トップページ > 三国志データベース > 三国遺跡(河南省)


さすが中原、たくさんの三国遺跡がある。なかでも曹操の居城である許昌は群を抜いて遺跡数が多い。その他、洛陽、鄭州、開封など訪れてみたい街が
目白押し。南部に行けば、劉備の居城があった新野もあるし、臥龍崗の南陽もある。三国遺跡めぐりだけでも1ヶ月は滞在できそうな省だ。

【河南省地図】


南陽市 南陽市 臥龍崗
方城県 博望坡
新野県 漢桑城、漢議事台跡、擂鼓とん
洛陽市 洛陽市 関林、漢魏故城、白馬寺
許昌市

許昌市
覇陵橋公園、春秋楼、夏侯淵・夏侯惇墓、荀淑墓
許昌県 曹魏故城、張飛廟、伏皇后墓、毛墓、郤慮墓、賈く墓、華佗墓、馬騰墓
長葛市 射鹿台
シ累河市 臨潁県
受禅台、献帝廟
安陽市 滑県 白馬古戦場
新郷市 延津県
延津古戦場
鄭州市
中牟県
官渡古戦場、曹操井戸
けい陽市 虎牢関
三門峡市 霊宝市 函谷関
焦作市
司馬懿故里



三国時代は宛といわれ魏のほぼ南端であった。曹操が張繍と争って死にかけたところであり、そして、劉備が駐屯していた新野や諸葛亮が隠れ住んでいたと
いわれている臥龍崗(襄樊という説もあり)、諸葛亮が初手柄を上げた博望坡もある。また、関羽が荊州を守っていたときは、このあたりまで攻めてきた。三
国志のいろんな場面で登場する場所である。行ったのは5月であったが、かなり暑かった。タクシーに乗っていてもボーっとするぐらい暑い。中国三大釜ではな
いか、と思うぐらいであった。
 
(左)南陽汽車駅。ここから南陽の旅が始まった。 (右)臥龍崗から少し東にある三顧橋。ここを通って劉備は三顧の礼で諸葛亮を迎えたといわれている。


  2007年4月訪問
南陽市街から西南の方向にあり、市内地図に載ってある。南陽の中心的観光地と言ってもいいだろう。
諸葛亮がまだ世に出る前に潜んでいた場所(と南陽市が言い張っているところ)。諸葛亮の出身地をめぐって湖北省襄樊市と争っている。出師の表に「南陽
に耕す」とあったことから、南陽に諸葛亮がいたと主張しているが、それは少数説。劉備が敵地の魏まで入りこんで三顧の礼をやったとは考えにくい。やはり、
当時新野に駐屯していた劉備は、その南側の襄樊市古隆中にいる諸葛亮に会いに行ったと考えるのが自然だろう。
実際に行ってみると、その本気度合いには関心する。規模が大きくすべて回ると結構時間がかかる。古降中が山の中にあるのに対し、ここはほぼ市街地の
中にあり、都市公園という感じを受ける。入り口には出師の表が販売してあり、思わず購入してしまった。のんびりと散策するにはいいところだ。
 



南陽から東北方面に車で1時間強ほど行ったところに方城県博望鎮がある。ここは西域遠征をおこなった張騫を漢の武帝が封じた土地でもある。
  2007年4月訪問
三国志演義の中で諸葛亮が初手柄をあげる場所がここ博望坡だ。曹操が新野の劉備を攻めようと南下したとき、この博望坡で諸葛亮が火攻めを行い曹
操軍を退却させた。趙雲をおとりに曹操軍をおびき寄せ、伏兵で潜んでいた関羽、張飛が火で曹操軍を散々に打ち負かす。このとき以来、関羽、張飛は
諸葛亮を認めるようになった。ここには、「三国樹」といわれる1本の木がある。これは火攻めのとき、唯一残った木だそうだ。半分ぐらい焼けており、そのときの
跡だそうな。実は諸葛亮の手柄は架空のようで、ここは、三国志演義にちなんで出来た遺跡だ。地元民の諸葛亮に対する尊敬の念の現われなのだろう。
博望坡の横はバスどおりとなっており、近隣の街まで行くバスがひんぱんに通っていた。博望坡と書かれた碑は形がよく、雰囲気がでている。

