トップページ > 三国志データベース > 三国遺跡(湖北省)


長江の中流域にあり三峡を出たところ。まさに交通の要所であり、中国の中心部である。三国時代はこの地は荊州と呼ばれ、劉備、曹操、孫権ともに喉から手が出るほどに欲しかった場所だ。諸葛亮の「天下三分の計」では益州(今の四川省、重慶市)と荊州を領土とし、2方面から魏を攻めるというものであった。曹操の南下時、趙雲、張飛が活躍した当陽、曹操と孫権・劉備連合軍の赤壁の戦い、関羽の居城の荊州、そして非業の死、関羽の弔い合戦となった夷陵などなど、三国遺跡が山ほどある。

【湖北省地図】


襄樊市 古降中、馬躍檀溪処、仲宣楼、蔡瑁故里、孫堅最期の地、関羽水滝七軍之地
南シ章市 徐庶故里、司馬徽故居(水鏡荘)
宜昌市 張飛擂鼓台、劉封城、おう亭古戦場、回馬坡
当陽市 長坂坡、太子橋、娘娘井、張翼徳横矛処、錦屏山、関陵、漢雲長顯聖処、周倉墓、麦城遺跡
武漢市
亀山(群英道)、魯粛墓、赤壁大戦全景画館、費い亭(黄鶴楼)
荊州市周辺 荊州城、関廟、関公削骨療毒地、卸甲山、張飛一担土、得勝橋、公安門、点将台、漢関公馬ホウ泉、落帽台、換帽塚、春秋閣
赤壁周辺  呉王廟、陸遜営塞、赤壁大戦古戦場(蒲圻赤壁)、烏林塞、華容道、放曹坡
その他の地域 東坡赤壁(文赤壁) 、繍林山、徐庶古里、司馬徽故居(水鏡荘)



この街は今も交通の要衝になっていることから、三国時代でも戦略上、重要な場所であったことがわかる。漢水をはさんで北が襄陽、南が樊城と別の市であったが、今は合併して襄樊市になっている。劉表は襄陽に居住して荊州を支配していたが、劉備が劉表を頼ってきたとき、北の曹操に対抗するために、劉備を新野(河南省:襄樊市の北)に駐屯させた。新野に7年間駐屯している間、三顧の礼で諸葛亮を迎えたが、その場所が襄樊市郊外の古隆中と言われている。そんな三国志ともゆかりがあるこの街には、諸葛亮文化広場や三顧の礼像などがあり、三国時代になじみのある街という印象を受ける。
 
(左)諸葛亮像。襄樊駅から西に向かって1時間ほど歩くと(「諸葛亮広場」というバス停もある)、諸葛亮文化広場がある。ここは体育館などの施設があるが、公園の名前のとおり諸葛亮像がある。2001年8月に建てられたこの像は、高さ14mもある。沂南の諸葛亮像も大きかったが、それに輪をかけて大きい。しかも、できばえは素晴らしく、袖のあたりの作りは芸術品だ。夜はライトアップされて幻想的。昼間は遠くからでもかなり目立つ。襄樊の新象徴だろう。
(右)三顧の礼像。鉄道と道路の供用橋である漢江大橋を襄城区に渡ったところの襄陽公園沿いにある。劉備が諸葛亮に例を尽くして迎えている場面だ。
張飛がすねているのが面白い。堀の淵を歩きながら散策すると気持ちいい場所だ。

 
(左)臨漢門。襄城区には城壁が綺麗な形で残されている。北は漢江、東・西・南は堀で囲まれており、その周りを歩くと気持ちいい。有料だが城の上にも上ることができる。この写真の向こう側は漢江であり、城門と漢江が見事にマッチしており、素晴らしい景色だった。
(右)東側の門。1956年11月に建てられた碑がある。


  2007年5月訪問
襄樊市に来れば必ずここに行くのだろうと思われる超メジャーな観光名所。この日は中国でもゴールデンウィークということもあり、めちゃくちゃ人がいた。三国遺跡でこれほどまで人が多い遺跡は初めてだったので、少々面食らった。1956年に古降中文物風景区となり、湖北省の重要文化財になっている。

今でもよく使われる「三顧の礼」という言葉がこの場所で生まれたんだと思うと、感慨もひとしお。諸葛亮が山東省の琅邪から逃れここに隠棲していたとき、新野に駐屯していた劉備が三顧の礼を尽くして、劉備陣営に迎え入れたところだ。そのとき諸葛亮は若干27歳。20歳ほど歳の差がある若造を3回も迎えに行くのは、どんな気持ちだったのだろうか。しかも、1回目、2回目は諸葛亮は不在だ。お供した張飛が怒るのも無理はない。今でも新野から古降中まで車で2時間強はかかる距離だ。大賢人とは聞いていたものの、実力は未知数、当時放浪中の劉備は、藁をつかむ思いでこの地に来たのだろう。そして3回目で会えた時、荊州、益州をとり、北の曹操、東の孫権と対抗する第3の勢力となることを唱える。有名な「天下3分の計」だ。

ちなみに、諸葛亮が潜んでいた地というのは、南陽の臥龍崗という説もある。私は先に臥龍崗に行き、次の日ここに来たが、雰囲気からして古降中に潜んでいたと考えたほうが自然だ。また、地理的にも新野から曹操支配地である北の南陽に向かい、諸葛亮を迎え入れたとも考えにくい。ただ、南陽市は諸葛亮で町おこししているので、それはそれで頑張って欲しいものだ。

中はとにかく広い。近年、急速に観光地化されており、ここに来ればいろんなものを見ることが出来る。全部周るには1日近く必要かと思われる。時間の関係でわずか1時間20分ほどしかいなかったが、主要なところは一通り周れた。隆中碑坊、諸葛草廬庵、武候祠、三顧堂、躬耕田(躬耕隴畝:自ら隴畝に耕すの意)、小虹橋、六角井、隆中寺院などがよく紹介されている。山の上のほうまで上るコースもあったので、ピクニック気分で来る手もある。襄樊市の西郊約13Km。襄樊駅前から路線バスがでており、512番で終点まで乗ると、1時間ほどで行けるだろう。タクシーなら襄樊駅まで30分で行けた。
 
(左)隆中碑坊。入り口を入ってすぐに出迎えてくれる。古降中の看板的存在。(右)三顧の礼を受けた三顧堂。とにかく人がいっぱいだった。


  2007年4月訪問
劉表のお家騒動に巻き込まれ、劉備が劉表配下の蔡瑁に暗殺されそうになって襄樊から新野に逃げる途中、馬で檀渓の激流を飛び越えたところ。劉備の馬は「的廬」といい、凶馬といわれていたが、ここでは劉備の命を助ける。ここは演義遺跡であり、史実ではないものの、「檀渓」の石碑や「馬躍檀渓処」などとかかれた岩がある。付近は住民の生活臭ぷんぷんするところで、川も汚い。裏の山に登ってみたが、ごみが沢山落ちているだけで、小屋と林があるのみ。1983年に建てられた石碑や、岩に彫っている文字は雰囲気がでていていいものの、物語のイメージでここに行くとダメだ。かなりがっかりする。
襄陽古城の西門を出て西に行けば「檀渓路」があるが、その道沿いではない。襄城汽車駅から環山路(檀渓路の1本南の道)を少し西に行き、左折すると見えてくる。近くには超汚い小川もある。市内地図に載っている。演義では、蔡瑁に襲撃されそうになったとき、西門だけ伏兵がいないため、そこから劉備は逃げたことになっているが、それと方角は合わせているということか。
 


  2007年4月訪問
竹林の七賢の一人である王粲(字は仲宣)を記念して建てられた。楼の下には王仲宣像がある。王粲は、193年董卓の乱を避けるために襄陽の劉表を頼り、その後、208年に曹操に仕え、襄陽にいる間、15年間重用された人である。
 
(左)完全なる逆光。朝行くより夕方行ったほうが綺麗に写真が撮れるだろう。
(右)仲宣楼から北にむかった眺め。ここは城壁に上るのがタダなので、多くの人が朝の散策やら体操やらを楽しんでいた。

