江蘇省は項羽の本拠地があったこともあり、項羽関連の遺跡があるし、劉邦や韓信の故里もある。また、南部は呉(蘇州)の国があった場所でもある。春秋戦国時代の遺跡はかなり多い。
蘇州駅前でガイドをチャーターして車で行ったが、そのガイドさんも3回ぐらい地元の人に場所を聞いていた。場所は、呉県市胥口鎮の西部伍相国祠にある(蘇州中心部から南西15Kmほどの太湖の近く)。墓は1mほどの盛り土で「呉相国伍公之墓」という墓碑が立っている、との情報だったのでぽつんとある墓碑を見たかったのだが、行ってみてびっくり。2005年2月から工事をしていて同年11月に完成予定。完成すれば3,840uもある「伍公祠公園」になるようだ。1500万元(約2億円)もかけているというのがさらに驚きである。蘇州で感じたことだが、ここでは伍子胥は神様のように扱われていることだ。この街を作ったような人だから当たり前だが、紀元前500年に生きた伍子胥をいまだに崇拝しているというところがすごい。偉大な人である。
(左)建設予定図を見るとこれが伍子胥の墓になるようだ。(右)公園予定地の奥には川がある。ここに伍子胥が馬皮の袋に入れられて投げられたのか!?
2005年9月訪問
市街地の北西3、4Kmのところに虎丘と呼ばれる小高い丘が伍子胥が仕えた呉王闔慮の陵がここという伝承がある。虎丘の名前の由来は、呉王夫差が父闔慮を葬ったら、その3日後に白虎がその上にうずくまっていたとか、山の形が虎がうずくまっている形に似ているからなどと言われている。なお、虎丘の入場料は1人60元と少し高め。
闔慮は名剣マニアだったようで、ここにはおびただしい名剣が埋まっているといわれており、始皇帝はその名剣を求めて陵を掘らせた。しかし、墓室を掘り当てることが出来ずに、掘った跡が池になってしまった。その池の横には「千人石」と呼ばれるものがあり、ここは闔慮の陵が完成したあと、闔慮の子である夫差が、千人以上の工匠たちをこの石の広場に集め、酔わせたうえで皆殺しにしたという伝説がある。墓室の位置やからくりを秘密にするためで、これはよくある話だ。
また、千人石のすぐ横に「孫子の練兵場」がある(「孫武子亭」というあずまやがある)。闔慮に仕え、伍子胥とともに呉の国を強くした孫子が、ここで女兵士訓練を行ったという場所だ(異説あり)。孫子の命令を聞かなかったために、闔慮の寵姫までも殺して、命令を聞かせたというものだ。そのとき「臣、すでに命を受けて将たり。将、軍にありては君命も受けざるところあり。」と名言を吐いた。この言葉は項羽と劉邦の戦いにおいてもよくでてくる。
蘇州でも有名な観光地なので人がかなり多い。しかも孫武子亭の横で雑技(おもしろい!)をやっていたため、見物人がかなり多かった。
(左)千人石。確かに1000人は乗れそうである。奥に見えるのが蘇州の斜塔(霊厳寺塔、虎丘塔)。15度傾いている。
(中)孫子の練兵場と思われる場所と、奥は孫武子亭。まー、訓練できなくもないが・・・。
(右)千人石の横にある闔慮の墓と言われているところ。始皇帝が掘ったので池になった。
2005年9月訪問
蘇州市街の周囲にはかつての堀がそのまま残っており、8つの門も築城当時の名称がそのまま地名となって跡をとどめている。水路の街だけあって、城壁、城濠の南西にあるこの盤門は水陸両用の門であり、春秋呉が建造した最も古い場所と伝わる(創建は紀元前514年、1351年に再建)。現在、盤門景区(国家AAAA旅游区)となっており、1人25元払う必要がある。中には瑞光寺塔などがあり、散歩しながら景色を楽しむことができる。そんななかでも盤門はひときわ威圧感がある。門の上にも行けるので必ず上るべし!
(左)盤門前の運河にかかる呉門橋からの眺め。この角度の写真がよく使われる。厳密には景区の外に橋はある。
(右)盤門近くには伍相祠がある。中に入ると伍子胥像があった。
2005年9月訪問
蘇州市街地から西に15キロほどいったところにあり、標高は200mほど。伍子胥墓方面なのでセットで行くとよい。頂上には寺院や塔があり、西には太湖も遠望でき、名勝の地だ。その山の中腹に呉と越の抗争にまつわる場所がある。
春秋時代末期の紀元前496年、呉王闔慮は越に攻め込んだが、越軍の自殺部隊を繰り出すという奇策に破れ闔慮はそのときの傷がもとで死ぬ。その子、夫差は復讐を近い、2年後、越を打ち破った。そのとき伍子胥は越王勾践を処刑することを進言したが、夫差は勾践夫妻を呉に監禁することにした。霊岩山の中腹に観音洞があるが、そこに幽閉されていたと言われている。
その後、越は呉の重臣へ賄賂を贈ることで勾践は釈放されることになり、そのとき美女西施が夫差に送られた。夫差は西施におぼれ、西施のために霊岩山の頂上に豪華な宮殿を建て、また、「浣花池」「玩月池」で夫差と西施は遊んだといわれている。それらの池は頂上の霊岩山寺の中にある。勾践は帰国した後、国力回復につとめ、屈辱の敗戦から23年後に蘇州を占拠し、夫差を自殺させた。夫差は父の仇をとるために薪の上で寝、勾践は肝をなめることで呉への復讐心をあおった。このときの夫差と勾践の争いは「臥薪嘗胆」という言葉として残っている。
霊岩山のふもとから頂上までは約30分、急坂をのぼらなければならない。しかし、頂上の霊岩山寺に入れば(2元必要)、7層の塔もあったりして、落ち着いた雰囲気で散策するにはいい感じだ。中腹にある「観音洞」は脇道にそれることになるが、見逃してはならない。 (左)山の中腹にある「観音洞」。ここに勾践夫妻が閉じ込められていたといわれている。
(右)頂上にある霊岩山寺。景色がよく、ここまで歩いてよかった〜。