 


南陽市から南へ約70Kmいったところにある田舎町。人口は3万人で周辺部を入れると70万人というから、中国にしては小さい街だ。劉備が劉表に身を寄せ
ていたとき、曹操対策のため最前線を守らされたところ。曹操が袁紹と戦っている間、劉備が7年間もここでのんびり暮らしていた。有名な「髀肉の嘆(ひにく
のたん)」はこのときうまれた。劉備駐屯時をこの田舎町で偲ぶのもいいだろう。なお、南の湖北省襄樊市からもアクセス可能でバスがひっきりなしに出てい
る。南陽市と襄樊市のほぼ中間に位置する。古城のような街並みを期待していたものの、普通の街と変わらなかったのが残念。4月末だったがかなり暑く、ゆ
っくり街を散策する気も起こらず早々に退散した。

  2007年4月訪問
城壁の高さが2.7m、一周わずか30歩弱でまわれる城。世界最小の城というのがうたい文句らしい。この城の中には関羽が植えたという桑の木が生えてい
る。樹齢1800年というのもすごいが、桑の木を守るために城を作るのもすごい。しかも、小学校の校庭のほぼ真ん中にあるため、子ども達もさぞかし遊びにく
いだろうと思う。小学校の名前は「漢桑城小学校」でそのままだ。この小学校は誰もが知っているので、聞けばすぐに場所はわかる。なお、門のところに守衛
のおじさんが居るので、入るときは必ず許可をもらうこと。また、出ようとしたら守衛のおじさんがおらず、しばらく閉じ込められたままになってしまったが、10分ほど
経つと帰ってきたので、門の鍵を開けてもらうことができた。
 

  2007年4月訪問
県政府の前にある。劉備が諸葛亮たちと政治・軍事を協議したところ。門は鍵がかかっており中には入れないが、政府に行けば鍵を開けてくれるだろう。特に
中に入る気力もなく、外から眺めて退散した。新野県重要文物保護単位になっている。しかし、1800年前にここで軍議を諮ったのか?
 

その他、新野の東の高台に張飛が馬を飼った牧場と、張飛が太鼓をたたいたといわれている「擂鼓とん」があるようだ。とんは{土+敦}と書く。



日本で言うと京都か奈良。歴史の勉強で必ずでてくるところ。中国歴代王朝でも後漢、西晋、北魏など9つの王朝が都とした。しかし、四方から攻めること
が容易なため、守ることが難しかったと言われている。なお、三国遺跡は意外に少ない。洛陽には、少林寺や世界遺産の龍門石窟があるが、それらとあわせ
て必ず観光コースになるのが白馬寺だ。

白馬寺は洛陽の東の端の白馬寺鎮にあり、洛陽市街からなら車で30分ほどかかる。さらに東に行けば漢魏故城があるため、当時は市街地近くだったという
ことだ。ここは、中国最初の仏教寺院で創建は後漢時代の西暦68年。後漢の明帝が夢のお告げによってインドに使者を派遣すると、天竺の僧が仏教の経
典を白馬に乗せて運んできたということから、この名前がついた。金代の仏塔建築様式の斉雲塔が美しい。多くの西洋人が観光していた。

白馬寺
 

  2008年9月訪問
アジアを中心とした世界中にある関帝廟(関羽を祀ったところ)の総本山。関羽が孫権に殺され、劉備の報復を恐れた孫権が、その首を曹操に送った。それ
を受け取った曹操は手厚くこの地に葬ったのだ。演義では、その後、関羽の亡霊が毎晩曹操の枕元に出てきて、ついに曹操も体調を崩し、亡くなることにな
っている。
ここの関羽像は見ごたえありだ!これほどまでに金ぴかになると神々しい。関林の裏には首塚もある。関羽は、孔子と並ぶほど神格化された。ひとりの武将が
神にまでなるというのはすごい。中国広しといえども、林がついた墓は、孔子の孔林と、関羽の関林しかない。
市街地から南に7kmの関林鎮にある。洛陽の地図で見る限り、街の中という感じ。

