トップページ > 三国志データベース > 三国遺跡(安徽省)



安徽省は長江によって分断されているが、長江沿いと北部ではその様相が異なる。長江のまわりは呉の国の要地であったため、孫権軍団を偲ぶことができる。
また、呉の大軍師である周瑜の墓参りをすることもできる。


北部で忘れちゃならないのが曹操の出身地である亳州だ。三国志演義の人気が高まるにつれ、曹操の悪役イメージがつき人気が落ちたが、やっぱり三国志の主役は曹操である。歴史的にも貢献した曹操は、政治家、軍事家、文学家の3つの顔を持つ。才能溢れる英雄である。最近、曹操が見直されているということなので嬉しい限りだ。
曹操つながりでは合肥の張遼だ。呉の大軍を相手にわずか数百騎で蹴散らし、「遼来々」と恐れられた猛将だ。
安徽省は北に南に見どころが多いが、日本から行きにくいのがネックと思っていたが、上海虹橋から今や和諧号(新幹線)がある!合肥はもはや上海から3時間で行けるので、無理すりゃ日帰り圏内。曹操の出身地の亳州でも上海から宿州まで和諧号で2時間15分ほど、そこからバスでいけばかなり早く行けそうだ。
安徽省は行くには遠いイメージがあったものの、もはや行きやすくて近い省になったのだ。

【安徽省地図】


亳州市 9 亳州市
曹操像、魏武故里、曹氏公園(曹四孤堆)、三国攬勝宮、運兵道、華佗記念館、関帝廟、{言焦}令寺、らん馬
墻と飲馬坑
巣湖市 1 廬江県 周瑜墓
六安市 1 舒城県 周瑜城遺跡
馬鞍山市 1 馬鞍山市 朱然墓
合肥市 4 合肥市 逍遥津、曹操教弩台、蔵船草色(第一人民病院内)、合肥新城
1 長豊県 袁術墓
阜陽市にもひょっとすれば遺跡があるかも・・・。


合肥市

長江と淮河の間にあり、安徽省の省都である。ここは魏と呉の激戦の地で何度となく大戦が行われている。なかでも魏の猛将・張遼の伝説のある街だ。
中国らしい造りの合肥駅を降り、大通りを歩いていくと近代的なビルが立ち並んでいる。しかもマンションも高級そうである。和諧号が開通したこともあって、ここ数年でかなり発展している様子がうかがえる。そんななか、逍遥津公園に足を運ぶと、朝から太極拳をしている人民たちを見ると、昔のままの中国を感じることもできる。
在来線しかなかったときは、上海から7時間ほどかかる場所であったが、今や上海虹橋駅から和諧号で3時間強でいけるようになった。電車には、合肥から上海まで買い物やデートに出かけているような人たちも見かける。中国人民の生活も変わったものである。


 
(左)合肥駅。どこにでもあるような駅ではあるが重厚感がある。  (右)合肥から蘆江に向かう合肥郊外の新興住宅地。半端ない数のマンションが建っている。

逍遥津   2012年5月訪問

215年に孫権は10万の軍勢で合肥を攻撃した。わずか7000の軍勢で合肥を守っていた張遼は曹操が残しておいた計略に従い、奇襲をかけて大勝した。さらに撤退する呉軍に追い討ちをかけ、陳武の戦死など大被害を出し、孫権も危なく戦死するところだった。その激戦地となった「逍遥津」は、合肥の中心にあり、公園になっている。また、孫権が馬で川を飛び越えたという「飛騎橋」は公園近くにある(中にもある)。また、この公園の最大の見所はなんといってもかなりカッコイイ「張遼像」だ。この像は迫力もあり評価が高い。また、その後方には「張遼衣
冠塚」や「張遼亭」もある。張遼ファンなら見逃せない場所である。

  
(左)合肥中心部にある逍遥津公園入口。無料。繁華街の道向かいにある (右)かっこいい張遼像!いい出来栄えである。

 
(左)池に浮かんでいる島にある衣冠塚。なんであんなところにあるのか。ボートで行けるけど、雨降ってるし時間ないしで行くのはパス。
(右)逍遥津公園内にある飛騎橋。孫権がなんとか逃げ切ったと言われている場所。公園外にもある(下右の写真)。