滸関鎮から約1.5Kmの大真山・小真山で春秋戦国時代の墓地が発見された。大真山1号大墓は春秋中晩期の呉王墓で、あるいは闔慮の祖父寿夢(じゅぼう)の墓ではないかと推測されている。また小真山の1号大墓は戦国晩期で「上相邦璽(じょうしょうほうじ)」が書かれた銅印が副葬されていることから楚の春申君の墓かもしれないと言われている。
本当は安徽省。でもほとんど南京市エリアである、巣湖市和県烏江鎮東南1kmの鳳凰山上にある(南京市の地図を見ると、一番端に烏江鎮と記載はある)。南京の中心部でタクシーに乗り、南京大橋経由でちょうど1時間で到着した(行き帰り+待ち時間で299元(メーター付きなので交渉の余地なし)+高速代40元)。時間に余裕があれば、南京の下関バスターミナルから和県や巣湖行きのバスががんがん出ているため、バスでも十分行ける。なお、烏江からさらに和県を経由して巣湖まで行けば范増故里もある。范増故里と項羽の自害した場所が近いというのも何か皮肉だ。覇王祠は小さな公園のようになっており、入場料は25元。
ご存知、項羽が自刎したところ。垓下(安徽省北部)で「四面楚歌」により兵士は800余騎となりつつも、何十万人という漢軍の囲みを突破し何百キロも離れたここまで逃げれるのが項羽のすごいところだ。烏江についたときにはわずか28騎、項羽は敗戦を認めながらも「兵を起こして8年、70余戦い敗れたことはなかった。今ここにこうしているのは天が我を滅ぼすのであって弱いからではない」と言い、渡し場で亭長が船に乗るように勧めたにもかかわらず、愛馬をおり漢軍に切り込む。しかし、項羽を殺れる漢軍の将はいない。自分の最期を悟った項羽はここで自刎した。
ここには立派な祠のなかに項羽像があり、祠の後方には「覇王墓(衣冠塚)」、そして木棺もあった。真っ暗な墓道もあったがさすがに怖かった。墓は青石を積み重ねた楕円形の墳墓で、明代の知事の筆で「西楚覇王之墓」と書かれた碑がたっている。その他、愛馬をつないだ「駐馬河」、亭長が渡河を勧めたという「烏江亭」、そして項羽が自刎した場所に「抛首石」がある。項羽の首には多額の懸賞金がかかっていたため、自刎したあと将兵たちが死体に殺到し、死体を奪い合った。そのため漢軍兵士の数十人が死んだ。 当時の状況を思い浮かべてみた。しかし、烏江の流れが当時と変わっていて自刎の場所から離れているし、何せそんなに大きくない川だ。また、駐馬河は池のなかの小島になってるし(渡るのには細い木の橋しかなかった。あやうく落ちそうになった)、烏江亭も川沿いでもない。当時の状況は想像しにくいものの、それでもここに来るのが今回の旅の最大の目的であり、これただけで感無量!項羽像はかっこいい。 (左)入り口からずっと奥に行けばこの項羽祠がどーんとある。感激の瞬間。
(中)これが項羽像だ!色は解せんが顔はいかつく、ポーズがかっこいい。
(右)覇王墓。「西楚覇王之墓」と書かれた碑は、明代のものとあってさすがに古めかしい。墓の裏に下に行く階段があり、木棺と墓道がある。
韓信故里がある淮安市からバス(一般道使用)で2時間強の場所にある。街の中心部には覇王広場(項羽が鼎を持ち上げている像がある)があり、項羽のふるさとに来たという実感がわく。淮安、徐州からは何本もバスがある。便数が少ないものの、上海や南京からも直行バスがでている。その他のみどころとしては、清の乾隆帝が遊んだという乾隆行宮が市の西北部、駱馬湖沿いにある。
2006年3月訪問
宿遷は西楚の覇王、項羽の生まれ故郷だ。宿遷市街地の南東部、京杭運河のそばにある。バス路線なら1、9番が前を通っている。中には項羽像、虞姫像、項羽の名馬、烏騅(うすい)像、鼎、訓練場、井戸のほか、項羽名場面の壁画などがあり、かなり楽しめる。項羽ファンにはたまらない。入場料は10元と安い。なお、項羽故里の隣に「項王{虫昔}像館」ができているが(一部整備中)、項羽故里とは別に10元払わなければならず、中にはイマイチの蝋人形が並んでいるだけだった。また、項羽故里から金色の屋根をした立派な建物が見えるが、真如禅寺という寺で項羽故里とは別物だった。
(左)鼎は項羽の象徴でもある。触ってみたがびくともしない。 (左)かっちょいい項羽像!風格が漂い、いい出来だ。
淮陰侯韓信と言われている通り、淮陰という地区は今の淮安市である。淮安市は最近合併したようで、淮陽と淮陰という地区が含まれている(宿泊したのは淮陽地区でそっちのほうが栄えている)。また、韓信故里がある碼頭鎮は淮安市の南西、韓信釣台などがある楚州区(淮陰)は淮安市の南東にある地理関係からすると、韓信が生まれたのは淮安市の南西部、幼少時代に育ったのは南東部ということだろうか。なお、碼頭鎮から楚州区までバスで移動するとなれば2時間近くはかかる距離のため、生まれた場所と幼少期がそれだけ遠いというのは、何となく合点がいかない面もある。また、韓侯故里で購入した「韓信的伝説(張建揚主編:江蘇人民出版社)」によると、韓信が淮陽侯になっているのが興味深い。なお、淮安市までは上海からバスが日中は1時間おきに出ている。所要時間は約5時間。また、淮安市政府Webの淮安旅游ページに旅游景点、ホテル情報などの有用情報が載っている。
碼頭鎮の入り口には「古楚淮陰」と書かれた楼があったので、淮安市南西部のこのあたりも淮陰というのだろう。でも、文献では淮陽区と書かれているものも
あり、碼頭鎮は淮陽か淮陰なのかわからずじまいであった。淮安市の中心部である淮海広場から5番バスで約50分。終点が碼頭鎮であるが10分間隔ぐら いでバスはある。途中からかなり悪路になるが、発電所、運河、高速道路の大橋など景色は楽しめる。 2006年3月訪問