その他、今回は行けなかったが、襄樊市には以下の三国遺跡がある。

蔡瑁故里
劉表の後妻の弟である蔡瑁の故里。先妻の子は劉g、後妻の子は劉jであり、軍の実権を握っていた蔡瑁は当然ながら劉jを次の太守に勧める。しかし、劉備は長男の劉gを君主にする方が自然の理にかなっている、と劉表に提言する。それが禍し、蔡瑁は劉備を暗殺しようと企んだ。その後、曹操軍に降り、赤壁の戦いの準備をしていたが、周瑜の策略にかかり、曹操に殺された。蔡瑁故里は、襄陽の南部で漢水を渡った鹿門山のふもとにある。地図では確認できていないため、さらに情報を収集する必要あり。

孫堅最期の地
襄陽南方の{山見}山(けんざん)で、孫策、孫権の父、孫堅が流れ矢に当たって死んだ(石を落とされて死んだという説もある)。孫堅は黄巾賊で活躍し、反董卓軍でも先鋒をつとめ、董卓も一目置いていたという。しかし、持ち前の猪突猛進が禍し、早死にしてしまった。ここは地図で場所が確認できておらず、さらに情報を収集する必要あり。

関羽水滝七軍之地
219年ごろ、関羽が荊州を守っていたとき、一時、関羽軍は無敵だった。関羽軍は于禁を生け捕り、ほう徳を戦死させたが、その戦いが行われた場所。曹操は関羽を恐れ、許昌から都を移そうかと考えた時期でもある。ここで当時の武器が多く発掘されている。樊城北10Kmの山谷、罩口川付近がそうである。


【南シ章市】
南シ章市は、襄樊から日帰り可能圏内。襄樊市の南西約60Kmのところにある。襄城区の襄城汽車駅からバスがばんばん出ている。

徐庶古里
徐庶は活躍した年数はそれほど長くはないが、かなり人気がある武将である。もともとは潁川(河南省許昌市)出身であるが、このあたりに移り住んだ。その頃、諸葛亮と親交があった関係で、劉備に諸葛亮を推挙して劉備軍を去る。曹操の計略によって母が魏に拘束されたためだ。短期間だったが、劉備のもとで名軍師ぶりを発揮した。なお、曹操軍にとらわれてからは、あえて大した献策をしなかったという。

司馬徽故居(水鏡荘)
司馬徽、字は徳操、道号は水鏡先生でこのあたりの高名な隠士。演義では、蔡瑁に殺されかけた劉備は命からがら逃げるが、その途中で司馬徽に仕える牧童と会い、その案内で司馬徽の住む場所へ案内されたとされる。そこで、劉備に諸葛亮とほう統の存在を教えた人物である。劉備のその後の人生を変えた人物と言ってもいいだろう。また、県城から1Kmほどいった南側に玉渓山、北側に蛮河があるところに、「漢水鏡栖隠処」の石碑がある。



三峡の一番下流にある西陵峡をでたところにあるため、三峡下りの終着点になっている。長江にはいくつもの桟橋があり、さすがに三峡下りの拠点と思わせる街だ。街もなかなか大きく、市域もかなり広い。長江の流れを間近で見ることができ、川辺でのんびりするのはお勧めだ。

  2002年11月、2007年5月、2018年5月訪問
西陵山(三遊洞内)にある。宜昌市内から市内バスがあるものの、タクシーで行った。宜昌の長距離バスターミナルから約15km、30分程度であった。三遊洞に入るためにチケットを買わなければならない。お目当ては、張飛擂鼓台だけなのに。なお、三遊洞に入るのに48元(2002年は30元だったのに値上げしてた!)。2018年5月は65元になっていた。

赤壁大戦の後、張飛は宜都郡の太守に任命され、ここで太鼓を打って練兵したと言われる。この像は粗削りながら、本当にかっこいい。張飛の荒々しさがにじみ出ている傑作である。川を睨んでいる姿は将軍様という感じ。ここは三峡の終点でもあり、西陵峡を望むことができ、その眺めも素晴らしい。なお、この対岸のロープウェイをわたったところに関羽像もできたようである。
  
(左)堂々たる張飛像!かっこいい! (中)この地は三峡の起点となる。奥に見えるのが宜昌の街。その手前にロープウェイが見える。
(右)ここから西陵峡を望むことができる。張飛擂鼓台から下に下りていくと、桟道があり、上流のほうに歩いていけそうだった。


  2007年5月、2018年5月訪問
劉封は劉備の養子で武勇に優れていたが、関羽敗走時に救援に行かなかったこともあり、わずか26歳で劉備に殺されてしまった悲劇の武将。孟達と宜都(宜昌の西北)を守っていたが、孟達は魏に投降してしまったため、このあたりで漢代の瓦や城の壁などが発見されたことから、劉封城と名付けられた。張飛擂鼓台と同じ三遊洞内にある。2002年には気付かなかったが、2007年に行くことができた。三遊洞の入り口を入って、右手に進むと劉封城へ行くための案内標識がある(左手に行くとすごいアップダウンの道が待っているが、この地の名前がついた場所である三遊洞があり、主役の白居易像などがある)。劉封城の近くに巴楚楽宮があり、その先に張飛擂鼓台がある。19時30分だったので、もう暗い。こんな時間まで三遊洞は空いているのにびっくりだ。写真は2018年5月のもの。



   2007年5月訪問
荊州と関羽を失った劉備は、その怒りに燃え、諸葛亮、趙雲などの忠言を聞かず、呉に攻め込んだ。長江の流れにのり、勢いに任せて最初は優勢だったものの、呉の若き将軍、陸遜の策にはまり徹底的に敗れた。この戦いで多くの武将や兵を失い、劉備は命からがら奉節の白帝城まで逃げ落ちた。それが、三国志の3大戦役である夷陵の戦いであり、戦場になったのが長江三峡から宜昌市にかけてのこのあたり一帯だ。

現在は古戦場の後がテーマパークになっており、若い女性が道案内してくれる。まず、入り口に虎のばけものの像があり、これは一度見たら忘れられないほどの出来だ。劉備は蜀漢皇帝の威厳を示すために「盤龍臥虎亭(ばんりゅうがこてい)」を3日のうちに建てるように命じたが、出来上がったのは虎ではなく怪獣だったので、虎という字に「けもの」へんとつけた。それが「こう亭」の「こう」の字になっている。ここには、劉備が逃げ込んだといわれる「逃出衡」や、劉備が馬を乗り降りしたときに使った岩「上馬{土敦}」、「下馬石」など、十数か所の遺跡がある。また、三国志演義で夷陵の戦いで死んだことになっている黄忠の像もある(本当は病死)。

また、動く関羽像がある関公廟があり、中で線香をたき、その後、何かのおまじないをしてくれた。そしてちゃっかりお金を取られた。もちろん、気持ちの問題なので払わなくてもいいが、坊主が何人もいたので払わざるを得ない雰囲気となり、50元払ってしまった(案内役の若いねーちゃんは後でしきりに謝っていた)。しかし、関公廟の2階から見る風景は最高なので必見だ。ここからの長江の眺めは素晴らしい。残念なのはすぐ近くにシ戸蓉高速道路の宜昌長江公路大橋(巨大な吊り橋)ができていたことだ。長江下流側にできているので、関公廟からすぐ近くに見える。成長著しい中国だが、あまりにも橋や高速を作りすぎると維持が大変だ、などと思ってしまう。

宜昌市東部のこう亭区(枝江市の境近く)にあり、宜昌駅からタクシーで約30分。長江沿いの道沿いにあるためすぐわかるし、市内地図にも載っている。バスなら103番が近くを通る。入場料は39元。
 
(左)長江下流側の入り口。これが虎のばけものの像だ。思わず口の中に入りたくなる。
(右)長江上流の宜昌市方面を望む。右に見える建物が関公廟。廟という名の・・・。ただ、2階からの眺めは絶景。



西北が丘陵、東南は平野がひらけ太陽の上る東の方向を向いていることから、当陽という名前となった。襄樊から火車で2時間10分、宜昌からバスで約1時間、荊州からバスで1時間30分ほどの位置にある。火車駅は街から離れているが、バスなら中心部に到着する。三国志演義120回の中で当陽を舞台としたものが37回というから、当然、三国遺跡も多い。その中でも主役は趙雲と張飛だ。曹軍が南下して攻め劉備軍が散り散りになる中、長坂坡で単騎で阿斗(劉禅:劉備の子ども)を助ける趙雲、長坂橋で仁王立ちし威嚇しただけで曹軍を縮み上がらせた張飛など、三国志前半戦のハイライトがこの地であった。また、赤壁の戦い後、関羽が荊州を守っていたが、曹操、孫権に挟み撃ちにされ、関羽が非業の死をとげた場所でもある。魏・呉・蜀の中間に位置するために、様々なドラマが生まれた地だ。