 
(左)逍遥津公園の奥にある張遼墓。東屋を抜けてくだったところにある。それほど大きくなく馬超墓クラスか。
(右)逍遥津公園の外にある飛騎橋跡の碑。合肥の遺跡には、開いた本の形をした案内板がある。


曹操教弩台   2012年4月訪問
逍遥津公園近くにある明教寺の壁は高さが5mもあり、その壁を曹操教弩台という。曹操が台を築いて強弩を教え500人に孫権の水軍を防がせたと言われるところ。この台には松の木が茂っていたが、廬陽八景といわれていた。曹操は、ここで弓の練習に励む将兵が木陰で涼めるように、松を植樹させ、それが生い茂って「松弩松蔭」と呼ばれるようになったという。今はその面影はなく、台の東南の隅に「聴松閣」はその名残らしい。また、台の上には268年に造られた「屋上井」もある。
今となっては、繁華街のど真ん中に位置しており、三国遺跡の雰囲気を感じることができない場所である。
 

斛兵塘   2012年5月訪問

逍遥津公園近くにある明教寺の壁は高さが5mもあり、その壁を曹操教弩台という。文献によれば、曹操が台を築いて強弩を教え500人に孫権の水軍を防がせた
曹操は大軍を率いて合肥まで進んだ。ただ、本当の兵士の数がわからなかったので、数えた場所。大きな穴を掘り、兵士を順番に入れて計ったのだ。そして、そのあとが今や池になっているというわけだ。米を量る道具という意味の「斛」が使われている。

なお、ここは車が近づけない場所であり、近くで降りてもかなり歩かなければならない。おまけに大学が近くにあり、その校内に入ってしまえば袋小路だ。時間に余裕を持って行くべし。ここに行ったばっかりに、電車に乗り遅れてしまった。
合肥地図に載っているので簡単に行ける。街の南のほうであり、合肥駅からタクシーで20分ほど。
 
近所の住人たちの憩いの場となっている。池の周囲を散策すれば、気持ちいいのである。

●蔵船草色(第一人民病院内)
奇襲のとき、張遼が伏兵を潜ませていたところ。同地は300年ほど前の「廬陽八景(合肥八景)」と言われるほどの名所であり、文人の詩にも残っているほど。

●合肥新城
233年、魏の満寵が合肥城が守りにくいとのことで、西30里に新しい城を築いた。それから合肥は魏の領土として安定した。現在、合肥の西15Kmの鶏鳴山の東麓に合肥新城とされる土塁が残っている。



長豊県
合肥市に属する。合肥から北上すること1時間強で到着すると思われる。歴史上は何もない場所であるが、袁術が亡くなった場所というところ。道端で倒れて亡くなった袁術なので、ほんとに辺鄙な場所でなくなったものだ。

●袁術墓

とても魅力を感じる遺跡であり、合肥から無理してもよほどいこうと思った場所である。
合肥市区から北に向かった長豊県の中心部(水湖鎮)まで行き、そこから西に向かった楊公鎮にある。ほとんど土山なので聞き込みしていかなければわからないだろう。
袁術、字は公路。家柄がよく袁紹の弟で南陽太守。曹操の董卓誅滅の檄に応じた諸侯のひとり。孫堅が先陣きって活躍していたが、孫堅の力が大きくなるのを恐れて兵糧を送らなかったという陰険な奴。また、伝国の玉璽を入手したということで自ら帝位を僭称したが、それに諸侯の反発を喰らったうえに、あまりにの贅沢ぶりに人心は離れた。兄の袁紹を頼る途中に劉備に襲われ、兵にも見捨てられ最期は病を発し吐血して死んだ。ひどいことをした奴の最期というものはあっけないものだ。その彼の墓が残っているというから面白い。道端に倒れた袁術を側近が埋めたんだろう。
家柄はよかったのだろうが、最期は悲惨とも言うべき死に方をした、袁術の墓にはとても興味がある。おそらく、とても辺鄙な場所で、こんなところで亡くなったのかと思わせる場所であろう。




廬江県

巣湖市に属する。巣湖市といえば、項羽の軍師であった范増のふるさとである。
三国時代とは範囲が違うものの、廬江といえば、周瑜、丁奉、左慈、劉曄、陳武など、そうそうたるメンバーの出身地である。ここは合肥から南下する高速
道路が通っており、高速バスに乗れば1時間少しで到着する。なお、周瑜の出身地は隣県の六安市舒城県であり、廬江県とはかなり近い。