韓信のふるさと。おそらく生まれ故郷だと思われる。碼頭鎮のバス停で降りると韓信故里の観光看板が目に付く。そこから中心部のほうに向かって歩き、碼頭橋をわたり街を突っ切っる。バス停から20分ほどひたすらまっすぐ歩くと右手に見えてくる。ここが韓信の生まれ故郷なんだと思う。どこでチンピラの股をくぐったのだろうか?なお、楚州区にある胯下橋は昔は碼頭小学大門外東南角数十歩のところにあったらしい。
(左)朝8時30分ぐらいに行ったけどまた空いてなかった。守衛のおっちゃんを起こして入れてもらった。その後、施設管理のおねえちゃんが来てくれて中を案内してくれた。中は池もありかなり広い。
(左)写っているおねえさんに鍵を開けてもらい中を案内してもらった。かなり親切に対応してくれていろいろと説明してくれた。
2006年3月訪問
韓侯故里からさらに突き進み約1Km、15分ほど歩くと右手に見えてくる(韓侯故里のおねえちゃんに是非行け!と言われた)。かなりの田舎道になるが、不安になりながらもとにかく街と反対方向にまっすぐ歩く。ぐーたらしていた韓信に貧しいながらも食事を与えていたおばあさんのお墓。そのとき韓信は「偉くなったら恩返しをするから!」と言っていたが、おばあさんは偉くなるわけがない、哀れみの気持ちでやっているだけだ、と言い相手にもしなかった。韓信が楚王になったあと、このおばあさんを探させて、1000金を与えているのがおもしろい。これだけの墓を見たのは初めてだったので、かなり興奮。韓信に食事を与えていたということで、こんなに大きなお墓を作ってもらえるのだ。人には優しくしなくてはならないということだろう。なお、ここからバスで2時間弱かかる楚州区に漂母祠(韓信釣台の隣)があり、漂母の出身地もよくわからない。
生まれは碼頭鎮で韓信と出会ったのが楚州区ということか?う〜ん?碼頭鎮と楚州区で出身地争いしているようにも思うが・・・。 2006年3月訪問 2006年3月訪問
甘luo城は、韓侯故里を出て漂母墓に向かう途中の左手にある(韓侯故里を出てすぐのところ)。畑のどまんなかにあるので、見落としがち。碑には何も説明が書いてなかったが、どうやら秦時代の城跡のようだ。韓信もここを使ったのかもしれない。碼頭鎮では、韓侯故里、漂母墓とここは観光3点セットになっている。
韓信湖は、碼頭鎮を渡ってしばらく行くと鎮の中心部と思われる交差点がある。そこを右に曲がってしばらく行くと、この楼がある。韓信湖と書かれているが、行き止まりで塀しかなく、塀の向こう側は韓侯故里の中の湖となっている。
碼頭鎮東南約10Kmのところにあるらしい。墓は2丈4尺で市の文物保護単位になっているようだ(韓信的伝説(張建揚主編:江蘇人民出版社))。司馬遷が韓母墓に訪れたという記録が残っている。碼頭鎮のバス停バイタクがとまっていたので、それで行くしかないだろう。
淮安市の南東部にある楚州区には韓信ゆかりの遺跡がいくつかある。碼頭鎮から淮陽中心部に引き返し、さらに8番バスに乗り換え楚州区に向かう。淮陽中心部から約1時間弱、碼頭鎮からだと2時間近くかかる。淮陽に比べると、街は小さく田舎街って感じを受ける。なお、楚州区は周恩来の出身地ということで周恩来記念館などもある。
2006年3月訪問
韓信が貧しいとき、ここで釣りをして生計を立てていた。そんなとき、おばあさん(漂母)からご飯をめぐんでもらっていた。その場所がここ。楚州区の北西部にある。淮安市の地図に載っているのですぐに行ける。釣台の横から水上公園への入り口があるが、そこでだべっていたおねえさんに5元とられた。こんな公園で入場料を取るのか!中を歩いてみたが、ただの水上公園だった。
2006年3月訪問
韓信釣台の隣にある。漂母墓からはかなり遠いので、なんとなく違和感あり。漂母像が祠の真ん中に鎮座しているが、薄気味悪かった。
2006年3月訪問
楚州区の街の中心部(少し南)の興文路にある。鎮淮楼から南へ行き2本目の筋を右。生活臭あふれる道に突如としてこの門が現れる。韓信が若い頃、ちんぴらにからまれ「俺の股をくぐれ」と言われ、こんなことでもめて命を落とすのは嫌だ、ということでくぐった場所。それ以来、韓信は「股夫(こふ)」と言われ、事あるごとにいくじなしのように言われた。韓信が楚王になった後、そのちんぴらを探しださせて警察署長にしているのがおもしろい。なお、この胯下橋はもともとは碼頭鎮にあったようだ。右の写真は碼頭鎮の韓侯故里にあった股くぐりの絵。
2006年3月訪問
鎮淮楼から東方面に歩いていくと道の北側にある。人通りが激しい道なので、何か落ち着かない祠だ。入場料5元。
韓信を祀った祠であり、淮安市の文物保護単位になっている。韓信像は顔がイマイチかな・・・。
徐州市の東部に古{丕β}鎮がある。ここには三国時代に呂布が曹操に殺された場所や下{丕β}城跡などがあるが、そこからさほど離れていない場所に、張良ゆかりの地がある。張良は劉邦を支えた大軍師で、三国時代の軍師も張良とよく比較された。古{丕β}鎮への行き方は、徐州、宿遷、新沂からバスでき寧県き城鎮(き寧県の中心部)へ行き、そこから古{丕β}鎮へのバスとなる。私は時間の関係で、宿遷からタクシーチャーターで行った。途中、駱馬湖を右手に見ながら、気持ちいいいドライブとなった。
2006年3月訪問