当陽市には市内地図がないが、長坂坡公園で買ったパンフに三国遺跡を全て記載した地図があった。簡略化して記載しており、また、小さくて見にくいが大体の位置関係は以下のとおりだ。当陽を周って嬉しいのが、入場料が必要なのが関陵(30元)だけで、後は玉泉寺にタクシーで行ったので駐車場代(20元)とられたのみ。中国各地で起こっている入場料の値上げや、有料化に永遠になってほしくないものだ。


  2007年5月訪問
当陽の汽車客運駅(長坂坡)のあたりが当陽中心部であり、当陽にバスで行くと、その場所がまさに長坂坡。そして、いきなり趙雲像が出迎えてくれる。当陽の英雄であり、シンボル的な趙雲像。市内真ん中のロータリーに建つ。趙雲像の長さは4.5m、高さ4.3m、重さ2tというから巨大だ。ただ、事前に調べていた像とポーズが違っていた!2007年1月に建てられたと記載があったのでかなり新しい。ただ、この像もなかなかの出来栄えなので、これはこれで満足だ。戦場から阿斗を抱いて生還したばかりをあらわしたもの、というのは同じであった。趙雲といえば阿斗のイメージが強いのか、武漢・亀山公園など、阿斗を抱いている趙雲像が多い。

曹操の大軍に追われ劉備軍は散り散りになり、そのなかで劉備の妻子がわからなくなった。そこで、趙雲は単身、曹操軍に飛び込み、まず、甘婦人を救出し、再び曹軍を斬り伏せながら麋夫人と阿斗(劉禅)を探し出した。その場所がここ長坂坡だ。なお、史実は甘婦人と阿斗(劉禅)を救出しているのだが(この場面で麋夫人の記述は正史にあまりないので、このときすでに亡くなっていたと言われている)、三国志平話では阿斗は助けるものの甘婦人は曹操軍に殺され、三国志演義では阿斗を趙雲に託した後、ケガをおった麋夫人は井戸に身投げすることになっている。趙雲にとっては、不名誉な脚色だ。

趙雲像から少し行くと長坂坡公園がある。この公園は1950年代以降にできたものだが、入り口のアーチは明の1576年のもの。内部に入るとまずは子龍閣がある。そこを抜けると長坂坡における一連の故事を題にした像が並んでおり、当陽橋で大喝する張飛像、阿斗を救う趙雲像、阿斗を趙雲から手渡されたが趙雲という大事な武将を危うく失うところだと言って阿斗を地面に投げつける劉備像、太子橋の下に隠れる甘婦人と阿斗(これ結構おもろい!)像などがある。作りはウケ狙いとしか思えないものもあり、イマイチ(入場料は無料なので、あまり文句は言えないが)。馬に乗って記念写真を取れる像があり、騒ぎながら写真を撮っているカップルがいた。また、関帝廟もあるが、中はお土産屋。ここで当陽地図が入ったパンフ(2元)と関羽ペンダント(10元)を買った。なお、「長阪」とも表記されることがあるが、いずれか統一できていないようだ。
 
(左)当陽中心部のロータリーにある趙雲像と奥に長坂坡公園が見える。多くの人が記念撮影していた。(右)顔は勇ましい!

 
(左)趙雲像の反対側の長坂坡公園の入り口。道の真ん中に長坂坡石碑がある。右手奥に趙雲像がある。
(右)長坂坡公園内。この碑は「長阪」と表記されている。


  2007年5月訪問           2007年5月訪問
太子橋 趙雲が助けにくるまで麋夫人が阿斗とともに隠れていたところ(演義遺跡)。趙雲像から長坂坡公園沿いに右折し、しばらく行くと玉陽路があるので左折、その先にある。完全な都市公園で近所の住民の憩いの場となっており、魚を干すなど生活感があふれる。この付近は太子という名前のついた店が多く、写真の奥に写っているのも太子賓館だ。橋といっても3mほどの長さで、かなり古いのかデコボコだ。歩くと崩壊するかと思ってこわかった。下のドブ川は草ぼうぼう。作られた感じは否めない。実際、橋よりも公園の左手にある、おそらく清時代の建物のほうが興味深かった。

娘娘井 麋夫人井とも言われており、趙雲が救出したにもかかわらず、怪我をしていたため私がいたら足手まといだからと、麋夫人が身投げしたと言われる井戸だ(演義遺跡)。昔は祠もあったようだ。野菜を石碑の上に干してあったり、近所のおじいちゃんが道に干した稲(?)を片付けていたり、生活感あふれる場所だ。太子橋からさらに進むと斜め左に折れる細い路地がある。池が見えてきたら左折。民家の中の小道だが、そこを30mほど行くと右手にある。集落の中にあるため、わかりにくい。近所のおばちゃんが自慢そうに「ここが本当の娘娘井戸よ。日本人しか来ないけどね。」といっていたのが印象的だ。
 


2007年5月訪問    2007年5月訪問
張翼徳横矛処 張飛の遺跡。張飛は当陽のもうひとりのヒーローだ。ここで張飛が曹軍を食い止めて劉備の危機を救ったと言われている。そのときわずか20騎しかいなかったが、長坂橋のたもとの森で土煙をあげさせ、大軍がいるように見せかけた。そして張飛は橋の中ほどに単騎で、「俺は燕人張飛だ!」と曹軍を睨みつけ、その凄みで曹軍は撤退した。そして張飛は橋を壊して逃げたが、それを見た曹操は、伏兵がいないと悟り、すぐさま劉備を追った。後から、劉備は橋を壊さなければ曹操も追ってこなかっただろうに、と張飛を諭したという。
長坂坡公園にも「張飛断橋」の場面が作られているが、本当の場所はここと言われている。当陽火車駅からさらに奥に1kmほど行くとこの碑が建っている。三叉路の中に建てられており、車の往来が結構激しい。この日は遠く、内蒙古から来ているトラックの運転手が亭の下のコンクリート垣の部分で寝ていた。この碑の先にも行ってみたが、小さな川が流れているだけで、当時の様子を思い浮かべることは難しい。しいて言えば、市街地から当陽火車駅に行くまでに沮河を通るとき当陽橋がかかっており、欄干に三国故事の絵が彫ってあることで偲ぶぐらいか。

錦屏山 曹操の遺跡。三国志演義では景山といわれ、この山で曹操が指揮を取ったといわれている。そのとき、趙雲の活躍を見て、「あの武将を殺すな!生け捕りにしろ。」と命令したそうだ。当陽火車駅の裏側にある山であるが、山の方まで行くことはできなかったが、写真は、「錦屏」と書かれた工場(昔の人民公社の跡地)近くから見た錦屏山。民家の裏から撮影させてもらった。当陽地図では石碑があるようなことを書いていたが(曹操観陣遺跡って書いてある)、ふもとの住民に聞くとあると言い、もっとふもとの住民に聞くとないといい、どっちだ?当陽駅近くに線路をくぐる道があったので、そこを4kmほど進むと碑があるかもしれない。とにかく、あの山から当陽の市街地を見ようと思えば、相当目がよくないと見えないだろうから、曹操はよっぽど視力がよかったんだろう。
 


  2007年5月訪問
ここは関羽の遺跡。当陽の中心部から西北へ約2Kmのところに関陵がある。関帝廟は世界中にあるが、その中でも河南省洛陽の関林(首塚)、山西省解州の関帝廟(関羽故里)と、ここ当陽の関陵は3大と言ってもいいだろう。ちなみに関陵は全国文物保護単位だ。入場料30元。長坂坡の趙雲像からタクシーで5分程度。

このあたりは昔は、{シ章}郷といわれ、ここで関羽が殺されたといわれている(遠安(当時は臨沮)で殺されたという説もある)。演義では、関羽が殺されたとき、呂蒙が呪い殺されたり、玉泉寺に霊現があったりして、関羽の死は神格化された。孫権は関羽を殺しつつも、王侯の礼をもって葬った。劉備の怒りを曹操に向けるため、首は洛陽に送られた。曹操は関羽の首を手厚く葬り、今の関林となっている。よって、ここは首のない遺体が葬られたことになる。