  

  2008年9月訪問
後漢、三国時代(魏)の洛陽城の遺構。後漢末に董卓が破壊したため廃墟となったが、曹操が再建して魏の都となり、晋もここを都とした。2〜3mの盛り土
のような城壁跡は南側を除いてかなり残っている。当時は、南北約3800m、東西約2600mあったようだ。
ここは厳密にいうと洛陽市ではなく偃師市になる。白馬寺から東に向かうと首陽山料金所があり、そこを出てすぐ。洛陽市街から東に15Kmほどの場所で、
車で30分程度。当時は今の市街地からかなり東にあったということだ。310号沿いにいくつか看板がでているので、すぐにわかる。
 


この街を交差して東西南北に鉄路が走る交通の要所。平家必争の地といわれ、中原のなかでももっとも中心地といっていい。河南省最大の都市でもあり、
また、各地から人も集まっていることから、駅前はすごい人だ。しかし、こんな大きな街でも、どことなく田舎の雰囲気をかもし出しており、大昔は栄えた地域で
も、今となっては開発が遅れているといったところか。ホテルは駅前の紅珊瑚酒店にしたが、4星といえども、決して綺麗なホテルではなかった。この周辺は、三
国志のみならず、春秋戦国時代や項羽と劉邦関連の遺跡もある。


鄭州市中心部から東へ37Kmで、開封からも近い。ここは官渡古戦場があるほか、1938年に日本軍が蒋介石軍を追って進出した場所でもある。蒋介石
は黄河の堤防を決壊させるという暴挙に出て、日本軍だけじゃなく、人民にも多大な被害を与えた。中牟県の中心部は都会っぽい感じ。

  2008年9月訪問
官渡の前に、白馬や延津で前哨戦があり、それらの戦いでは曹操が優勢であった。それでも、兵士の数では袁紹が断然有利だったが、曹操軍の兵糧攻め
を発端に袁紹軍は崩壊、袁紹は北に向かって逃げていった。その後、曹操が勢力を拡大することになる。三国志前半のハイライトの戦いだ。

中牟県官渡鎮官渡橋村を中心とした一帯が古戦場跡。官渡橋村に見どころは集まっているものの、官渡の戦いを蝋人形で再現された「官渡古戦場芸
術宮」はすでに閉園、その近くにある「曹操騎馬像」も荒れ放題。なお、大孟鎮草場村は曹操軍の駐屯地があった場所で「曹操井戸」があるようだが、曹
操騎馬像の近くにはなかった。また、曹操が馬をつないだと言われている「曹操栓馬槐」もあったようだが、現地の人によれば没有のようだ。消滅か!?三国
遺跡のなかでも、かなり荒廃しているところだろう。
なお、官渡寺はせめてもの救い。ここには関帝廟があり、関羽、周倉、関平の新しい像があった。もともと、関帝廟を立てる計画があったらしく碑文もある。

 
(左)310号沿いに官渡古戦場の看板がある。この入り口付近のロータリーに騎馬像がある。ここから悪路を北に向かっていくと官渡村がある。
(右)見にくいが官渡橋と書いた石碑。官渡村の交差点にある、さらに北に進むと突き当たりに官渡古戦場芸術宮がある。

  
(左)見るも無残な官渡古戦場芸術宮。門が閉まっていたが管理人がいて少しだけ入らせてくれた。でも、館の近くまで行くと、激しい口調で出て行け、と言
ってきた。おそらく、近づくと危ないこともあったのだろう。なお、遠景はこちら
(右)官渡古戦場芸術宮から畑を越えていくと曹操騎馬像がある。芸術宮の敷地からも、西側を向くと小さく見えている。小山になっているが、山に上る部
分は崩れているし、草がぼうぼうだし、像のところに上がるだけでもてこずる。いかに、地元の人が三国遺跡に力を入れていないのかがわかる。後姿はカッコイ
イ。曹操が見ている方角の左手に芸術宮がある。