黄石公という老人が張良に「三略」という書物を授けた場所。司馬遷の史記、「留侯世家」のなかで、この橋のエピソードが記されている。張良が散歩していてこの橋を通りかかったとき、老人がわざと橋の下に自分の靴を落として、張良に取りに行くように言った。張良はあきれたものの目上の人間だし靴をとった。すると、老人は靴を自分の足にはかせるように言ってきたが、張良は丁寧な態度で求められるとおりにした。老人は笑って「この若者には奥義を伝える価値がある」と言い、5日後の早朝にこの橋のたもとで再会しようと約束した。最初の2回は張良が老人より遅れて到着したために、出直してくるように怒られた。3回目、張良は夜中に出かけていって橋のたもとで待っていると、まもなく老人もあらわれ、非常に喜び一本の巻物を張良に渡し、「これを読めば、帝王の師となれよう。10年後、天下は乱れよう。13年後、そなたは済北谷城山の下でわしの化身、つまり一塊の黄色い石をみつけよう」。そう言い終わると去っていった。その後、劉邦の軍師となってから、張良がその場所で黄色い石をみつけ、家に祀った。張良の死後、その石と一緒に埋葬された。そのため、その老人のことを「黄石公」と呼ばれている。
2006年3月訪問
下{丕β}橋から街の外れを望むとこの祠が見える。 下{丕β}橋を記念して作られたものだろう。行くと鍵 がかかっていたが、中の管理人のおじいちゃんに開け てもらい中に入ることができた。少し小さいが左側の 写真に管理人のおじいちゃんが写っている。笑顔が 最高のおじいちゃんだった。 2006年3月到達できず・・・
項羽の叔父の墓。両親のいなかった項羽を育てた人。会稽で項羽とともに旗揚げしたが、 秦との戦いのなかで、おごりがあったために秦軍に殺された。その後、項羽が主役となる。徐州市街地からずっと東にいったところ。一応徐州市区になるが、連雲港市の手前になる。定陶で殺されたことになっているが、このあたりが定陶なのか?定陶の位置がよくわからないま まだ。江蘇省実用地図冊にはこの墓が記載されているが、現地ではまったく所在不明。なお、右側の写真はしまざきさんご提供の項梁の墓。
劉邦故里があるだけあって劉邦一色といってもいい街だ。こじんまりした街であるが、中心部に歌風台がどーんと建っている。その周辺にも漢街や漢高祖原廟、漢城公園、泗水亭公園などがある。徐州からバスが10分から20分ごとにでており、1時間10分でいける。なお、厳密に言うと沛県北約10Km付近が劉邦故里。東劉邦店という地名は地図で確認できるが、沛県博物館には劉邦店が故里と書いてあった。
2006年9月訪問
沛県に着けばまず目に付く。ここは沛県博物館になっており、入ると劉邦の生い立ちから漢の歴史まで展示しており、見ていて面白い。劉邦や項羽関連の遺跡も写真展示がある。博物館の入り口から2階にあがると劉邦像がある。また、かの有名な「大風歌碑」もある。付近は漢街も整備されており、徐々に観光地化している様子である。入場料は10元。
劉邦が作った大風歌碑は史記では以下のように書かれている。「12年10月、高祖(劉邦)は戦いの帰りに沛を通った際、そこに留まって宮殿に酒席を設け、昔の友人や父兄や子弟を招いて酒盛りをした。沛の子どもら120人を集めて彼らに歌を教え、宴たけなわになったとき、筑をうってみずから歌った。『大風起こりて雲は飛揚す 威は海内に加わりて故郷に帰る いずくにか猛士を得て四方を守らしめん』 子どもたちにも一緒に歌わせ、高祖は起って舞った。興奮して感傷的になり、涙が幾筋か頬を下った」。
劉邦は豊沛出身という言葉がよく使われる。豊というのは豊県、沛というのは沛県であるが、その両方に劉邦ゆかりの場所がある。豊県には街の真ん中に劉邦像があるし、漢皇祖陵もある。豊県と沛県は車で30分ほどの距離。徐州から豊県へは10分から20分の間隔でバスが出ており約1時間15分で着く。
2006年9月訪問
豊県バスターミナルの近くの公園にある。デパートもあったため、豊県でも中心部のようだ。右の写真はバス乗り場方面を撮影。
2006年9月訪問
豊県バスターミナルから東北方面。タクシーで30分かかる。バスなら金劉賽村バス停のすぐ前。門を入ると立派な劉邦像があり、豊公(劉邦の父)、劉邦、劉秀、劉備記念碑、劉清墓などがある。館長の劉恒諾さんはとっても親切だった。Webもある。
江蘇省でも3番目に大きい街。中国を縦横に走る鉄路の交点であり、また、高速道路も発達しており交通の便はよい。上海からなら火車で約7時間、バスなら、直通バスはあまり便数がないが、淮安、宿遷経由すれば走行時間で8時間程度で来ることが出来る。また、山東省に属していたこともあって青島などからも近い。そしてここは項羽の本拠地だったところで、当時の名前である彭城も通り名で残っている。200回以上戦火に見舞われたこともあり、さすがに項羽関係の遺跡はほとんど残っていないのが残念だ。項羽故里がある宿遷からはバスで3時間程度で来ることができる。
徐州には以下で紹介するもののほかに、漢兵馬俑(後漢時代に作られたもの。東郊外の獅子山にある。)、楚王陵(楚王といっても項羽ではなく、劉邦が天下統一時、弟を楚王にしたが、その孫の三代目楚王の陵。漢兵馬俑の隣にある。)や、洞山漢墓(市街地から北へ約8Km)、二郎山漢墓(市街地から北へ約20Km)、大蔡丘古墓葬(市街地から北へ約10Km)、皇姑墓(市街地から北東方面へ約20Km)などがある。なお、雲龍山の北側ふもとにある徐州博物館内に乾行宮があるが、そこには昔、項羽の軍師、范増の墓があったようだ(今はない)。徐州博物館は、彭城路の南の先にある。
2006年9月訪問
