トップページ > 三国志データベース > 三国遺跡(陝西省)


この省には数えればキリがないほど遺跡がごろごろしている。秦の始皇帝や漢時代の遺跡が山ほどあり、西安近郊だけでも相当だ。しかし、三国遺跡になると、西安にはあまりなく、漢中や宝鶏に集中する。三国時代の長安には、董卓の居城だったり、魏の夏候淵などが駐屯していたため、何がしかの遺跡があってもいいと思うのだが。


漢中市 漢中市 古漢台(漢中博物館)、虎頭橋、褒斜道
勉県
定軍山古戦場、諸葛亮墓、漢中武候祠、諸葛亮読書台、諸葛亮制木牛流馬処(製造地)、馬超墓、劉備漢中王
即位地、楊修墓、張魯の娘の墓
寧強県
古陽平関
宝鶏市 宝鶏市
陳倉、大散関
岐山県
五丈原(諸葛井、五丈原諸葛亮廟(武候祠)、豁落城遺跡)
{眉β}県 葫蘆谷(上方谷)


三国時代は南鄭と呼ばれた。周りを山に囲まれ、特に北は秦嶺山脈が連なり、中央には漢水が流れ盆地を作っているので、周りから隔絶されている感がある。そこに目をつけ、後漢末に張魯は五斗米道という宗教団体を形成し、中央政府から独立した形となっていた。張魯政権は30年も続く。その後、この地は重要な場所として、曹操と劉備が争ったり、諸葛亮の北伐の基地となったり、そして「泣いて馬謖を斬る」の舞台になったのもここである。もし、船便があるのであれば、漢中から襄樊まで漢水を下っても面白い。また、前漢の劉邦はここ漢中から全国統一を成し遂げた場所でもある。よって、前漢関係の遺跡も多く、漢中市東部には韓信が高祖によって大将軍に任命された「拝将壇」があったり、漢中市北部には張良廟があったりする。

なお、北から漢中入りするには西安⇒宝鶏⇒漢中になるが、宝鶏からは秦嶺山脈越えになり、260kmの道のりをバスで9時間かかって越えなくてはならない。南からでも広元からなら電車で4時間の移動になる。どっちにしても当時の山越えの大変さが身にしみてわかる。
2010年には宝鶏から陽平関まで電車で行ったが、夜行で約7時間。普通車に座ったまま寝たからとてもしんどかった。陽平関から漢中まではバスで約3時間45分。やっぱり遠かった。そして帰りは漢中から西安までバス。さすが経済発展している中国、あの秦嶺山脈を掘りまくり、超長いトンネルが何個もある高速を通るとわずか4時間で西安だ。これには諸葛亮もびっくりだろう。あれだけ苦労して目指した西安なのに、今ではバスでわずか4時間。三国時代にこのトンネルがあれば、蜀が天下統一していたかも!?


●古漢台(漢中博物館)  2010年5月訪問
漢中市街地中山通りの南にある古漢台は、劉邦が漢中にいた頃の王府といわれ、漢王朝の基礎はここから始まったといってよい。現在、漢台は漢中博物館になっており、なかには貴重な資料がいくつもある。そのなかでもはずせないのは曹操の直筆と言われる「滾雪(こんせつ:なお曹操の字は「さんずい」がない)」の石碑である。この意味は2つあるようで、ひとつは曹操の野望を象徴したもの。「滾(のさんずいなし)」には天子の礼服という意味があり、漢を滅ぼし魏の皇帝になるという悲願を込めたということ。もうひとつは、漢中で石門の下を滾々と流れる水を見て書いたもの。後者ならば「さんずい」が必要になるため、従者が曹操に何故さんずいがないのか、と尋ねたところ、「すでに河には水が沢山ある、その上3つも水しぶきをあげるのか。」と曹操が言ったといわれる。しかし、文学的センスもあっただけあり、字がうまい。