周瑜墓   2012年4月訪問

諸葛亮孔明と並んで三国時代の名軍師だが、残念なことに34歳という若さで亡くなってしまう。孫堅、孫策と周瑜が長生きしていれば、呉が三国統一していたかもしれない、と思うのは私だけではないはずだ。三国志演義では何かと諸葛亮の引き立て役であるが、実際はかなりのキレ者で、赤壁の戦いで曹操軍を破ったのは周瑜だけの功績といっても過言ではない。赤壁の戦いの後、亡くならなければ劉備の入蜀はなかったかもしれない。また、周瑜は容姿もカッコよく、そのため美人な奥さんの小喬を娶るが、短命なのは天命というべきなのだろうか。誠に残念な早死にである。映画「レッドクリフ」でも周瑜の格好良さは際立っていたが、あれが真実の姿なのだろう。

周瑜は益州侵攻の途中、巴丘で亡くなったとされているが、どこに葬られたのかは定かではない。よって、ここの墓は本当かどうかはわからない。墓は城東1Kmのところにあり、墳墓、石碑、石像がある。なお、妻の小喬の墓もあったようだが、なくなったようだ(T_T)。
周瑜墓はとても綺麗に整備されており、近隣住民の憩いの場となっている。壁に書かれた周瑜の一生は見ごたえあり。神童周瑜から始まり、最後に小喬が周瑜の死を悲しんでいる様子まで描かれている。


合肥から高速バスで1時間15分(25元)、蘆江バスターミナルから輪タクで15分ほど(5元)。

(左)周瑜墓入口。普通の道の横にある。周瑜路の近く。入場無料。 
(中)一番奥に周瑜墓がある。墓の周りには近隣住民がたむろっていた。
(右)壁面には
「宦官世家 少年神童」から始まり、「黄蓋献計 火焼赤壁」などがあり、「小喬守墓 千古悠悠」まで周瑜の一生を書いた碑がある。



舒城県
六安市に位置する、周瑜のふるさと。蘆江からタクシーで西に向かって1時間30分ほどで到着。片田舎といった感じで、のどかな風景が広がっている。

周瑜城遺跡   2012年4月訪問

周瑜の出身地ということもあって、蘆江から向かう。蘆江からバス移動が時間がかかりそうだったので、タクシーで移動。周瑜城遺跡という看板が公道にかかっており期待膨らませて、畑のなかの道を進んでいく。すると、あったのは、何ともカッコ悪い周瑜の像と碑だけ。周瑜出身地ということもあって、このあたりを観光開発したかったのだろうが、頓挫しているのか!?三国遺跡はどこに行ってもそうなのだが、蜀関連遺跡は比較的整備されているが、魏、呉となると、ほとんどと言っていいほど整備されていない。なんとも残念な遺跡だった。雨が降っていたこともあって、さらに寂しさを感じてしまった。

(左)公道から田舎道を1kmほどはいると分岐がありここから周瑜像にいける。「周瑜城遺跡」と書いており期待が膨らむ。裏面に何か書いてあったが、まったく読めなくて残念。
(中)しばらく進むと像が見えてきてワクワクするが行ってみるとこれだけ。碑には「周瑜城」と書いている。周瑜が旗揚げしたときに、この地で集結したのだろうと想像するが、像と碑だけ作っただけという感じ。これ以上の発展はないのか!?干汊河鎮人民政府(この辺の自治体)により2002年4月8日に建立されたとある。
(右)合肥の張遼像と比べると、あまりにも貧素な顔である・・・。周瑜はかっこよかったのではないのか!



亳州市

亳州といえば三国志の主役、曹操の出身地である。当時は沛国しょう県と言われていた。ここは河南省の許昌にも近い。許昌を都としたのは、曹操が故郷
にすぐに避難できるためと言われている。なお、「しょう県」の「しょう」は{言+焦}。また、三国時代の名医である華佗の出身地でもある。歴史的には曹操のほうが貢献度が高いが、この亳州は「薬都」と言われているように、華佗のほうが亳州の人たちにとってみれば偉いようだ。
なお、日本からなら上海経由で和諧号に乗り宿州までいってから、バスで行くのが一番早いか。
●曹操像
亳州駅前にある。数ある曹操像の中でも、堂々としており私は最も好きだ。亳州にきたらこの像を見るべし。