項羽が兵馬を訓練したところで、徐州で唯一残る項羽と劉邦関連の遺跡らしいところ。といっても綺麗な公園になっており、公園前では近所の人が体操したりする憩いの場になっている。中には穏やかな顔をした項羽像や、覇王別姫、鴻門の会などを蝋人形で模したもの、庭園などがあり楽しめる。特に覇王別姫の虞姫人形は艶やかで必見。入場料は20元。また、戯馬台の横には元時代の民家をそのまま残している建物群もあり民俗博物館となっている。戯馬台から民家を眺めると屋根が美しい。入場料は別にとられる。
2006年9月訪問
徐州市街地の南にある風景区で、劉邦が避難したという故事伝説がある山。早朝7時ごろふもとから上ったが、近所の人たちも大勢山登りをしており、頂上に行けば何かのグループが合唱をやっていた。往復1時間ほどで行けるので、心地よい散歩である。左の写真が雲龍山頂上付近から見た徐州の街。右が興化寺からみた雲龍山。右手の山の上には雲竜山の展望台が見える。
2006年9月訪問
劉邦軍の軍師である張良の祠があった場所。今はないようだが、張良の字の子房がついているだけあって捜索すれば何かあるかもしれない。左の写真はホテルの部屋から撮影。左下が徐州火車駅。徐州漢城は市街地から北西へ約10Kmのところにある中央電視台外景基地。入場料25元。
春秋時代は宋、楚、呉に属していたが、戦国時代は楚に属した。内陸部という感は否めないが、遺跡は豊富である。
省北部でほぼ徐州圏。宿州市からなら東へ57Km。霊壁行きバスがなく、バスで行くなら途中下車となる。田舎の街といった感じ。 2006年9月訪問
霊壁県の東7.5Kmの虞姫郷にあり、宿州市と泗県を結ぶ道路沿いにある。上海駅北の上海長途汽車站から霊壁行きのバスが時刻表に載っていたが、その日は出発せず(おそらく客がいなかったため)、上海⇒(8時間:夜行)⇒宿遷⇒(1時間30分)⇒泗洪とバスを乗り継ぎ、泗洪からバスもあったが時間が合わずタクシーで行った(泗洪から1時間)。泗洪から泗県を通り越し霊壁の手前の街道の南側にある。
虞姫墓に近づくにつれ「虞姫」という看板が目についてくる。立派な門構えとなっており、門の横に門票売り場がある(入場料3元)。中に入ると「西楚覇王虞姫之墓」の墓碑が立つ大きな虞姫墓がこんもりとあったり、周りに碑廊があったり、そして奥の建物に虞姫を抱いた項羽像の「覇王別姫」像がある。覇王別姫像は躍動感があって、迫力がある。他にも観光客が来ていたので、それなりに客も来るのだろう。街道の雰囲気と虞姫墓の大きさが気にいった。しかし、垓下の戦いの後、ここに項羽軍武将により埋葬されたとあるが、垓下からは車でも1時間以上かかる(ぐるっと迂回する関係もあるが)ので、地理感がよくわからなかった。
(左)これが入り口。大きな門は閉まっていたので、横の門票売り場から中に入った。
(右)覇王別姫像。実は撮影禁止で撮影すると罰金20元となる。管理人に隠れてこっそり撮ったつもりだったが見つかった。罰金は請求されず。
2006年9月訪問
項羽と劉邦、最後の戦いの場所。劉邦軍は項羽軍を取り囲み、楚の歌を兵に歌わせて望郷の思いを駆り立てて楚軍兵士を離散させたという、あまりにも有名な「四面楚歌」の舞台。霊壁県の東南、沱河北岸にある。虞姫墓から直線距離にすれば近いが、間に河があるため、一度、霊壁県の中心部を通り、再び南に向かって、最後はかなりの田舎道を進む(舗装されていない土の道)。未舗装道に入った時点で、そのあたり一帯が垓下だろうと思われる。虞姫墓からタクシーで1時間30分。途中、現地の方に数回聞き込みあり。未舗装道路を走っていると、村はずれに「垓下遺址」の碑がぽつんと畑の中に立っている(碑は2つあるようだ)。その他、項羽が作った堡塁基壇跡(ただの土山)もある。ここは一番行きたかった。周辺を見晴らしながらここで項羽と劉邦が戦ったと思うと感無量。しかし、多少周りにこんもりした山があるだろうと思っていたが、地形は平らでありイメージとは違っていた。2200年経過すると地形も変化するし、当時どんな地形だったのか想像するのも面白いかも。
(左)垓下遺跡の碑が建つ畑に向かう道。この道の右側に小川があり、その向こうの畑に碑がある。
(右)小川を渡り民家を過ぎると畑の中にこの碑がぽつんと立っている。民家には牛やにわとりが飼育されていた。
春秋戦国時代は楚の国があったところ。楚の都は現在の荊州市にあった。
関羽が統治していただけあって三国遺跡がてんこ盛りの街。城壁が素晴らしく歩いていて飽きない街だ。 2007年5月訪問
紀山の南にあるためこう名付けられた紀南城は、春秋晩期(前689年)の楚の文王から、前278年に秦将白起に攻められ頃襄王が東方に遷都するまで、楚の都「郢」として、その年代としては最大の都城として栄えた都だ。東西約4.5Km、南北約3.5Km、城周辺が15.5Kmであった。現在も当時の城壁が存在し、1961年に全国重点文物保護単位となったことが荊州人の誇りでもある。城内には城門や水門があり、建築遺跡や工房、水路、墓地などの調査が進められている。荊州城の小北門から北に5Kmほど行った紀南鎮にあり、207国道を北上して、高速道路をくぐり荊州ゲートを越えしばらく行くと左手に見える。道路沿いに石碑が建っているのですぐにわかる。
(左)石碑は207国道沿いにあるためすぐにわかる。 (右)城壁の上部分は近隣住民の生活道路が通っている。牛が草を食べていてのどかだ。
2007年5月訪問
前278年に秦将白起が紀南城を陥落させた後、秦がこの地を統治するために、郢城が築かれた。郡県の統治のために置かれた城なので、紀南城の約8分の1程度の広さである。紀南城から東南方向にあり、現在の荊州城からも比較的近い郢城鎮にある。荊州城の小北門から北に行き荊州大道に入ったところぐらいを右折。しばらくまっすぐ行き左折すると城壁が見えてくる。市内地図に載っている。