    2008年9月訪問
鄭州から西へ50Kmの洛陽に向かう途中にあり、洛陽の喉元にあたるため昔から戦略上の要地であった。虎牢関という名前は、周の王が狩をしたとき1匹の
虎が飛びかかってきたが、近衛部隊がその虎を生捕り、このあたりに檻を作って飼われたことから、この名がついている。漢のとき成皋県(せいこう)と呼ばれ、、
三国時代に水関となり、その後何度も改称されたが、地元では虎牢関という名前が使われている。

ここは、漢末には、項羽と劉邦が争い、韓信、英布の大軍が到着したこともあり、項羽が敗北した場所だ。そして、三国時代は董卓軍と反董卓連合軍の決
戦が行われた(水関の戦い)。演義では、ここで関羽が華雄を斬り、呂布と劉備・関羽・張飛が戦ったことになっているが、それはフィクションである。ただ、
それにちなみ三義廟もあるが、史実は孫堅が活躍した場所だ。

なお、三国志演義では、「虎牢関」と「水関」が別の場所にあったように書かれているが、同じ場所である。演義の作者がこのあたりの地理がよくわかってい
なかったため、もしくは、当時、地理は国家的機密だったため情報が伝わらずに不正確になっているとう説もある。
 
(左)虎牢関石碑。このあたり一帯の開発計画の看板があり、それによると三義廟の奥もずっと立派な殿ができるようであった。あった。確かに石碑から三義
廟あたりは綺麗になっている。石碑の左奥に見えるのが三義廟。  (右)三義廟の関羽像。周倉、関平ももちろん左右にいる。

 
三義廟の中に書いている、劉備・関羽・張飛と呂布の戦いの絵。最近、書き直したように綺麗だった。これ以外には桃園結義などの絵もあった。

  2008年9月訪問
虎牢関の北西には、漢時代には成皋城といわれ、のちに呂布が守ったため呂布城とも言われている城壁跡がある。虎牢関の北西方面にある細い道を横
穴式住居を見つつ奥に進む。するとさらに道が細くなってきてあぜ道の一歩手前ぐらいの道となる。谷を進んでいき開けたところに、呂布城の跡が残っていた。
ただ、呂布城といっても1Km近くの長さがあるようで、ここで見たのは一部だろう。この城のすぐ向こうは黄河だ。この日は曇っていたので黄河がはっきり見えな
かったのが残念だが、それでも雄大さは十分にわかる。
 
(左)谷を進んでくるとこの小山が見える。呂布城の向こうは黄河だ。 (右)呂布城の上からみた黄河。畑も綺麗に耕されており四方見渡せて美しかった。


洛陽と西安の中間地点にある三門峡市に属し、そのなかでも霊宝市は西端にあり陝西省に接する。あと、260Kmほど行けば西安である。このあたりは山深
くなっており、洛陽から三門峡に向かう途中も、川か道路か鉄路しかなく、その両端は山となっていた。三門峡駅周辺も高台になっているが、気温も少し低
く、山の中の開発が遅れている寂しい都市という感じを受けた。なお、三門峡市から北に60Kmほど行けば関羽故里の運城市(山西省)がある。

  2008年9月訪問
戦国時代(前431〜前221)に秦が東方の各国に対する防衛の拠点として設けた関であるが、前漢のとき関を東方150kmの新安県の北東に移した(前
114)。前者が古函谷関で「秦関」ともいい、後者が「漢関」と言われる。ここは前者であるが、霊宝市北15kmの王だ(土+朶)村にある。三門峡より約7.
5kmに“長安古道”が黄河の岸辺にピタッと寄っており、「関は峡谷中にあり、深険、函の如く」とその名を得る。なお、「漢関」は北周時代に「通洛防」と改
められた。
また、ここでいくつかの故事があり、老子はここで道徳経五千言を授けられ、ここから西方に赴いて行方がわからなくなったとか、斉の孟嘗君が秦に使して逃
げ帰るとき、従者が鶏の鳴声をまねて夜明け前に関守に門を開けさせ無事追手を逃れた話などが有名である。それにちなんで鶏鳴台がある。
  