門を入ると「忠義神武霊佑仁勇成顕関聖大帝漢前将軍漢寿亭候墓道」と書かれた石碑(おそらく清代)がまず目に入る。最上級の言葉だ。それ以外には赤兎馬像、関平、周倉を従えた関羽像、天下武聖と書かれた額、関羽像などがあり、そして漢寿亭候墓がある。若いお母さんが子どもさんを連れてきて非常に熱心に拝んでいた姿が印象的だった。今でも関羽は慕われているのだろう。ここはさすがに訪れる人が多い。
関羽が殺されてからというもの、劉備ファンにとって、三国志演義は悲しいばかりの物語となる。
 
(左)関平、周倉を従えた関羽像。この像はかなりカッコイイ。もうひとつ奥にある廟の関羽像もいい出来栄えであった。 (右)漢寿亭候墓。


  2007年5月訪問
ここも関羽の悲しい遺跡。当陽の中心部から西へ約15Kmのところに玉泉寺がある。その一角に「漢雲長顕霊処」がある。水関(河南省)の鎮国寺で関羽と知り合った老僧普浄がこの寺で座禅を組んでいると、関羽の霊が出てきて、「俺の首を返せ!」と叫んでいる。普浄は言い返す、「それじゃ今まで貴公の手にかかった武将達はどうか」と。すると関羽ははっと我に返り、普浄の弟子になり、その後、この地に霊験をあらわして住民の加護をしたそうだ。これはもちろん三国志演義のなかでの話しであるが、関羽が死んだ後は、神格化させるためか、関羽の霊がよく出る。

玉泉寺はかなり立派な寺であり、門構えがすごい。しかし、時間の関係で残念ながら寺の中は入らずに、立派な門を横目に広場を通過すると自動車道の入り口があるので、そっちをタクシーで突っ切って関羽の霊が現れた場所まで行った。この日はすごい人。寺にこんなに人が来るのか、というぐらいすごい人。屋台はでてるし、池でボート乗ってたりするし、遊園地のような感じだった。暑かったので、漢雲長顕聖処は日陰になっており、多くの人がここで休憩していた。ここから山の上に行く遊歩道があるようだ。駐車場代20元。市街地からタクシーで15分ほど。
 

【余談】
当陽市の観光案内をネットで見ていると、関公文化園というものがあったので行ってみた。すると、ただの住宅街であり、入り口に守衛が立っており、住民以外は入ることができなかった。それならネットの観光案内に載せとくな!長坂坡から玉泉寺に行く途中にある。



当陽から南西(荊州方面)に20kmほど行くと、関羽が最後にたてこもった麦城がある。当陽からタクシーを飛ばすこと約30分、鎮のバス停近くの三叉路に麋夫人像が建っている。麋夫人が井戸に身投げしたことを悲しんで建てられたようだが、1997年11月建立と比較的新しい。麋夫人が池で手を洗うと水が綺麗になったとか、そこにあったレンコンが美味しくなったとか、という伝説もある。そして何故かこの像には「麋城」と書かれてある。当陽で入手した地図にも麋城と記載されているが、まさかここ?城址があると思いきや、このやさしい顔をした麋夫人が出迎えてくれる。しかし、何故ここに麋夫人像があるのかは謎だ。
 

  2007年5月訪問
周倉は関平とともに常に関羽に付き従っていた武将。世界各地にある関帝廟には、必ずといっていいほど、周倉と関平が関羽の左右を固めている。よって、関羽についで像が多い武将だろう。ただ、周倉は架空の人物と言われている。三国志演義ではほう徳を生け捕りするなど武勇に優れているが、正史には出てこない。架空といわれている武将の墓を作るぐらいだから、今でも現地の人たちに親しまれているのだろう。麦城から関羽が関平とともに逃走したとき、周倉は麦城に残った。しかし、関羽の死を知ると、その場で自決した。関羽に忠実な武将だ。像の顔はどこに行っても張飛に似た作りとなっている。

中で土を運んで何か工事っぽいことをやっていた。もしかすると左手の空き地部分に何かを作るのかもしれない。作りはいたってシンプルで、入るとまず周倉墓があり、周倉像、周倉将軍廟がある。廟にはカギがかかっていたが、木の杭をはずすと自然に空いた。ラッキーと思って中の周倉像を見ると艶やかさにしばし見とれる。この像は2.82mの大きさで、まさに周倉が主役の廟である。ここには関羽は存在しない。周倉像に見とれていると、入り口のほうから管理人が怒鳴ってやってきた。空けたらダメだったらしい。すごい剣幕だった。
麋夫人像からしばらく歩くと、左手にある。麦城の表示板のすぐ下が入り口。道路沿いにあるのですぐわかる。
 


  2007年5月訪問
趙雲、張飛が当陽で活躍してから11年後、荊州を守っていた関羽は、曹操と孫権の挟み撃ちにあい、非業の死をとげる。当陽から南東方面に20Kmほど行った麦城が関羽が最期にこもった砦だ。このときわずか数百ほどの手勢しかいなかった。なんとか蜀への血路を開こうとし、関平らと夜にまぎれて北門を突破し、西へ向かって逃げたが、あえなく、呉の将軍、朱然と潘璋に捕らえられた。荊州城と比べると、雲泥の差だが、その砦が今でも残っているのがすごい。行ったのが夕方だったので、哀愁感たっぷりだったのかもしれないが、ここに関羽が最期にこもったと考えると、感慨ひとしお。当陽南東部の広大な農地と沮河がもたらした肥沃な土地の真っ只中にあり、ここなら攻められやすく、長期間耐えることができる城でないことがわかる。今ののんびりとした雰囲気からは、当時の状況は想像できない。麦城という名前のとおり、城壁には小麦の栽培がされていたのが印象的だった。

周倉墓から麋夫人像方面へ少し引き返すと、右に鋭角に曲がる道がある。周倉墓の裏側を通りつつ、ひたすらまっすぐ進み、沮河の堤防にぶちあたるまで行く。そして堤防に上り、沮河の雄大さと牛がいるのどかな風景を堪能する(沮河を見ないと損する!)。そして堤防の上から来た道方面を見ると右手に民家が見える。民家の右脇道(あぜ道)をずっと行くと麦城遺跡の石碑がある。歩いているあぜ道はすでに麦城の城壁だ。なお、堤防から舗装道を300mほど戻ると、民家に入る道があり、そっちからも行けるが、軒先を通って民家を突っ切らなければならない。
 



当陽から北西42kmに遠安県がある。ここは宜昌市に属するが、当陽から行ったほうが近い。当陽から西は四川の入り口ということもあり、山が険しくなる。遠安県の中心部はまだましであるが、そこから回馬に向かうまでの道は、山岳コース。私は宜昌から遠安に行ったので、すごい山道を通ることになった。宜昌から北の方角となる。遠安からさらに奥地に行くと神農架があり、西安や漢中にもつながっている。
 
(左)宜昌から回馬に向かう途中の風景。アップダウンが激しく、峠越えが何回かあった。 (右)回馬の標識があるが付近に住宅はまったくない。

  2007年5月訪問
麦城から逃げ追っ手と戦ううちについに10余騎となり、臨沮(決石)まで逃げたとき、呉軍の伏兵が現れてついに関羽は捕らえられた。殺された場所は諸説があるものの、捕えられたのはこの遠安の回馬で間違いないようだ。沮河のほとりに亭があり、その中に碑がある。亭の中には精巧に彫られた関羽の図、そして、「嗚呼此乃 関聖帝君由臨沮入蜀遇呉回馬之処也」と書かれた碑があり、「嗚呼」の文字を見た瞬間、泣ける。ここで捕まってしまったんだな〜、と誰もが惜しむ気持ちを表したものだろう。裏の関羽の図は見事なので必見。

回馬は遠安中心部からさらに20km奥地に入ったところにある。沮河の清流が流れており、周りの山の風景とマッチして、空気が澄んで美しいところであった。季節がいいのでバーベキューをしているグループもいた。回馬という標識のすぐそばにあり、また、遠安⇔真金間の回馬バス停が亭へ向かう橋のすぐそばにある。私は宜昌から行ったが、回馬まで1時間50分かかった。すごい山道、峠を越えて、沮河が道沿いに見えてくれば、回馬までもうすぐだ。当陽から行く場合、遠安まで1時間、遠安から回馬まで1時間といったところだろう。遠安中心部から行くと、滑走路にもなる道路があるかと思えば、突然、山深くなる。山深くなってくれば回馬は近い。麦城から回馬まで約80km、関羽は何を思って逃走していたのだろうか。
  