なお、かつては漢台の入り口近くに馬の石像があった。頭まで189cm、背まで125cm、体長233cm、幅55cmの何の変哲もない石の馬だ。これは三国時代に漢中太守を務めていた魏延に関係する遺跡である。虎頭橋で斬られた魏延は、かつての武功を称え、政権を担当していた蒋えんがこの地に魏延の墓を建立し、2頭の馬を墓の前に作らせたようだ。なお、魏延の墓であるが漢中市街地の西北にあるようだ。「石馬坡(せきばは)」と言われ、その名残をとどめている。しかし、碑も何もないため、発見は困難だろう。

●虎頭橋  2010年5月訪問
謀反の気があるとのことで、諸葛亮死後、魏延が馬岱に斬られた場所。市街地の北門外中心広場の西側にある。百貨店になったとき、石碑が割れて散らばったようだが、現在は修復されている。漢中の長距離バス乗り場から南にいったところの大通りに面しており、すぐ横が百貨店入口。最初、わからなかったが、石碑らしきものをみて、これだと思った。まさに漢中の中心部。関羽、張飛、趙雲といった名だたる武将の亡きあと、蜀の猛将といえば魏延ぐらいしかいなかったのだが、それでも斬らなければならなかったつらい事情があった。諸葛亮は、自分の死後、しばらく国造りに努めよということで、魏延のような意気盛んな武将を殺すように命令したのかもしれない。今では、石碑がたっているなかで、売店があったりして当時の面影はまったくないが、それでもいくつかの石碑があり、それなりに見どころはある。
 

●褒斜道(ほうやどう)  2010年5月訪問
漢中市区北部にある。三国時代は宝鶏に抜けるひとつの道であった。ダムができてからは昔の道もなくなり趣もなくなった。ダムは巨大であり、下をみると足がすくむほど。その谷を越える人をのせる滑車があり(アトラクション)、それがまた中国らしいのだ。ダム沿いには、真新しい桟道が作られており、少しだけ歩ける。ただ、横はダム湖であり、それほど風情があるものではない。
 


漢中市から西へ約50kmのところに勉県がある。漢中から車で約1時間。劉備が漢中王になったり、諸葛亮が北伐の基地にしたため、漢中市よりもこっちのほうが三国遺跡が多い。手持ちの陝西省地図冊にも、勉県付近の遺跡を特別に掲載されているほどだ。なぜかと思ったら、北伐時、諸葛亮の総司令部がこの勉県に置かれたとのことだ。そして、その総司令部跡が武候祠になっているという。納得。
●定軍山古戦場  2010年5月訪問
劉備が曹操に勝利した記念すべき地。216年、成都を陥落させた劉備は、漢中に進出してきた曹操と戦う。218年、定軍山に兵を進め、黄忠、趙雲の活躍により、漢中を守っていた夏候淵を斬り、曹操を漢中から撤退させた。劉備が曹操に直接勝利した最初で最後の戦いではないだろうか。このとき、曹操は「鶏肋(けいろく)」という負け惜しみを言って漢中から去った。鶏肋とは、文字通り鶏の肋骨であり、捨てるには惜しいが、肉がついておらず取るに足らない、という意味だ。なお、この言葉を唯一解釈することが出来た楊修は、勝手に軍を撤退させたかどで曹操に斬られている。この戦いの後、219年、曹操の魏王に対抗して、劉備は漢中王になった。
今は大きな山林公園のようになっていて、遊歩道を作るなどきれいに整備されている。

