
だ。中では急ピッチで工事が進んでいた。
 
(左)関帝廟だ。ここだけはひととおり完成しているようだ。
(右)これが関羽様!両脇には関平、周倉が並ぶ。なお、関帝廟から見るとめっちゃ工事中だった。裏に周ると地面を掘るなどもっと工事中。



三国時代は小沛と呼ばれていた場所で、徐州市内から北へ65kmほどいったところにある。徐州からバスが10分から20分ごとにでており、1時間10分でいけ
る。また、微山湖をはさんで山東省とも接しており、日本からなら青島経由で行く方法もいいだろう。県内地図を見ると、歌風台など劉邦の遺跡のほか、閻
古古墓、玄帝廟、魏廟鎮など魅力的な地名もある。劉備が駐屯していたところだが、前漢の高祖・劉邦の出身地でもあるため、街は劉邦一色だ。

 2006年9月訪問
沛県文化館内にある。劉邦像がある歌風台からさらに先に行ったところ。漢街を突っ切って左に行けばある。
清の時代に建てられた石碑があり、ここが、呂布が戟を轅門(えんもん:軍営の正門)に射たところである。袁術が劉備を攻めてきたとき、小沛に居候してい
た呂布が和解を勧めた。しかし、袁術の命を受けて進軍している紀霊軍はそうやすやすと和解を受け入れるわけにはいかない。そこで、呂布は「150歩ほど
離れているあの戟に一矢で射当てたら戦いをやめよ」と進言する。当たるわけないと思っていた紀霊は承諾したが、呂布は見事に射当てることが出来た。その
呂布の努力によって、小沛は戦禍を逃れることができた、ということで呂布を讃えてこの地に射戟台を再建したということだ。呂布の功績は地元でも語り継が
れているとのことだったが・・・。
ここの射戟台は忘れ去られているのではないか、というぐらい見捨てられているようだ。文化中心と書いている文化館内にも一般住居があるし、射戟台はその
脇にぽつんとあるだけであった。沛県は劉邦開発が進んでいる一方で、呂布は忘れ去られようとしている?絵も半分以上消えかけ。
  



淮安市に南にある。淮安からはひっきりなしにバスがでている。また、南京からも近く、バスで2時間ぐらいでいけると思われる。
ここに、劉備軍3万人、袁術軍10万人の戦いが行われた古戦場がある。劉備と関羽が対峙している間に、張飛が酔った隙に呂布に徐州城を乗っ取られて
しまう。そして袁術の夜襲に合いあえなく徐州まで退却した。その後、小沛に寄った劉備だが呂布に攻められ曹操を頼る。そして、曹操、劉備連合で袁術を
滅ぼし、呂布も捕らえることになる。
このあたりは、淮河が流れ、大小いくつかの湖沼もあり風光明媚なところだ。また、明祖陵(注1)や東陽城遺跡(注2)など見どころも沢山ありそうだ。

(注1)<松倉さん注>明の第一陵とされている陵墓。安徽省の皇陵、南京の孝陵、北京昌平区の長陵〜思陵、北京海淀区の景泰陵、湖北省の顕陵
の明代皇帝陵墓の「首陵」である。祖陵に眠っている人々は実際は皇帝ではないが、いわゆる“追尊皇帝”である。南京孝陵の朱元璋、この太祖の祖父:
朱初一、曽祖父:朱四九、曽曽祖父:朱百六および皇后とその一族が眠っている。

<SixiangBaniuさん注>明祖陵は、明太祖・朱元璋がその祖先のために造成した衣冠陵墓。高祖父を玄皇帝(徳祖)、曾祖父を恒皇帝(懿祖)、祖父
を裕皇帝(熙祖)、父を淳皇帝(仁祖)としている。

(注2)<SixiangBaniuさん注>東陽城遺跡は、秦漢時代の城の跡で、江蘇省では最も状態のよい遺跡の一つ。漢代、東陽県は侯国として封じられた。
漢高祖劉邦が張相如、漢宣帝劉詢が劉弘を封じたときには壮麗な建築があったとされている。また近くの古墓遺跡は戦国代から秦、漢代の異なった2つの
時代の墓地で、その時代の貴重な文物が多く出土しているが、今年、盗掘に遭ったようだ。

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