(左)1956年11月に江陵県人民委員会によって建てられた石碑。湖北省の重点文物保護単位になっている。
(右)城壁は約10メートルぐらいの幅がある。城壁の上を歩くと気持ちよく、牛が何頭かいた。
2007年5月訪問
八嶺山古墳群は、荊州上西北20Kmの八嶺山国家森林公園内に、楚庄王、楚康王 など458座の古墳群がある。ほとんどが土で作られた墓であるが、わずかながら煉瓦づくり の墓があるようで、前者は保存状態が良好であるが、後者は残念ながらかなり悪い。 出土品も2000余件であり、越王勾践の剣など、非常に貴重なものも発掘されている。保存状態を維持するために、大部分はそのままの状態にしてあるそうだが、残念ながら盗 掘があるようだ。1998年1月に全国重点文物保護単位となった。写真の石碑がある場所は、荊州城北西の八嶺山鎮にあり、関羽の遺跡(落帽台、換帽塚など)が密集する地域の一角にある。
(左)八嶺山古墳群の石碑。2004年4月と比較的新しい石碑だ。この右手に関羽の遺跡である、落帽台があった。
2007年5月訪問
孫叔敖(そんしゅくごう)(前630年から前593年)は、春秋時代の楚の宰相。非常に貧しい出身だったが、よく勤勉し、荘王に仕えて楚の富国強兵を成し遂げ、荘王に天下の覇権を握らせた、楚屈指の賢相の一人。河南省で大灌漑工事も成し遂げた。沙市区の中山公園の中あり、関羽の遺跡である春秋閣の近くにある。市内地図に載っている。
(右)孫叔敖墓。少し斜めになっている珍しい墓だ。
楚皇城遺跡
楚国の故都。襄樊市南の宜城市から南8Kmの皇城村にある。城址面積は約2.2Kmある。民間に伝わる話によると、烽火台、紫禁城などがあったようだ。出土品には、銅方壺、大型銅車などがある。
2008年9月訪問
劉邦は項羽の本拠地である彭城(今の徐州市)を攻めるが、項羽の反撃にあい、劉邦の父まで捕虜にされて、一時、長安まで逃げ戻っていた。しかし、韓信の働きで持ち直し、広武で対峙した。それがここだ。ここでは、項羽は決戦を急ぎ、人質にしてあった劉邦の父を釜ゆでにすると言ってきた。しかし、劉邦はともに秦を倒すために立ち上がったということは、劉邦の父は項羽の父と言い返した。項羽は激怒し、劉邦の父を釜ゆでにしようとしたが、項伯に説得されて思いとどまる。その後。一対一で雌雄を決しようと項羽が持ちかけるが、劉邦は「われ、むしろ智を闘わさん。力を闘わすこと能わず。」と名ゼリフをはく。そして、劉邦は項羽に対して罪状を並べたてた。楚王の命に背き勝手に関中王になり劉邦を漢中に追いやったことをはじめ、秦都の略奪、捕虜の大量虐殺、楚王の暗殺など、10か条にわたって糾弾した。項羽が怒り心頭になり、劉邦めがけて弓を射ると劉邦の胸にあたったものの、劉邦はわざと平気なフリをした。ここでは、結局は対峙で終わったが、この戦いからしばらくして垓下で項羽は敗れるのである。
漢覇二王城は鄭州中心部から西北約30Kmのところにあり、広武鎮を通り越して、黄河遊覧区のなかの覇王城村にある。ここは深い崖になっており、東側が項羽、西側が劉邦の城壁である。その谷の距離は7〜800mといったところか。この谷は鴻溝といわれ、昔は黄河に通じる物資輸送の水路であった。漢覇二王城の入り口には項羽が鼎を持ち上げている像があり、そこから山を上ると駐車場がある。そこには漢覇二王城の石碑や、項羽・虞姫、范増像、項伯、項荘像もある。そこから二股の登山口へ続くが、写真撮りや爆竹を持ったおばちゃんが寄ってくるので注意。登山道は右へ行けば項羽、左へ行けば劉邦側だ。どっちに行っても黄河の大パノラマを見ることができる。
(左)登山口手前にある石碑。古くて字が見にくい。 (中)項羽、虞姫、范増の3人揃った珍しい像。項羽は鬼のような顔でちと怖い。
(右)漢覇二王城の入り口にある項羽像。鼎を片手で軽々とを持ち上げている。顔はまずまずの出来だ。
(左)項羽側にある石碑。この向こうが崖になっており黄河が見渡せる。 (中)劉邦側にある馬がいなないている像。 (右)馬の像からさらに奥に行くと展望
台があり、黄河がよく見える。なお、中洲ではホーバークラフトがあり、沢山の人がその周りにいた。ときどきホーバー独特の音がしていた。
陜西省に陵と名の付く墓が約70あり、その半分以上が西安の西方に集中している。陵は唐代以降は既存の山を利用して築いたが、それ以前は平地に土を積んで築いていた。秦の始皇帝が首都とし、それを項羽が焼き払い、劉邦が漢中にひそみ、韓信が進出し、天下平定の後、劉邦が首都とした。
そんな場所なので、遺跡がとても豊富。 2010年5月訪問 西安市の地図に載っていたので急きょ行ってみた。中心部から北西にある漢の都の跡地。車で1時間近くかかった。項羽との戦いに勝利し、ここを都とした劉邦は、蕭何や張良たちと勝利の宴を開いたのだろうか。王宮跡地がいくつかあり、現在も発掘中のようだった。 管理人がいて、写真は撮るなと言われた。覆いをしているところもあり、そこは慎重に発掘していたようだ。今後の展開が期待できるが、現在はそれらしき建物もなく、地面を掘っているだけのようである。漢時代が見直されているとのことなので、発展の可能性はある。 2010年5月訪問 咸陽国際空港から西安市内に向かう途中にある。長陵であり高祖劉邦の墓。地図には載っているのだが、現地では放置状態。空港で拾ったタクシーの運転手に言ってみるが知らないとのこと。現地の住民に聞きながら、ようやく到達できた。