(左)函谷関の裏玄関。表玄関から入りここに抜けるつくりになっている。 (中)函谷古道。裏玄関から入っていくと、昔からあったような古道が続くが、しばら
く行くと進入禁止になっていた。おそらくそのまま行くと西安に抜ける道だろう。 (右)鶏鳴狗盗にちなんだ鶏鳴台。この近くに少し笑える鶏の像がある。

    2008年9月訪問
孔明の最大のライバルである司馬懿の故里。司馬懿の孫の司馬炎が曹氏の魏を倒して晋を建国したので偉大な賢人なのだが、諸葛亮孔明の敵役だった
のでどうも人気がない。司馬懿さえいなければ孔明の北伐が成功していたに違いない、と思っている人は多いはずだ。蜀のファンにとっては、憎い奴。

焦作市中心部から南へ下り温県へ、さらに西に向かい孟州市との境目近くまでいった招賢安楽寨村にある(客運駅のすぐそば)。温県地図(河南省地図
冊)に掲載されている。なお、鄭州から車チャーターしたため、黄河にかかる大橋を通って、虎牢関から1時間ほどで到着した。司馬懿像はなかなかの出来
で、安楽寨村の温県司馬懿研究会が1994年9月に建立したもの。街中の一角にある小公園という感じ。
  


【許昌市】
曹操が都城を造営してから許昌は許都と呼ばれるようになった。つまり後漢のラストエンペラーである献帝の居城があった場所だ。献帝(劉協)はこの地の受
禅台で曹操の子、曹丕に帝位を奪われ、はるか北の焦作に隠居したが、今はその地で立派な墓があるようだ。魏の都であったことから、遺跡の数がかなり
多い。許昌市だけでも全てを周るのはかなりの日数がかかりそうだ。なお、曹操故里の亳州市はこの近くだろうと思っていたが、よく見ると許昌から東へほぼ一
直線の安徽省最西部となり省が違う。
許昌市は、3つの市と3つの県から成っており、簡略図は以下のとおり。許昌のまわりにある、禹州市やえん陵県にも三国遺跡はごろごろしてそうだ(「えん陵」
の「えん」は{焉+おおざとへん(β)})。後は行ったとこ勝負で現地で情報収集しかないだろう。

【許昌市地図】


●覇陵橋公園
許昌市郊外。曹操にとらわれていた関羽が劉備のもとへ帰るときに、曹操や張遼らが別れを惜しんだ場所。関羽のやや滑稽な像が建つ。橋を渡ると関帝
廟があり、そこには、関帝聖続図の壁画、三義廟、5虎将像、そして諸葛亮の像もある。

●春秋楼
許昌市街地からほぼ真西の許昌県との境にある。中国の聖人2名を祭っているところ。文聖は孔子、武聖はもちろん関羽である。ここの関羽像はとにかく巨
大で13mもある。金色というのも神々しい。

●夏侯淵・夏侯惇墓
位干城西7Kmの河街鎮賀庄北(今市石油庫院内)にある。2つの墓は東西に並列されており、東が惇、西が淵で、墓の高さは10m、敷地3300uというか
ら広い(三国地図:珠海出版社)。なお、曹操とは親戚で旗揚げ当時から苦楽をともにしている。特に惇は曹操の寝室に入れる唯一の人物であったといわ
れている。惇は自分の片目を食べたというイメージがつきすぎているが、曹操の信頼は厚かった。