●魏武故里
街の中心部から歩いていける距離。当時、ここに曹操の邸宅があったようだが、今は石碑がぽつんとあるだけ。しかも、近所の人のゴミ捨て場になっている。

●曹氏公園(曹四孤堆)
亳州駅から1.5Kmほど西に行ったところ(市街地図に掲載有)。曹操の祖父である曹騰の兄弟4人の墳墓がある所とされていた。近年、この曹操宗族墓一体が公園となっている(曹操宗族墓群)。公園内には曹操記念館があり、政治家、軍事家、文学家の3つの顔を持つ曹操像がある。なお、この一体には曹嵩(曹操の父)、曹騰(祖父)、曹褒(曹仁の祖父)、曹熾(そうし:曹仁の父)、曹胤(曹熾の弟)の5つの墳墓があったようだ。なお、この5人には異説もあり文献によっては曹丕が入る場合もある。
なお、肝心の曹操はどこに葬られたのか?それは謎となっているが、有力なのが河北省ぎょう城と河南省の許昌である。正史では墓は質素にするように命じており、かつ「高陵」に葬られたとある。高陵がどこかはわからないのだが、ぎょう城が有力のようである。
⇒実は近年、曹操の見直し論が出始めた頃、曹操墓が見つかったというニュースがあった。いつかは行かねば!

●三国攬勝宮
曹氏公園のすぐ近くにある蝋人形館。官渡大戦、赤壁大戦などの名場面ごとに陳列されている。しかし、曹操中心の物語ではなく、三国志全般のテーマになっている。人形のできはイマイチらしい。

●運兵道
人民南路と人民中路が交わるところにある。曹操が用いたとされる地下兵道。現存する中国最古の軍事地下道だ。深さ2mから3m、幅は1mから1.5mほどで、約2kmの長さがある。公開されているのは一部だけ。また、この兵道の出口の交差点には曹操像がある。

●華佗記念館
市街地にこの記念館がある(市街地図に掲載有)。名医と言われる華佗も曹操と同じ亳州出身だ。この記念館は華佗の住居跡と言われており、「華祖庵」でもある。唐・宋時代に華佗廟が建てられたが、記念館は1985年に再建された。なお、記念館の額は郭沫若が書いたものである。
また、白布大街と亳州路が交差する北門には、華佗像がある。

●関帝廟
市街地北部にあり、「花戯楼」とも言われる(市街地図に掲載有)。関帝廟は曹操出身地にまで進出してきているのか!?廟の脇には陳列場があり、1973年に南郊の漢墓から出土した銀縷玉衣が飾ってあるが、曹嵩ではないかと言われている。

●{言焦}令寺
33歳の曹操がここで隠居したところ。現在は小学校として使用されている。場所が特定できず行くのは困難か!?

●らん馬墻と飲馬坑
{言焦}城区馬場街にある石積みと隣の窪地。この石に馬をつなぎ、また、水を飲ませたようだ。「らんばしょう」の「らん」は「欄」で「てへん」。




馬鞍山市

南京から少し行けばこの馬鞍山市に到着する。このあたりも呉の国の要所だったので、沢山遺跡があるかと思いきや、今のところ朱然墓だけである。まー、
探せば沢山あると思うけど。しかし、朱然墓のためにこの街にわざわざ行くのもな~、というのは朱然に失礼か。
●朱然墓
朱然は呉の名将であり、左大司馬まで上りつめ当陽候に封ぜられた。しかし、関羽を生け捕りにして、夷陵の戦いでも蜀軍を撃沈したために、三国志演義では早死にさせられるかわいそうな将軍だ。演義では夷陵の戦いで趙雲に突き殺されているが、実際は趙雲よりも20年以上長生きしている。この墓は1984年に発見されたもので、三国時代の最高クラスの墓であり、副葬品がもっとも沢山見つかっているようだ。よって、朱然ってかなり偉い人だったということがよくわかる。市内地図には必ず掲載されているので、地元では観光名所になっているようだ。


【その他三国遺跡があるかもしれない所】
阜陽市

ここは呉の将軍、呂蒙の出身地。当時は汝南郡富波県といわれた所。呂蒙はファンも多いはずだ。しかし、関羽を殺した張本人だから、期待は薄いか!?

<参考文献はこちら>

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