劉邦墓の近くには、皇后だった呂后の墓と思われるものや、それ以外にも漢の皇帝やら臣下の墓がある。時間があれば全部回ってみたいものだ。劉邦墓からの景色は抜群である。 2010年5月訪問 咸陽国際空港から西安市内に向かう途中にある。劉邦の墓よりもこっちのほうが整備されている。観光客も多い。第4代皇帝である景帝のものだが、劉邦より整備されているというのがよくわからない。咸陽国際空港から西安に向かう高速のすぐ横にあるので、ついでに整備されたのだろうか? 王皇后が景帝の死後15年後の紀元前126年に亡くなり、ここに合葬されていると書かれていた。ただ、景帝は6代と書かれている書きものもある。劉邦が死んだあと、皇后の呂后が専横したこともあって、2代目から少しの間、乱れていることもあるのか!? これ以外にも西安には漢関連の遺跡が多い。 未央区の阿房宮遺跡、雁塔区の胡亥墓(始皇帝の子供)、臨潼区の鴻門宴遺跡(項羽と劉邦が会見を行ったところ。鴻門の会で有名)などがある。それ以外にも今や世界的に有名な、鴻門の会跡地の近くある兵馬俑や始皇帝陵がある。また、兵馬俑と西安市内の中間にある覇橋は始皇帝が楚を征伐する王翦を見送った場所であり、秦の子嬰(3代目皇帝)が劉邦に投降した場所などで有名である。 昔の位置とは少し違うのだろうが、始皇帝が安房宮を作ったりした根拠地でもあるので、遺跡はかなり多い。また、劉邦も本拠地としたところから、西安市に負けず劣らず遺跡が多いところだ。 あげればきりがないのだろうが、劉邦の悪名高い奥さん(呂后)の墓である呂后陵(高后呂雉)や名宰相蕭何の墓、漢の名将たちの墓がある。周勃墓、曹参墓、王陵墓、張耳墓のほか、呂后に残酷な殺され方をした戚夫人墓もある。また、漢王朝代々の墓もあり、安陵(恵帝)、陽陵(景帝)、平陵(昭帝)渭陵(元帝)、延陵(成帝)、義陵(哀帝)、康陵(平帝)などがある。そのほか、戸県になるが、項羽の配下時、鴻門の会や漢中脱出時には劉邦を助け、項羽を見限り劉邦に仕えた陳平の墓もある。 また、西安からは遠いが、合陽県に韓信が北伐するときにイカダで黄河を渡った場所である夏陽古渡や、渭南市韓城市に司馬遷墓もある。司馬遷は史記を書き、後世に歴史を伝えた人物。芝川鎮の小高い山上に司馬遷祠と墓があり(西安からバスで8時間)、近くに魏長城遺跡もある。307年に祠堂が建てられ(没後400年)、献殿は宋代に修復し、墓はフビライの命で作られた。さらに、丹鳳県に秦の名宰相である商鞅(しょうおう)の遺跡、封邑遺跡がある。商鞅は思い切った国政改革を行い、秦を強くしたものの、王が変わった時に謀反の疑いをかけられ、逃亡を図るも自分が作った厳しい法によって捕えられ、股裂きの刑に処された悲しい人物。前338年である。 今は陝西省でも第二の都市に発展した大都会。西安から新幹線で1時間20分ほどでいける。鉄道で四川にいくのは、ここが拠点となる。韓信が漢中から西安を目指すとき、まず突破したのが大散関。秦嶺山脈にあるので景色もいいようだ。ここには関があり、ここを突破するのは不可能と言われていたが、いとも簡単に韓信は突破した。それが後々に語られることになった。また、三国時代には陳倉とも言われており、西安の目指すのに重要拠点でもあった。魏でも有能なものがここを守ったのだ。陳倉古城があるようだ。 劉邦にしても劉備にしても外せないところだ。劉邦と項羽は咸陽を目指して西進した。そして劉邦が早く入ったものの、項羽に攻められ項羽の言われるとおり、ここ漢中に赴いた。当時はとっても田舎で奥地。こんな辺境の地に行かされるのはまさに左遷で、このとき左遷という言葉ができた。しかし、張良や蕭何は、力を蓄えるにはもってこいだということで、蜀の桟道を焼き払い、西安以東にはいかないよ、というそぶりを見せる。しかし、賢人や知識人を集め、韓信を大元帥にして、この地から天下統一を成し遂げた。数か月過ごしたようだが、当時、政治を行った場所や漢中博物館になっていたり、韓信を大元帥(大将軍)に任じた場所がある。また、劉備も劉邦にならって、漢中王になった場所でもある。諸葛亮が北伐の拠点とした場所でもあるので、三国志遺跡もとても多い。 2010年5月訪問 中山通りの南にあり漢台は、劉邦が漢中にいたころの王府と言われ、劉邦が執務を行ったところ。韓信もここに来て仕官した。現在は漢中博物館になっている。パスポートを見せればタダで入れる。漢時代の資料などがおかれ、また、三国時代になるが、曹操の直筆と言われている「滾雪(こんせつ:なお曹操の字は「さんずい」がない)」の石碑がある。また、褒斜道など、蜀の桟道などの資料や模型のほか、書道の館があり日本から送られた書もあった。雰囲気がよく、中を散策した後、休憩もでき楽しめる場所だ。ただ、中の展示物はほとんどが撮影禁止なのが残念だ。 近くには【飲馬池】もある。 2010年5月訪問 劉邦に重く用いられないことから一度は漢から離れるが、蕭何が追いかけ、そして、劉邦を説得して大将軍に抜擢された。楚の国でも項羽に重く用いられなかった韓信が、漢にくればいきなり大将軍とは、今までの忠臣の不満は高まっただろうが、それでも蕭何や張良の働きで大抜擢。はじめ劉邦は軽く任命するつもりであったが、大将軍ともなれば、祭壇を作りそこで任命すべきだということになり、ここが作られた。門には「偉業発祥地」と書かれており、まさにそのとおりだ。ここで韓信が大元帥に任命され、そして兵を訓練し、西安を奪い返したのだ。 若いころ、ならず者の股の下をくぐったことから、股夫(こふ)と呼ばれた韓信であるが、ここに漢の大元帥になったのだ。 市民公園のようなところだが、入場料が20元必要。