(中国MLからの情報)石油備蓄基地内にあるので「近くまでいくのは問題ない」ですが「近くに寄って見学する」のは一手間必要です。西側(確か)入り口す
ぐの所に事務所があるので、そこで何とか拝み倒して案内してもらいました北側入り口の守衛所では取りつく島もなく追い返されます。重要施設だから当たり
前か…。拝み倒した職員の方について頂いて見せて頂きました。罰当たりなことに登る事もできます(笑)。写真も、言えば撮らせてもらえます(ぉぃぉぃ)。帰り
道、とぼとぼ大きい道(バスのある道)に向かって歩いていたら、タンクローリーに乗せて貰いました。ちょっと怖かったです…。

●荀淑墓
許昌市北2Km陳庄村西にある。曹操に「俺の子房だ!(子房は前漢高祖の名参謀張良のこと)」と言わしめた荀ケ(じゅんいく)の祖父の墓。潁川郡(許
昌の三国時代の呼び名)一帯では博学として知られた荀淑は、8人の息子がいた。その次男の息子が荀ケである。ここは8人の息子も祭っていることから
「八龍塚」と言われる。

<許昌市許昌県>
●曹魏故城
市街地から東南に18km離れた許昌県張潘鎮にある。献帝が儀式に用いた「毓秀台」や、かなり崩れかけた城壁のほんの一部がある。東の楼蘭か、と思わ
せる雰囲気がいいかもしれない。なお、ここは魏の都らしく、このあたりに張遼、徐晃、張こうのほか、蜀を滅ぼしたケ艾(とうがい)の墓もあるようだ。なお、こ
の張潘鎮には故城もあり、いい雰囲気をかもし出している。
毓秀台は許昌県地図に掲載されている。

●張飛廟
曹魏故城から西北1Kmのところにある(許昌県張潘鎮)。劉備、関羽、張飛が曹操配下のとき住んでいたために建てられたようだが、何故張飛だけ?劉
備、関羽、張飛のほかに、周倉、関平像がある。廟前には「三姓柏」という三人の馬を繋いだ木も残っている。
許昌県地図に掲載されている。

●伏皇后墓
位干許昌市南15Kmの許昌県蒋李集鎮塚劉村東北隅にある。墓高10m、敷地1730u(三国地図:珠海出版社)。献帝の妻、伏完の娘の墓。董卓遷
都時代からの妻であり、献帝には良く仕えていた。曹操暗殺を企てるが、これも失敗、殺された。

●毛墓
位干許昌市東16Kmの許昌県五女店鎮毛王村金亀崗上にある(三国地図:珠海出版社)。毛丞相墓ともいう。「もうかい」といったほうが馴染みがいい。
どうしても脇役というイメージだが、墓が残っているのが不思議である。唯一といっていいほどの見せ場は、赤壁の戦い前に、蔡瑁、張允が呉軍の計略により
処刑された後、干禁とともに水軍都督となったときである。しかし、連環の計にはまってしまい、曹操大敗北のきっかけを作ってしまった。敗走してからあまり登
場せず、なんとなくパッとしない。なお、「もうかい」の「かい」は{王+介}。

●郤慮墓
位干許昌市東20Km許昌県張潘鎮にある。墓高3.5m、敷地900u。保存状態はよい。漢末の人で献帝の近臣だったが、曹操に暗殺計画がばれて殺さ
れた(三国地図:珠海出版社)。

●賈く墓
位干許昌市北10Kmの許昌県尚集鎮崗朱村東にある。墓の高さは10m、敷地3300uというから広い(三国地図:珠海出版社)。墓からはいくつかの出
土品がでているが、今は許昌博物館に保存されているとのこと。賈くは主君を変えつつ最後は曹操の名参謀となる。策士という言葉がぴったりの人物。乱世
の中、77歳まで生きたのは立派。なお、「かく」の「く」は{言+羽}と書く。

●華佗墓(漢神医華公墓)
許昌の北15Kmにあり許昌県蘇橋鎮石寨村の石梁河西岸にある。三国時代の名医華佗の墓。華佗は、演義では、曹操の病を治すために開頭手術をし
ようとしたが「殺す気か!」と曹操の逆鱗に触れ、投獄されて殺された。実際は、曹操に召しかかえられるのが嫌で、故郷にこもって出てこなかったため、曹操
の怒りに触れて獄死した。墓地の近くにはナイスネーミングの哭佗河(こくだがわ)が流れている。なお、許昌県地図に掲載されている。