関羽が10年間君臨していたところで、関羽の遺跡ばかりあり、関羽ファンにとっては聖地のような場所でもある。劉表時代は荊州の中心は襄陽だったが、関羽時代はここ荊州(当時は江陵)が中心となった。なお、ここは昔は江陵県であったが、周辺を合併して荊州市となった。その後、さらに1997年に沙市市と合併して一時、荊沙市となったが、地元要望で由緒ある名前を残そうということで97年に荊州市となった。宜昌、荊州、当陽は三角形になっており、荊州から宜昌、当陽へはそれぞれ1時間強で行ける。武漢からもバスで2時間30分から3時間ほどの距離だ。

ここには、関羽を中心とした沢山の三国遺跡や、市民憩いの場である三国公園、はたまた三国賓館があるなど、街を歩けば三国志色を強く感じる。それ以外にも荊州博物館や、沙市に行けば中山公園、万寿公園(長江沿いで美しい!)など、見どころが一杯ある。今回は時間がなく出来なかったが、いつかは荊州城の城壁をぐるっと歩きたいものだ(全部で10Km強あるらしい)。ただ、荊州城はすごく美しく立派であるが、中の街並みが30年ほど前の建物が密集している地域が多く、歩いていて景観はあまりよくないため、昔の街並みを復興させようという考えはあるようだ

【荊州博物館】
荊州博物館の目玉は前漢文帝のころの県知事のミイラである(エジプトのミイラとは違う状態なので男屍と呼ばれている)。この屍体から発見された病原体が「日本住血吸虫」であり、赤壁の戦いで曹操軍に蔓延して敗北の原因になったというのは有名な話だ。また、越王句践が楚に送った剣もあったようだが、今はここにはないらしい。また、博物館の入り口を入って左にずっと行くと三国志関係の展示コーナーがある。赤兎馬に乗った関羽像(木が生い茂ってたので目立たなかった)や諸葛亮を書いた石碑、赤兎馬にえさをあげていた飼葉桶、曹操軍が使っていた鍋がある。閉館は17時で行ったのが17時ちょうど。守衛のおっちゃんに三国志コーナーを見るだけだからと無理を言って、タダで入れてもらった。しかも、荊州博物館のパンフももらった。
 
(右)関羽像もなかなかよくできているものの、当陽の関陵、荊州の関廟を見た後では、どうも色あせて見える。

【三国公園と荊州古玩城】
荊州城の東北隅に三国公園がある。池があってその周りを散策する、よくある中国の公園であるが、その入り口に劉備、関羽、張飛像がある。これは必見!といっても、この公園は有料のため、入り口からこの像を見ただけだが。入り口からでも十分見える。また、その隣に荊州古玩城が最近オープンしたようだ。要は骨董品屋街なので、それほど人通りは多くないものの、道沿いに三国志の名場面の図や説明がある。これは見ていて面白い。
 
(左)三国公園の劉備、関羽、張飛像。入り口から望遠で撮影。なかなかの雰囲気を出している。(右)荊州古玩城の三顧の礼(隆中)を書いた碑。

【中山公園と万寿公園】
いずれの公園も沙市区にある。中山公園(孫文)は中国のどこの都市にもあるが、ここには関羽遺跡がある。万寿公園は長江沿いの公園で、長江を往来する船と、公安県に渡る荊州長江大橋がよく見える。何年か前の長江大洪水のときは、このあたりは10m近く水位が上がったそうだ。
 
(左)中山公園の入り口。入場料3元なり。 
(右)もう夕陽も沈んでしまったが、万寿公園でたそがれる。カップルも多くいた。海上レストランもあった。



  2007年5月、2018年5月訪問
荊州といえばこの城壁だろう。関羽時代は土の城壁であったが、明、清代に改修された煉瓦になっている。それでも300年前の城壁が残っているのだから、すごいものだ。城壁はほとんど完全な形で残っており、山西省の平遥かここか、というぐらいだ。荊州城は周りを堀に囲まれており、しかも緑が多いため、水と緑と城壁が見事にマッチしている。中国でも最も行きたかった場所のひとつだ。

荊州は、赤壁の戦いの後、劉備が荊州7郡のうち数郡を譲ってくれと、孫権にお願いして、協議によって荊州は劉備のものとなった。しかし、それでは芸がないので、三国志演義では脚色されている。赤壁の戦いの後、荊州城は曹操の息子である曹仁が守っていた。そこを周瑜が攻め曹仁の追い出しに成功したが、その隙に諸葛亮の計略により、劉備が城を奪い取ったことになっている。そのとき、劉備が周瑜に説明したのが、四川を領地にするまで、「荊州を借りる」というものであった。その後、孫権の妹を劉備に娶らせそのときに劉備を暗殺しようとするが失敗、また、四川を攻めに行くという口実で荊州城を占拠しようとするがそれも失敗、ことごとく計が失敗した周瑜は、諸葛亮を同じ時に生まれたことを悔やみながら、30歳半ばという若さで死んだ。その後、劉備が四川を攻めに行く間、関羽がこの城を守ることとなったが、借りたまま孫権に返すことはなかった。そのため、中国では「劉備が荊州を借りる」ということは、返さないという意味になった。

荊州城はぐるっと街を囲むように東西に長く楕円形になっている。城の規模は関羽時代と同じであり、城壁は高さは8〜9m、厚さ約10m、周囲は約10km。昔は城壁の上を馬で走ることができたようだ。関羽考案の、城壁の内側にさらに城壁に囲まれた空き地があり、敵に城門を突破されてもここへ誘導して殲滅する仕掛けや、蔵兵洞という地下に兵士を潜ませる仕掛けがある。6つの城門があり、その中でも、大北門と東門が大きい門だろう。特に東門は観光地化されており、城壁に上ると展示コーナーがあるし、周辺に店も多くレンタサイクルもある。なお、城門に上るにはどこも有料だ。城門近辺だけ有料地区になっており、それ以外は自由に歩くことができる。荊州城周辺には関羽が守備するようになってからの遺跡は数多くあり、荊州市内地図でも三国遺跡を紹介している。そこに書いている場所を、とりあえず全て行ってみた。
 
(左)大北門。この門を入ってすぐ三国公園がある。 (右)大北門。馬も通れる道を作っている。ここから上ると有料だったので、下から見るだけとした。


   2007年5月訪問
劉備政権の荊州行政長官兼荊州方面軍総司令官として君臨した関羽の行政府。今は関廟になっている。はるかかなたの蜀で張飛や趙雲が活躍してい
ることを知り、さぞもどかしかったに違いない。それに発奮されてか曹仁が守る荊州北部を攻めた。しかし、もともと赤壁の戦いの後、荊州の領土をめぐって呉と明確な取り決めがなく、「益州を取るまで荊州を借りる」という微妙な場所で関羽は君臨していた。よって、呉との外交は重要であったが、孫権の息子と関羽の娘を結婚させる話も無碍に断ったりしたものだから、結局、最期は孫権に殺されることになってしまった。

南門(南紀門)のすぐそばにあり、かなりごちゃごちゃしているところに突然と関廟が現れる感じ。多くの人が往来する中、関廟に朝から通っている人もいた。中の関帝廟の関羽、関平、周倉像は金色で素晴らしい出来栄えだ。当陽の関陵といい、荊州の関廟といい、いずれも満足できる像である。早朝だったので関帝廟の中を僧侶が掃除していた。さらに奥に行くと、劉備、関羽、張飛像があり、これまた見ごたえある。ここでの関羽の表記は、関聖帝君である。なお、あまりにも写真を撮りすぎると注意される。関帝廟の像は、中が暗かったので、いずれも没になったのが痛い。
 



        2007年5月訪問
関公削骨療毒地 三国志演義によると、曹仁から受けた毒矢の治療を、関羽は華佗から受けることになっている。その様子が痛々しく、麻酔もなく肉を裂いて骨を削るというものであるが、豪の者関羽は客人と碁に夢中で痛がる様子もない、というものだ。「武将たるもの戦場で命をかけている、腕の1本の治療ぐらい麻酔なしで十分だ」と男、関羽のセリフをはく。その治療の場面を再現したものが、荊州中心医院の中庭にある。なお、華佗というのは演義の創作であるが、医者に治療を受けたのは本当のようだ。人民路側から入るとすぐこの像が見えるが、荊州中路から病院に入ると、病院の中を通らなければならない。病院独特のにおいがして、ちょっと気分が滅入る。