(左)古定軍山の碑。定軍山中腹の農家裏にある。 (中)黄忠が夏侯淵を斬る場面。ふもとにある。 (右)綺麗に整備された定軍山入口。

●諸葛亮墓  2010年5月訪問
定軍山は遺言により諸葛亮の遺体が葬られた地でもあり、諸葛亮墓がある。死してもなお曹魏を睨む気概によるものである。敷地内には、諸葛亮像がある廟や、人形館、そして「漢丞相諸葛忠武候之墓」の石碑と墳墓がある。その墓園には諸葛亮の享年である54にちなみ54本の木が植えられ、今でも通し番号がついている(今では54本もない)。また、そこをさらに奥に行けば、もうひとつの石碑が建っており、「漢丞相諸葛忠武候之真墓」とある。この奥の墓は1800年ごろ歴史通と自称する男によって建てられたようだ。しかし、諸葛亮の墓は実際のところその所在は5世紀ごろから不明になっているようだが、手前にあるほうが立派だし、みんなそっちを拝んでいたので、おそらく手前のほうが正しいのだろう。
ここは、国家AAAA級旅遊景区となっており、4つも星がある。それだけ諸葛亮は中国人民から愛されているということだし、とてもきれいに整備がされている。入口の横に、三国志名場面が書かれた壁もあったり、中は公園のようになっているので散策するのも気持ちがいい。入場料50元。
 

●漢中武候祠  2010年5月訪問
定軍山に葬られてだいぶ経った後、この地に改葬されたもので、最古の武候祠と言われている。ここが出来たのは劉禅の時代、つまり蜀がまだあったときに建てられた。劉禅は諸葛亮を祀りたいという要請を退けていたが、ようやく263年に許可した。蜀も衰退してきたので、諸葛亮に守って欲しいという神頼みだったのだろうか。しかし、その願いも空しく、その年に蜀は滅びてしまった。ここには、諸葛亮像のほか、空城の計で用いたとされる琴を置いていたり、諸葛亮の発明品を紹介するコーナーがある。奥の建物には諸葛祖宗神位なる位牌(木主)が安置されている。さすがに最古の武候祠だけあって、おいている鐘や建物がかなり古く感じる。鐘は紀元300年ごろのものもあった。入場料40元。
また、この武候祠は大通り沿いにあるが、武候祠と馬超墓の間に【諸葛亮読書台】がある。読書台は、名前の通り読書をしたようであるが、実は高台にあるので、そこで勉県の地形を見たり作戦を練っていたようである。
 

●馬超墓  2010年5月訪問
勉県の城西に5虎将軍のひとり悲運の武将、馬超の墓がある。馬超は西涼出身であるが、晩年陽平関を守備したことにより、この地に葬られた。碑には「漢征西将軍馬公超墓」と記されている。その後ろに大きな墳墓がある。石碑は1750年ごろのもの。なお、道を挟んだ反対側にも馬超墓の石碑があるが、以前、このあたり一帯が馬超の墓だったが、道路を通すために分断されたそうである。像はイマイチイメージと違う。入場料10元。
 

●諸葛亮制木牛流馬処(製造地)  2010年5月訪問
当時の戦いで最も重要だったのが兵士の空腹を満たすための兵糧。劉邦が天下統一できたのも丞相蕭何が兵糧を絶やさずに前線に送り続けたからだと言われている。そして、諸葛亮も北伐で最も悩んだのが、険しい秦嶺超えの兵糧運搬であった。司馬懿はその弱点をついて持久戦に出た。そのため、諸葛亮軍はたちまち兵糧が欠乏し兵を引くこともあった。よって、この運搬を牛馬や人の手ではなく、機械力を用いて解決しようとし、「木牛流馬」を考案し、それで少ない人力で大量の兵糧を運ぶことに成功した。肝心の木牛流馬がどのようなものであったかは定かにはなっていない。その製造所と言われているところがここである。なお、一説によれば、これは諸葛亮の奥さんが発明したとも言われている。漢中市の重点文物保護単位になっており1983年の石碑が建っている。また、東屋の天井付近には木牛流馬を作る様子が描かれている。畑の中にぽつんとある。
 
●劉備漢中王即位地  2010年5月訪問
勉県から東に5km行った旧州舗に、劉備が漢中王になった場所がある。煉瓦の塀に囲まれた敷地に、清の1903年建立の「先主初為漢中王設壇処」の石
碑がある。では何故、曹操の魏王に対抗して、蜀王とならず漢中王になったのか?それは、前漢の創始者、劉邦(漢の高祖)がここで漢王と称したため、それにあやかろうとしたのである。小さな集落のなかにポツンとあるので、わかりにくい。民家の並びにある。
 