●馬騰墓
許昌の北10Kmの許昌県蘇橋鎮にある(華佗墓の北)。馬騰は後漢建国の名将馬援の子孫で西涼太守であったが、曹操暗殺計画がばれて、曹操にお
びき出されて殺された。ここの墓碑は221年没と記載されているが、これでは曹操より長生きしていることになり、誤記である。実際は210年没。馬騰の死
後、息子の馬超は兵を起こして曹操に対抗するがあえなく撃沈し、劉備の傘下に入る。

<許昌市長葛市>
●射鹿台
「許田の巻狩り」で有名な許田村にある。ここは演義遺跡なのでフィクションだ。しかし、立派な石碑があるから事実かと思わせる。まだ曹操と劉備の仲がい
いとき(表面上)、曹操が献帝の弓をひったくって射止め、献帝にかわって俺がやった!と威張る。それを見た関羽は激怒して、あやうく曹操に討ちかかろうとし
たので、あわてて劉備がいさめる。それから劉備は曹操から離れていくことになる。
なお、この近くには「董妃墓」がある。彼女は、曹操暗殺計画の首謀者董承の妹で献帝が寵愛した側室。しかし、暗殺計画がバレて曹操に惨殺されてしま
った。劉備もこのメンバーに入っていたが、体よくトンズラしていた。なお、これもフィクションのようだ。


【シ累河市】いずれの三国遺跡もシ累河市の北西部であるが、許昌市街からなら公道をまっすぐ南下。約20Km。
●受禅台
許昌の南方15Kmの臨潁県繁城回族鎮にあり、今や高さ20mほどの黄土の丘。220年に曹丕が献帝から帝位の禅譲を受けたところ。というか無理やり奪っ
て曹魏を建国した。それに怒った劉備が翌年に即位して蜀漢を建国するが、220年が実質的な後漢の滅亡だ。

●献帝廟
位干許昌市西南17Kmの臨潁県繁城回族鎮にある。繁城文化館には「勧進表」と「受禅表」の2碑が保存されている。前者は群臣が連名で曹丕に皇帝
になるように勧めた文章、後者は献帝譲位のいきさつを記した文章が彫っている。どちらも文章は御史大夫の王朗、文字は名書家の梁鵠、彫刻は名書家
の鍾ようが行ったため三絶碑として有名。三絶碑の石碑もある(三国地図:珠海出版社)。



安陽市滑県
ここは河南省でもほぼ北端に位置するかなり辺鄙な田舎町。拠点都市は隣が河北省という安陽市か、鶴壁市あたりか。なお、安陽市からはバスで南下す
ること3時間という情報あり。こうなれば物好きしか行かないか!?

●白馬古戦場
塔舗村にある。200年、曹操と袁紹の決戦地。ぎょう城(今の河北省南部)から南下した袁紹は黄河北岸の黎陽に集結し、曹操の前線基地、白馬城に
襲いかかった。しかし、曹操の巧みな戦術により、袁紹軍きっての猛将、顔良を撃沈し、曹操軍が緒戦を制した。なお、当時、黄河は白馬の北側にあった
が、今は白馬のはるか南を流れている。なお、今でも当時の堤防跡が残っており、高さが3mで幅が2.5kmときわめていびつな堤防だ。洪水で土堤がえぐられ
ても決壊しないようにした当時の知恵だろう。なお、この時代、黄河の堤防を王堤といい、ここも昔は王堤村と言われていた。


新郷市延津県
●延津古戦場
白馬から南西に約50Kmのところにある。白馬の戦いのあと、曹操軍は延津でまたもや袁紹軍を撃沈した。ここで、白馬の顔良に引き続き、袁紹軍きっての
猛将、文醜を失ってしまう。諸説あるが、顔良も文醜も、曹操に一時降っていた関羽が斬ったことになっている。


<参考文献はこちら>

トップページへ                                                        三国志データベースへ戻る