卸甲山 荊州城内には卸甲(しゃこう)山、松甲(そうこう)山、擲甲(てきこう)山の3山があった。いずれも盛り土のような山であったが、前2者は今は名前だけ残っている。松甲山は北の城壁、卸甲山は南西の城壁にあり、関羽が戦いから帰ってきたとき、ここで甲冑を脱いだとされている。擲甲山は呉の呂蒙が荊州を奪ったとき、城内にいた兵士が関羽が戻るのを待たずに投降し、甲冑を脱ぎ捨てた場所と言われているが、今では地名すら残っていない。関羽に都合が悪い場所は、地名としても残していないのだろうか。卸甲山に行ってみたが、郢都路が城壁をくぐるところに「卸甲山」と書かれているだけで、山という感じはしない。城壁の下では青空散髪をしており、城壁に上ると平らな場所があり、そこで近所の人たちがたむろっていた。後世の人たちが、関羽の遺跡をこじつけで作ったのかもしれない。
 
(左)荊州中心医院内の関羽像。(右)新南門の上から卸甲山を見下ろす。わかりにくいが城壁の真ん中あたりに「卸甲山」と書いてある。


      2007年5月訪問
民間の神話的な言い伝えに基づく面白い遺跡だ。関羽と仙女が城を作る競争を行うことになった。そのとき関羽を助けようと張飛がはるばる天秤棒を担いで築城のための土を持ってきた。しかし、張飛が到着したときには関羽がすでに勝っていたので、張飛は城外にその土を捨てたという場所だ。一旦とは天秤棒の両方の荷物のことを言うので、2箇所に土があるはずだが、現在は1箇所しか残っていないようだ。それが小東門(公安門)対岸の南湖路沿いにある。このあたりは九龍淵公園となっており、堀をはさんだ反対側には巨大な屈原像が建っている。おそらくそのあたりにもうひとつの土があったのだろうと思われる。今ではレストランもあるが、後世の人はいろいろと考えて遺跡を作るものだと感心する。市内地図に載っている。
  
(左)普通に通ればまったくわからないこの場所。こんもりしている5m程度の小山だ。しかも木に覆われているので土は一部しか見えない。
(右)レストランの看板に張飛一担土と書いているので、場所を特定できる。この看板の張飛の顔はかっこよかった。


     2007年5月訪問
関羽が、樊城を攻めたり、水淹七軍の水攻めに成功して曹軍を破ったり、ほう徳を斬り、于禁を生捕りするなど、一時期は無敵の関羽軍だった。そのとき凱旋して荊州城に帰ってくるのがこの街であり橋であった。住民はそれを歓声、歌や舞いで出迎えたという。それからこの街と橋は勝ちを得るということで、得勝街・橋になり今でもその名前が残っている。また、埃まみれになった赤兎馬を洗ったのも、このあたりの堀であったと言われている。
 
(左)北大門を出てすぐのところにこの橋がある。 (右)橋の向こうに見えるのが得勝街。昔ながらの雰囲気を残している街だった。


    2007年5月訪問         2007年5月訪問
公安門 荊州城の東南の角には小東門があり、この城、唯一の水門であった。当時、この門から堀にでると、長江まで船で行くことができた。劉備が公安(荊州の南側で長江の南岸)の大本営にいたとき、船で荊州にやってきて、この城門からいつも登城したことから、公安門という名前がついた。今では小東門の後ろに必ず公安門と名前がついている。公安門から城外に出ると、堀がすぐそばにあり、非常に気持ちのよい場所だ。対岸には屈原像が見える(張飛一担土も同じ方面)。今は水門の機能はないものの、当時のことは想像できる。なお、公安門の城内側には刑務所があり、ちょうど見張り室がある。それを写真撮影してしまうと、上から怒鳴られるので注意。

点将台 関羽が兵の指揮を行い、赤兎馬を洗った場所と言われている。近くには拍馬山もあり、その山では演習を行ったといわれている。石碑などはなかったが、近所の人がここだと言っていた。山の上に上る小道もあったので、上ってみたが、草が生い茂っており、足に擦り傷をつけただけに終わった。市内地図に一応、載っている。新場、馬山、川店などに行くバスに乗り、新生バス駅を下車し、進行方向に向かって200mほど行くと道沿いの左手にある。花園村が所在地だが、花園村のバス停まで行ってしまうと、かなり引き返さなくてはならない。ただの小山なので見落とす可能性大。なお、ここに行く途中の黄家山あたりに楚都汽車駅が建設中だった。荊州城内の汽車駅では手狭だし、城内から施設をどんどん外に出しているようだ。
 



2007年5月訪問     2007年5月訪問
漢関公馬ホウ泉 関羽と赤兎馬関連の伝説に基づく遺跡。当陽で劉備が曹操に囲まれていたとき、関羽は劉備を救うためにここを通ったが、人馬は疲れ少しも歩けなくなった。そのとき赤兎馬が水を出そうとこの地を足で掘ったことに感動した山の神が石を割って泉を湧かせたという場所。その泉のおかげで人馬の精力が回復し、劉備を助けることができた。泉は蹄の形をしており、直径85cm、深さは約2mあり、泉の味は甘く枯れないそうだ。清の時代、1840年に碑が建てられた。写真は東屋には井戸があり網で覆われていた。また、この井戸からさらに奥に行くと、清代に建てられた碑があったが、文字が消えて何を書いているかわからなかった。八峰山南麓の馬ホウ泉村にある。点将台からさらに行くと新場の交差点がある。そこを左折し7Kmほど行く。落帽台、八嶺山古墳群を過ぎてしばらく行くと集落があり、さらにまっすぐ行く。左手に高速を見ながら換帽塚を過ぎたあたりに右折する小さい道がある。そこをまっすぐ行くと荊州市荊江鴻酒厰という酒工場があるので、その中。

落帽台 関羽が劉備を救うために当陽に向かっている間、焦っていたので馬を早く走らせていた。しかし、風が強かったので、関羽が帽子を落としてしまったという場所。近くの人たちは関羽の忠義を称え落帽台とよんだ。その後、秋の節句になると人々はここによく上って楽しみ、また、李白もここに上り、「九日龍山飲」の詩を詠んだといわれている。馬ホウ泉、換帽塚とほぼ同じエリアにある。昔は碑があったようだが、現在はなくなったとのことだ。小山のようになっており、斜面にお墓が沢山ある。道なき道を上に上ってみると、頂上は台地のようになっており畑があった。落帽台の西には八嶺山古墳群の碑があり、また、東奥は山を切り崩し何かを採掘していた。落帽台のふもとは工事現場のようになっており、その横の民家では、おじいちゃんが日向ぼっこをしていた。おじいちゃんのお孫さんがドイツに行っているとかで、写真を見せてくれたり、おじいさんの座右の銘を書いた札の説明をしてくれた。
 


   2007年5月訪問
ここも関羽関連の遺跡。落帽塚で帽子を落とした関羽はここで帽子をかぶりなおしたと言われている。といっても、馬ホウ泉、換帽塚と並んで、伝説に基づく遺跡なので、後世の人たちがこじ付けで作った遺跡と考えたほうが無難だろう。おそらく、換帽塚は帽子の形に似ていることから、関羽伝説とくっつけて命名されたものと思われる。しかし、現地に行ってみると、全国文物保護単位になっているのには驚いた。この碑を見たとき、ひょっとして本当なのかな、などと思ってしまった。落帽台からさらに西に行くと、左手に高速道路、右手にこの小山が見えてくる。換帽塚に向かう道があるので、そこを右折し民家の横を通って行くと換帽塚のほうまで道がつながっている。この塚の周りは畑になっており、碑があるところまで近所のおっちゃんに連れて行ってもらった。この碑は林の中に建っているので、場所を知っていないとなかなか見つからないかもしれない。この塚の周りを歩いてみると、荊州郊外の景色がよく見えて気持ちがいい。
 