楊修
曹操が劉備に敗れ、曹操は「鶏肋(けいろく)」という負け惜しみを言って漢中から去った。鶏肋とは、鶏の肋骨であり、捨てるには惜しいが、肉がついておらず取るに足らない、という意味で、この言葉を唯一解釈することが出来た楊修は、勝手に軍を撤退させたかどで曹操に斬られた。その楊修の墓が漢中にある。レンガ工場の近くの野原の中にあるのだが、なんでこんなところに墓があるのかは不明。
 

●張魯の娘の墓
劉備が漢中に入る前、このあたりに五斗米道という宗教がはやった。その教祖が張魯でありその娘の墓がある。なんで娘の墓なのかよくわからないが、なぜかある。漢中では五斗米道やら張魯は、やはり英雄のようで、漢中市内で五斗米道があった時代の寺院のような絵を見た。


●古陽平関  2010年5月訪問
劉備が漢中を攻める拠点としたところ。復元された城壁がある。馬超の像(蜀漢征西将軍馬超記念像)が近くにあり、今後、三国遺跡を復活させるような感じを受ける。ここは交通の要地であり、北は陳倉(現、宝鶏市)、西は甘粛省、南は四川省に道が通じているのである。勉県の街を抜けて西へ5kmほどのところ。なお、陽平関というところもあるが、そこは宝鶏と成都・広元へ抜ける鉄道の駅があり、勉県からバスで2時間以上かかるところなので、別の地域だ。のどかな田園地域のなか、立派な城壁があり、そのうえを歩くととても気持ちがいい。
 

宝鶏市は最近発展した工業都市で陝西省では西安に次ぐ都会である。西安から成都に鉄道で向かう場合、宝鶏を経由する。宝鶏市区には、姜城堡遺跡、炎帝陵、九龍泉遺跡などがある。また、宝鶏駅から大散関行きの観光ツアーもでており、いつかはいってみたいものだ。
●陳倉
宝鶏は昔の陳倉にあたる。魏のかく昭が諸葛亮の攻撃を撃退した地として知られるものの、勝利者かく昭の遺跡は残念ながらない。かく昭もなかなかの武将だったのに、人気の差がこれだけ出るのは可愛そうな気がする。ただ、かく昭は子に派手な埋葬はやめろと命令したらしいが。なお、ここは交通の動脈となっており、西安には交通の便を考えてもかなり近い。それだけ、諸葛亮がここを落としていれば、西安進出も夢ではなかったと思われる。なお、三国時代の陳倉城は宝鶏市中心部からかなり東であり、残念ながらまとまった遺跡は残っていない。

●大散関
宝鶏市区の南にある(正確には宝鶏県)。ここはかつて関門があったところだ。諸葛亮は、第一次北伐は街亭で敗戦し、泣いて馬謖を斬った後、すばやく立て直し、漢中から西北に進路をとり、大散関を突破して陳倉に殺到した。しかし、ここでかく昭の抵抗にあい、兵糧不足で撤退せざるを得なくなった。宝鶏から陽平関方面に向かう道の途中にある。


宝鶏から東に60Km、車で1時間ほど。五丈原のバス停留所から歩いて登り口まで約20分。武候祠までバスもある。
●五丈原  2010年5月訪問
三国志の後半の主役、諸葛亮が亡くなったところ(ちなみに前半の主役は曹操)。そして、吉川英治三国志が終わった場所でもある。諸葛亮が亡くなった後も、数十年かは蜀の国は続くのであるが、吉川英治は諸葛亮の死後のことは書いていないため、ほとんどの日本人はここで三国志が終わったと思っているのではないかと思われる。五丈原は高さ150m、南北3.5km、東西1kmあまりの台地高原の連なりだ。南の秦嶺山脈に連なる基盤山とは幅5丈(約15m)の地峡でつながっているため、五丈原という名がついた。ここに諸葛亮は最期の陣を敷き、そして漢朝復興の願いもむなしく息絶えた。五丈原は三国遺跡のなかでも、3大聖地に入るのではないだろうか。