よって、市民は誰も入っていない。確かにそうだろう。なかは漢の重臣がずらっと並び、一番奥に韓信大元帥が立っている。 2010年5月訪問 劉邦に重く用いられないことから、韓信は漢を離れようとする。しかし、それを察知した丞相の蕭何は韓信を追いかける。ちょうど川が氾濫して韓信がとどまっているところを蕭何が見つけ、説得する。そして、なんとか韓信を連れ戻したのだ。そうとも知らず、朝廷にも出ずに追いかけていた蕭何がいないことに立腹した劉邦は蕭何が逃げたと考える。でも、忠臣の蕭何がそんなことするわけなく、ひょっこりと韓信を連れて現れ、再度、進言する。劉邦は渋るが、蕭何の粘り強い説得に、ようやく大元帥に取り立てられた。 漢中から車で1時間ほど北にいったところにある。褒斜道沿いに作られたダム湖の横をとおり、しばらくすると美しい川の横の道をいく。すると馬道という村に入ると、道路沿いに看板がたっている。 2010年5月訪問 蕭何追韓信処からさらに1時間ほどいったところに張良廟がある。もうすぐ行けば宝鶏にいけるかというところでかなりの山の中。張良は、魏の国の人だが、圧政に耐え兼ね若いころ秦の始皇帝の暗殺に失敗する。その後、謎の老人から兵法書を授かったりする。そして、魏の王が項羽に殺されてから、劉邦のために献策を行うようになる。劉邦の臣下のなかでも、蕭何、韓信とともに並べて称される人物。劉邦が漢天下統一した後、韓信は謀反によって殺されるが、張良は隠居した。隠居したところがここなのだ。まさに賢人の身の振り方かもしれないが、劉邦が猜疑心が強くなったことを感じたのであろうか。天下統一し、充実感をを味わいながら、晩年、ここで過ごしたのだろう。なお、諸葛亮も北伐のときに通ったと思われる道沿いにある。張良にあやかって、ここにお参りにきたかもしれない。雰囲気はとてもよく、山の中に古そうな建物が建っている。隠居するには絶好の場所である。漢中からひたすら北上した留{土貝}県にあり、途中は蜀の桟道跡を少し見ることができる。 覇者にもなった越の国。銭唐(杭州)、会稽山(紹興)は、呉越戦争の舞台となった場所だ。いずれの国も覇を唱えたものの、呉は越に滅ぼされ、越は楚に滅ぼされた。呉と越が戦った50年間で起こったことは「呉越同舟」「臥薪嘗胆」など、現在でも普通に使われている。 2011年5月訪問
紹興市街の東南4Kmにある。呉と越が戦い、越王・勾践が呉王・夫差に敗れ、屈辱的な降伏を申し出た地。その後、臥薪嘗胆という言葉がうまれた。今では国家AAAA級の旅遊景区となっており入場料は50元ととても高い。しかも広大な敷地であり、相当時間がないと全部回ることはできない。紹興に訪れる日本人も多いのか、案内板に日本語もあった。ほんとは呉越の戦いで有名なのだが、どっちかというと呉越よりはるか前の禹の大禹陵・禹廟がメインらしい。夏の時代の遺跡であり、夏といえばほぼ神話や伝説の域になるが、紀元前21世紀ごろの王朝だ。その始祖である禹(う)の陵と廟がこの地にある。史記によると「禹、諸侯を江南に会し功を計りて崩ぜり。よりてここに葬る。なづけて会稽という。会稽とはすなわち会して計すなり。」とあるため、ここに陵や廟があるようだ。山の上にある像も禹のものである。 2011年5月訪問
会稽山のふもとにある。夏王朝を開いた禹はこの地に崩じたとの伝説があり、春秋時代の越王は禹の子孫と称していたことからこの地に陵や廟が作られたものと思われる。 2011年5月訪問 紹興市の中心部の府山公園にある。火車駅からタクシーで5分程度。府山公園のの周りは水郷となっていていい雰囲気を醸し出している。時間があればゆっくりと周ってみたいものだ。府山公園は越王である勾践ゆかりの地だ。 紀元前500年頃の話だが、広い中国大陸にいくつかの国があったのだが、今の蘇州を中心とする呉と、紹興にある越の国は近いということもあり争っていた。いわばライバルだ。春秋時代末期の紀元前496年、呉王闔慮は越に攻め込んだが、越軍の自殺部隊を繰り出すという奇策に破れ闔慮はそのときの傷がもとで死ぬ。その子、夫差は復讐を近い、2年後、越を打ち破った。そのとき伍子胥は越王勾践を処刑することを進言したが、夫差は勾践夫妻を呉に監禁することにした。蘇州にある霊岩山の中腹に観音洞があるが、そこに幽閉されていたと言われている。 その後、越は呉の重臣へ賄賂を贈ることで勾践は釈放されることになり、そのとき美女西施が夫差に送られた。夫差は西施におぼれ、西施のために霊岩山の頂上に豪華な宮殿を建て、そこで夫差と西施は遊んだといわれている。勾践は帰国した後、国力回復につとめ、屈辱の敗戦から23年後に蘇州を占拠し、夫差を自殺させた。夫差は父の仇をとるために薪の上で寝、勾践は肝をなめることで呉への復讐心をあおった。このときの夫差と勾践の争いは「臥薪嘗胆」という言葉が生まれたのだ。「呉越同舟」という言葉ができたのもこのころだ。 越王殿に入った瞬間に感動的な絵があった!まさに越王が肝をなめて渋い顔をしているではないか。それがまた見事な表情をしている。また、その周りには越と呉の戦いで起こった故事が書かれている。この絵はじっくりと時間をかけてみるべきものである。入場料8元。 <参考文献> 司馬遷「史記」歴史紀行 村山 孚(人民中国雑誌社編集顧問) 尚文社ジャパン 1,800円(税込み) 「史記」1巻〜11巻 横山光輝 小学館文庫 各629円(648円のものもある) 司馬遷の旅「史記」の古跡をたどる 中央公論新社 藤田勝久著 860円+税 中国歴史散歩1〜4 山川出版社 山口修、鈴木哲造編 各1,457円+税 |