   2007年5月訪問
当初は、古城南門内に、関羽が荊州を鎮守していたことに記念して1396年に建てられ、三義殿、劉関張の三結義坐像などがあったようだが、残念ながら戦火にあった。その後、1796から1821年の清代に、沙市西郊の金龍寺内に再建され、1933年に沙市区の中山公園に移された。春秋を読んでいた関羽が孔子とともに、春秋に登場するような武神になったのだ。建物の中には入ることができなかったが、春秋を読んでいる立派な関羽像があった。しかし、現在は近所の住民のマージャン部屋になっているようで、雀卓がおいてあった。閣は荊州市の重点文物保護単位になっているのに、その中でマージャンしてもいいのだろうか?孫叔敖(そんしゅくごう)の墓も近くにある。
 



3500年の歴史があり、湖北省の中心都市であり省都である。中国の三大釜とも言われ夏は非常に暑い。市街は武昌、漢陽と漢口の三鎮からなっており、長江と漢水はここで合流する。昔から「九省に通じる」と言われるように交通の便がよく地理的には恵まれている。昔からここは戦略上の重要地であり、三国時代は夏口と呼ばれた。また、武漢の黄鶴楼は、岳陽楼(湖南省岳陽)と滕王閣(江西省南昌)と並んで中国三大楼だ。黄鶴楼は一説によると孫権が223年に創建したと言われている。孫権が221年に武昌(現在の武漢、当時は鄂(がく)と言われていた)に遷都しているため信憑性はある。また三国志平話では、赤壁の戦いの後、周瑜が劉備をここに招待して暗殺を企てるという話もある。

  2002年11月、2007年5月、2014年5月訪問
武漢市の観光地である亀山にある(長江沿い)。亀山はガイドブックには必ず掲載されている場所だ。長江を挟んで黄鶴楼の反対側にある。2002年に来たときは、魏呉蜀の武将像がずらりと並んでいたのだが(100体を越えていた)、景観が悪いだとかでほとんど取っ払われ、今あるのは劉備・関羽・張飛像、曹操像、孫策・孫権像だけだ。また、趙雲と周瑜の像もあるが、この2つはかなりちゃっちい。亀山への入場料は15元(2002年は12元)。
 
(左)孫策・孫権像。右が孫策、左が孫権。孫策の像は初めてみたが、この2人の表情はなかなかいい。
(右)曹操像。これもかなりいい出来だ。
劉備・関羽・張飛像もかなりかっこよく、像の前で何人もの人が写真を撮っていた。


   2007年5月訪問
亀山にある。江東地区に沢山ある魯粛墓のうちのひとつ。ここは衣冠塚(衣や冠だけが収められた墓)である。亀山はあたかも三国テーマパークだ。南門から入り、群英道方面に行きつつ電視塔に向かって右折。曲がってすぐのところにある。近くには巨大な鼎もあるので必見。
 


  2002年11月、2007年5月、2014年5月訪問 閉館
無念の閉館。2002年に行ったときはそれは感動したものだが、赤字運営が続きついに閉館されてしまった。復活を祈っているのは私だけではないはずだ!
(以下は2002年行ったときの感想)
亀山の三国志武将像を過ぎてずっと行けば、奥のほうに忽然とあらわれる。ここは三国志ファンでなくても一見の価値ありと思われる。大きな館やな〜と思って中に入ると、かなり暗い。入ったところ(1階か?)には、展示スペースになっていた。そこから螺旋階段を上がると景色は一変する!360度広がる超巨大な絵が目に飛び込んでくる。かなりド迫力だ。ショーが始まると、絵の後ろからライトアップされ、リアルさが増す。それにあわせて、おどろおどろしい語り口調で解説が始まる(もちろん、中国語)。赤壁の戦いは、曹操VS孫権・劉備連合軍で戦われ曹操有利と言われつつ、孫権・劉備連合軍が勝ち、その後の三国鼎立に大きく影響を与えた戦いとなった。入場料は30元。

 

●費い亭(黄鶴楼)
異説があるものの黄鶴楼は223年に孫権が創建した。黄鶴楼は言わずと知れた武漢の一番の観光名所であり、中国三大楼と言われている。黄鶴楼という名前の由来はいくつか説があるが、そのなかに仙人となった蜀の費いが黄色い鶴に乗ってここに降り立ち休憩した、というものもある。それにちなんでか、黄鶴楼公園の敷地内には「費い亭」という東屋がある。




赤壁市
いつでも行けると思っていたけどなかなか行けなかった場所。武漢市の武昌火車駅から約2時間南下したところにある。赤壁駅を降りると、広い広場の周りは閑散としている。タクシーだけが止まっていたし、観光客が多いのか、観光客慣れしている。そのなかで元気のいい運ちゃんを選び、赤壁へ出発。あいにくの雨が残念である。


魯王廟
2012年5月訪問

赤壁駅からタクシーで5分ほどのところにある魯粛の廟。呉の地には魯粛関連の遺跡は山ほどある。そのうちのひとつだ。魯粛が真ん中にどんと座り、その周りを呂蒙と陸遜が固めるパターン。人形の出来栄えがいいとは言えないが、雰囲気のある廟である。タクシーの運ちゃんが熱心の拝んでいたのがとても印象的だ。

陸遜営寨
2012年5月訪問

劉備の大軍を夷陵の戦いで撃破した英雄、陸遜を称えて作ろうとしていたテーマパークか!?赤壁市の中心部から川沿いを上流に向かって20分ほどのところに突然あらわれる。看板は立派であり、少しなかにはいると陸遜像があり、おっと思わせる。像の出来栄えはそこそこであるが、威厳を感じる。山の上に何か見えたので、雨が降っていたが上ることにした。しかし道は草ぼうぼう。かなりの石段があり、そこを上りきると、大将軍になるための拝将台を作っていた。しかし、草ぼうぼうどころか、かなり木が成長していて、人がほとんど来ていない様子だ。近所の方が何かに使えるようなものにすればよかったものの、ここまで上るのも結構きついし、人が来なくなったのだろう。石段もかなり急だ。
とはいえ、英雄陸遜を称えようというその心意気に、気分よく見ることができた。


赤壁鎮
赤壁大戦古戦場 
2012年5月訪問
従来から赤壁大戦はどこでやったのか?という論争があった。というのもこのあたりに赤壁という地名が4箇所あるからだ(名乗りを上げたのは7箇所という話もある)。近年になってようやく蒲圻に確定された(「蒲圻赤壁」「武赤壁」といわれることもある)。それからというもの、ここは観光地化が進んでいる。なお、赤壁市の市街地からは西北へ約40kmと離れている。赤壁市中心部からタクシーで約1時間、赤壁鎮の外れに巨大な門がある。レッドクリフが放映されてからは、有名な観光地になったのか。かなりのテーマパークだ。しかも一人150元と高い。雨が降っていたこともあり、閑散としている。門を入ったところには、レッドクリフの撮影で使われたセットがおいてある。そこから山のほうに入っていくと、いろいろと見所がある。


まずはどこにでもあるような関羽廟だ。中に入って拝んでいると、占いをやれといわれる。やってみるとこれもお金をとられる。お布施だ。30元なり。そのかわりありがたそうな紙をもらう。さらに山を登っていき、降りたところの金鸞山に、ほう統が曹操を欺く連環の計を成功させたことを称え
鳳雛庵がある。ほう統お手植えという「1000年銀杏樹」もある。そしてさらに進むとそ赤壁山には周瑜が全軍を指揮した場所だという「翼江亭」という六角形の東屋や、周瑜像の近くにも「望江亭」という東屋がある。

テーマパークはまだまだ続く。赤壁大戦勝利は完全に周瑜の戦功であるにもかかわらず、三国志演義では諸葛亮やほう統にかなり活躍させている。赤壁山につらなる南屏山には「武候宮」があり拝風台がある。これは祈祷によって風向きを変えるという諸葛亮の神業からできたものだ。しかし、諸葛亮もほう統も赤壁大戦では活躍していないため、両方ともフィクションによって作られた遺跡である。そのほか、「赤壁大戦陳列館」や「東風閣」、「水寨門」などの見どころもあるようだ。

(左)孔明が風向きを変えたといわれる拝風台。もちろん演義での作り話。 (右)鳳雛庵。ひっそりとして、前には畑があり、雰囲気がでている。

東屋から少しだけ長江が見えたものの、お目当ての赤壁岸壁にはつかない。しばらく歩いていくと、突如見えたのが
周瑜像だ。これは赤壁では最大の見所のひとつ。高さ6.5m、台座をあわせると9.2mにもなる巨大な像だ。一本角のヘルメットと巨大マントが特徴的だ。この像は長江対岸の曹操軍を見据えず、長江を背にして立っているのは、訪問客へのご愛嬌か!?そこは小高くなっており長江が一望できる。ようやく長江を満足に見れるところに着いた。