歩いて登るとなると山のふもとに【諸葛井】がある。当時、毎日当番の兵がここまで水を汲みに来ていたのである。現在は近所のおばちゃんたちが、洗濯を一生懸命やっていた。

登りきると立派な【諸葛亮廟(武候祠)】がある。廟は宋の時代に建てられたが、明、清時代に9回建て直し、今もところどころ修復されている。鐘楼、鼓楼のほか「矢を借りる」や「空城の計」など、演義の名場面が描かれた彩色壁画や、岳飛が書いた「出師の表」が掘られた献殿がある。また、ここには諸葛亮像はもちろんであるが、楊儀、姜維、魏延、馬岱、王平、費い、蔣えんなどの武将像のほか、黄月英婦人(諸葛亮の妻)の像がある。諸葛亮婦人の像はここだけにしかない。襄陽の名士、黄承彦の娘だが、醜いものの才智は優れたいたといわれている。木牛流馬は一説によると婦人の発案という話もある。

また、少し離れたところに【豁落城遺跡】がある。五丈原の一角であるが、武候祠の南に落星村があり、そこにこの遺跡はある。建物はなく城壁だけがわずかに残っているだけだ。基盤山と五丈原を結ぶ地峡にあるので、東西は深い谷となっている。ここが諸葛亮の本陣跡なのだ。諸葛亮臨終のとき、大きな星が本陣に落ちたといわれており、そこでこの名前がついた。陣の下を落星湾、谷間を落星堡と呼ばれており、落星村はその総称なのだろう。諸葛亮が亡くなった悲しみをうまく表現した地名だと思う。

右の写真は豁落城遺跡から漢中、つまり蜀方面だ。諸葛亮が亡くなった後、馬岱をしんがりに蜀軍は撤退した。どんな思いで撤退したのだろうか。

 

 


五丈原から東に15kmほど離れたところにある。{眉β}は「び」と読む。

●葫蘆谷(上方谷)   2010年5月訪問
三国志演義で諸葛亮が司馬懿と魏延を焼き殺そうとしたが、大雨により作戦失敗に終わったところ。現地では葫蘆峪(ころよく)と呼ばれる。諸葛亮の計により谷間に追い詰められた司馬懿を火攻めにし、それを追いかけていた謀反の気があった魏延ともども焼き殺そうとした。しかし、運悪く大雨が降り始め、司馬懿と魏延の天命は尽きていなかったという場所だ。諸葛亮が司馬懿を討ち取る最後のチャンスともいうべき場面なので、蜀ファンとしては地団駄踏んで悔しがった場面である。ここで司馬懿が死んでいれば、蜀が魏を攻め滅ぼしていたかもしれないし、司馬懿がクーデターを起こして魏を乗っ取ることもできなかったと考えると、歴史が変わっていたかもしれないという場所である。ここには2000年に建ったばかりの諸葛亮廟があり、葫蘆谷と書かれた石碑には、司馬懿、司馬師、司馬昭、魏延、魏明帝、姜維、諸葛亮、劉禅の8名の名前が刻まれている。

演義では谷間となっているが、小さな溝があるものの、周りは山に囲まれておらず、ただ平地であり、当時の様子を想像することはできなかった。黄河が近くを流れているので、流れが変わり地形が変わったのかもしれないが、廟の周りには近所の方がたむろっており、おばちゃんが廟内を案内してくれた。

 

【その他】
安康市旬陽に「孟達墓」があるようだ。孟達は、関羽が孫権に攻められているときに助けに行かず、挙句の果てに魏に投降した。しかし、諸葛亮の計によって再度、蜀に協力すると約束を取り付けるが、司馬懿にいち早く見破られ、あえなく殺された。漢中市からさらに東に向かう必要がある。
また西安の東にある渭東は三国時代は弘農と呼ばれていた。この地の出身者は、王濬、楊彪ぐらいであり、その故里遺跡などは期待が薄い。しかし、献帝が長安を脱出したときの経由地であり、その関連遺跡はあるかもしれない。

<参考文献はこちら>

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