ちょうど周瑜像の下あたりに
有名な長江の崖に刻まれた「赤壁の文字」がある。この文字は一説には周瑜が書いたものと言われている。このほとりに来るのが夢だった!そしてついにかなった!長江のほとりでしばらく長江をぼーっと眺める。ここで1800年前に赤壁の戦いが行われたのだ。どんな駆け引きがあり、どんな風に戦い、どのように火がおこっていたのか創造するだけで面白い。
なお、少し離れた金鸞山のはるか西南に「黄蓋湖」という大きな湖があり、苦肉の策を成功させ火攻めの立役者である黄蓋にちなんで付けられた名前の湖もあるようだ。翼江亭のやや下流に観光用波止場があり、大きな船も停船できるようだ。また、南屏山から蒲圻・洪湖道路を反対に降りると岸辺に出るが、そこから「赤壁の渡し」がでている(赤壁汽車渡口と立て札あり)。監利への移動にこの船を使ったが、長江の風がとても心地よいのである。それを渡ったところが、曹操駐屯地の烏林なのだ。

【赤壁について】

赤壁に関して調べてみた。
新野を一時的な拠点としていた劉備は曹操の南下を防げるすべもない。民とともに劉備は逃げた。退却の途中、長阪での張飛や当陽での趙雲の活躍などにより、なんとか逃げ延びることが出来た。破竹の勢いで南進する曹操軍、その数20数万人。呉を滅ぼすための拠点とすべく、曹操は江陵(現在の荊州)をとった。

ここで、呉の国では大激論。曹操に降伏するのか徹底抗戦するのか!?決め手となったのは周瑜と魯粛の粘り強い孫権への進言。そして孫権は曹操と徹底抗戦することを決意した。対戦する前にいろんな駆け引きがあるのだが、それはここでは割愛。最終的に周瑜の活躍により曹操を木っ端微塵にした。そして、その影にいたのが諸葛亮孔明。孔明のいくつかの助言により見事、曹操を破ることができたのだ。と、これは演義の話。実際は北方民族で構成されていた曹操軍は、船酔いと疫病(正確には「住血吸虫病の急性感染」)に勝てなかったということだ。

まー、何にしても曹操は敗れた。戦いに負けた後は撤退するしかない。烏林から華容を抜け江陵と落ち延びていくのだが、その途中は大雨が降り道は泥だらけ。そのとき曹操を華容で待ち伏せていたのは関羽である。曹操を守る兵士は数百騎しかいない。しかし、義理人情の人、関羽は、一時期曹操にお世話になったことを忘れず、逃がしてやった。劉備ファンは思う、何故、そのとき曹操を捕らえなかったのか!?歴史に「もしも」はないが、もし捕らえていたらその後の三国形成は明らかにかわっていただろう・・・。

そしてこの「曹操敗走コース」というのが、華容古道である。ここで華容古道について解説。現在、湖南省に華容県というところがある。これは長江南岸にある。よってここはNG!三国時代には南安県と言われ、598年に華容県と改められたようだ。本当の華容道は、長江北岸の監利県中部にある道路10kmがそうだという説が有力だ。監利のベン(さんずいに下と書く)河曹鞭港から毛市鎮の放曹坡までの細い道である。

また、本当の赤壁はどこなのか?という論争があった。現在では蒲圻(ほき)で落ち着いているが、その周辺には他に4箇所も赤壁がある。
当初、黄州赤壁(東坡赤壁・文赤壁とも言われる)が有力であった。それは黄州は唐宋以降、文人の集う土地となり、その文人たちが知らず知らずのうちに、黄州赤壁において周瑜が曹操を破った場所と誤解されていた。蘇東坡の詩により「黄州赤壁、天下に聞こゆ」となってしまった。ずっとその解釈がなされていたが、近年になって出土文物によって蒲圻(周郎赤壁・武赤壁とも言われる)で確定したようだ。ちなみに、黄州も文人が集まっていただけあって、風情のある街らしい。機会があれば行ってみたいものだ。なお、その他の赤壁は、武昌赤壁(赤壁山)、臨嶂赤壁、漢川赤壁。

余談だが、日本で赤壁と言われている場所もある。結構あるものだ。
『兵庫姫路赤壁』、『島根壱岐赤壁』、『島根出雲赤壁』、『埼玉長瀞赤壁』、『静岡波勝崎赤壁』、『北海道赤壁滝』、『群馬吾妻赤壁』、『群馬高津戸赤壁』、『岐阜苗木城(赤壁城)』、『東京神田川赤壁』、『大分合元寺(赤壁寺)』、『愛知大入赤壁』

洪湖市
赤壁に行った後、監利に向かうには遠い。そこで、烏林に近い洪湖市に泊まることにした。ここは探索すれば曹操軍関連の遺跡はあるはずであるし、市内地図にも遺跡として掲載されていた。街の名前の通り湖があるのだが、湖と長江に挟まれた街である。
ここは、
赤壁大戦のとき曹操が陣を敷いた場所。赤壁遺跡の対岸にある。当時、ここは長江が赤く染まるほどの曹操軍のおびただしい死体で埋まり、いまだに人骨や武器が出土すると言われている。また、この地ではたびたび曹操軍の霊が出て船舶に災いを起こすため、南岸に霊を鎮めるために「赤壁」の文字が書かれた。アクセスとしては、赤壁市から遺跡を見て、渡船で行くのが風情があっていいが、高速道路もできたので武漢から3時間ぐらいで行ける。
今では長江沿いでとても風情のあるいい街なのである。

(左)赤壁から洪湖に向かう船。正面の林が烏林あたりと思われる。 (右)洪湖市街地からすぐに長江沿いにいける。多くの市民が体操やダンスをしていた。


監利県
華容古道 
2014年5月訪問
赤壁大戦で敗れた曹操の敗走ルート。全長約10Kmで、終点は毛市鎮の湿地帯。ここを抜けて西北に行くと、荊州市に抜ける。入り口には古華容道の石碑があり、近くには魏の武将達の像を展示した「曹公祠」がある。また、途中の太平街という村には、曹操が畑の大根を食べて飢えを癒した「救曹田」や、ぬかるみにはまった曹操が馬を下り鞭を投げ捨てた「曹鞭港」などの史跡がある。そのほか、「曹操湾」といわれるところや、大雨の中の退却だったためむかるむ足場を柴や草を道に敷かせた「白骨塚」などの碑もある。その他、趙雲が兵を伏せたという「楊林山(子龍崗)」や、張飛が兵を伏せた「白螺獅子山」などが、洪湖の南側にあるようだ。


放曹坡
2014年5月訪問
赤壁大戦で敗れた曹操を関羽が待ち伏せていたが、昔の恩義があるために関羽が曹操を斬れなかったところ。
赤壁で大敗を喫した曹操は、数少ない兵士とともに荊州まで逃げる。悪路が続く華容道で苦難が続き、兵士もどんどんと気力、体力がなくなっていく。そこに、天下の豪勇関羽があらわれたらたまったもんでない。命乞いするしかないのだ。情にもろい関羽は、そこで曹操を逃してしまう。それも孔明にしてみれば、すでに読んでいたというのである。
三国志ぜんはんのハイライトの赤壁。戦いだけでも十分に物語になるのだが、戦い後もそのようなドラマがあった場所である。





【その他の湖北省の遺跡】
東坡赤壁(文赤壁) (黄州市)
従来からここが赤壁大戦古戦場の有力地であった。それは、唐の李白が「赤壁の送別を歌う」から始まり、その後、蘇東坡が「黄州赤壁、天下に聞こゆ」で黄州の名前が売れたのだ。しかし、蒲圻赤壁で大量の武器などが発見されたことなどから、蒲圻で古戦場が確定してしまった。しかし、この東坡赤壁は「文赤壁」として、それはそれでいい雰囲気をかもし出している。
繍林山 (石首市)
劉備が荊州にいた頃、政略結婚で孫権の妹、孫尚香と結婚した。三国志演義では鎮江の甘露寺で結婚したことになっているが、実際は当時の呉と劉備軍の境目のこのあたりで式があったとされている。現在、繍林山には孫夫人像が建ち、長江を見下ろしているが、将来は観光地化される計画があるようだ。

<参考文献はこちら>

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